北大事務局=文科省北海道出張所
大学紛争と文部科学省の茶坊主集団の話

『文科省北海道出張所』 大学紛争と文部科学省の茶坊主集団の話
北大紛争後、北大を文部省北海道出張所と呼ぶ人も居るくらい、北大は文部省の言いなりの大学に変身した> 

(※文部省:現在は文部科学省 ※経理部:現在は財務部)

北大工学部 (撮影 石川栄一)
 私が北大に勤めることになったのは、1968年の5月であった。それは、ある日、市電(路面電車)の中で、高校時代の恩師に会ったのが切っ掛けである。恩師は当時、北大の応用電気研究所の吉本教授(医学博士と工学博士の二つの学位を持っていた)のところで研究をしており、吉本研究室では、技術職員(文部技官)を求めていると言われた。

 その頃、私は国家公務員採用試験に合格しており、自宅宛に北海道警察通信部や苫小牧高専などから面接通知が届いていた。いずれも、気乗りしなかったため、恩師の誘いを受け入れ、吉本教授と面接することになった。
ところが、技術職員を求めているのは、応用電気研究所ではなく、工学部電気工学科の電気回路工学講座だと言われ、吉本教授からは、応用電気研究所に空きができたら、戻ってきて欲しいと慰められた。
私としてみれば、電気と電子関係の仕事が出来れば、どちらでも良かった。
翌日、電気回路工学講座の安田教授と面接した。

 しかし、安田教授は、3月に助手を採用したばかりなので、空きがないと言うのである。どうやら安田教授は、助手(教育職)と技術職員「文部技官」(一般職)を同様に見ていたらしい。安田教授は続けて、「電気機械第二講座の田川教授のところで技術職員を求めているので、連絡をしておいた」と述べた。
しばらくして、田川教授がやってきたので、挨拶をした。田川教授は、精密工学科出身の36歳で、教授になったばかりであった。
 翌日、赴任のため、学科主任の小池教授と人事係長の二人と面談をした。
その後、助手に引率されて、電気工学科の各教授室を挨拶回りをした。
それが終了してから、助教授が私の部屋となる実験室に案内してくれた。助教授はまだ26歳で、無整流子電動機の研究をしていた。

 実験室に行くに伴って、だんだんと暗くなってきた。べつに夜になったわけではなく、大実験室は、大正時代の建物が、そのままの状態で保存されているような、博物館的状態であった。大実験室には、発電所にあるような、馬鹿でかい発電機やモーターが所狭しと並んでいた。最初の印象としては、大学ではなく、まるで工場であった。
電気機械第二講座 実験室でのコンパの風景 (撮影 石川栄一)
 こんなところで、学生や院生が研究ができるんだろうかと思っていたら、うち(電気機械第二)の大学院生が、4人もいたのである。その中には、JR北海道の会長や特別顧問を務めた柿沼博彦(現在、道都大学美術学部客員教授)さんもいた。柿沼さんは、デュアル・モード・ビークル(DMV)の開発指揮者として有名である。
大学院生と言っても、いずれも技術職員の私よりも年上であった。
柿沼さんは、正義感の強い人で、いつも私の味方になってくれた。

昭和43年の秋から1年間、田川教授が外国出張で留守となった。この間、助教授が講座主任となった。

私が読み上げた『答辞』拡大
(筆字を書いたのは私の父)
 昭和44年の2月、大学本部で新任職員研修会が開かれ、研修会の終了後、受講者代表として「答辞」を述べた。なぜ私が、受講者代表に選ばれたのか、はっきりとは分からないが、恐らく、私の叔父が、北大事務局の経理部長(当時、その後、旭川医大初代事務局長)だったからだろう。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 その年の4月から、本州では既に下火になっていた大学紛争が始まった。
全共闘(中核派、社学同、反帝学評など)・革マル派などの過激派は、まず教養部を封鎖した。その結果、一般学生の勉学の場と教職員の職場が、失われてしまった。
 工学部では、職員や学生・院生を中心とする封鎖阻止行動委員会(自警団)が組織され、毎日のように泊まり込みを行い、工学部を防衛した。
 過激派は、真夜中から早朝にかけて、攻撃を仕掛け、工学部の窓ガラスを割ったり、火炎瓶を投げつけたりした。そのとき、玄関隣の守衛室から守衛長が出てきて、自警団の私に対し「負ける喧嘩はやめなさいよ」と叫んだ。

 当時、工学部の玄関は、鉄扉で防御されていたため、過激派の進入を阻止できたが、守衛長は、玄関ロビーを大型の懐中電灯で、サーチライトのように照らしながら意味不明な言葉で叫ぶ、過激派に怯え、恐れおののいているようであった。私は、守衛長に後ろに隠れるよう指示した。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 ある日、工学部の自警団、約50人が過激派を迎え撃つために、工学部前庭の北側と南側に分かれて待機した。そして、午前3時頃、結核研究所の2階の一室で、封鎖された教養部を見張っていた自警団の偵察員から、過激派が工学部に向かったという連絡が入った。

 数分後、過激派、約30名が隊列を組んで「帝大解体!民青殺せ!」などと叫びながら、工学部玄関までやってきた。前庭の樹木の陰に隠れている自警団には気づいていないようであった。
 そして、過激派が工学部の玄関ガラスを割り始めたとき、前庭南側で待機していた自警団の一隊が「ワァー!」という気勢を上げて、過激派めがけて突撃した。それと同時に、北側の自警団も突撃した。この作戦により過激派は、鉄パイプを投げ捨てて尻尾を巻いて逃げ出した。どういう訳か、火炎瓶は投げ捨てなかった。おそらく、作るのにカネがかかっているせいだろう。

 数人の過激派メンバーが投降した。自警団はその過激派の名前と住所、所属を厳しく追及した。ある過激派メンバーは北大生ではなく、明治大学生だと述べた。また、両親の氏名や電話番号も話したため、早速、電話をしたところ、まだ朝の5時だというのに、家族全員がタクシーで駆けつけた。
しかし、家族は「自分の息子ではありません」と述べた。

 どうやら、明治大学生と名乗る過激派メンバーは、自分の氏名ではなく、友人の氏名を述べたと思われる。このような学生が、いくら世直しだとか、正義を主張したとしても、全く説得力がないのである。
自警団は、その過激派メンバーに、過激派持参の火炎瓶を持たせて、証拠写真を撮影した後、解放した。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 その後の北大紛争は、北大以外からも多くの過激派が参加し、北大を混乱に陥れた。中には高校生の過激派や社会人の過激派もいた。

 特に理学部は、過激派から、連日のように襲われた。その理由は、堀内学長が理学部の出身であったからだ。また、堀内学長が「過激派はナチスドイツの突撃隊と同じようなものだ」と述べたことが、過激派から反感を買ったらしいが、過激派としては、目的が達成できれば、理由はどうでも良かったのかも知れない。

 こんな事があった。工学部の学部長室で、堀内学長が、大野工学部長と大学紛争の収拾について、相談したことがあった。その会談後の夜の10時頃、自警団長から私に、工学部から理学部までの護衛を依頼された。その時、護衛する人物が誰なのか聞かされなかった。それは、学内が危険であったからだ。

 工学部の裏玄関(職員食堂の前)で、待っていたら、頭がすっぽりと入るくらいの大きな帽子をかぶった人物が現れた。裏玄関から外に出たとき、顔がチラッと見えた。その人物は写真でよく見る堀内学長であった。
私は、もう一人の学生と共に、工学部の裏を通り、学長を理学部まで送った。
北大は、学長が正面玄関から出入りできないくらい異常な状態であった。

 このような状態を打開するために、北大から全共闘や革マル派などの過激派を一掃する必要があった。そのために、まず、教職員組合と院生協議会や北大学連を中心とする全学共闘会議は、過激派に占拠されている法文系の建物の封鎖を解除することだった。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 そして、1969年10月30日(木曜日)、法文系の封鎖解除を決行することになったが、この事は自警団には伏せられていた。
当日は、風もなく、空は湖水のように澄んで、「理性の府」は誠に、平和そのものであった。

 昼休み、工学部前にて、過激派による大学封鎖に抗議する全北大集会が行われ、集会の参加者は、理学部付近をデモ行進した。教官団は、過激派に対し封鎖自主解除を要請したが、それに対し過激派は放水で応えた。

 午後2時、別働隊の工学部自警団は、プラカードを掲げながら教育学部の裏に回った。その時、過激派は、教育学部の裏階段から投石を始めた。私のプラカードにも拳大の石が命中したとき、プラカードの板が吹っ飛び、うまい具合に、持っていた棒だけが残った。その棒を持って教育学部の2階から突入した。

 裏口を警備していた過激派は、法文系の建物内を逃げ回った。
自警団は法文系校舎の殆どを封鎖解除した。法文系の学部内において屋内戦が展開され、劣勢に陥った過激派は、小瓶に詰めた塩酸や硫酸を投げつけた。自警団が2階から3階に上がろうとしたとき、階段からジューという音を立てて白いガスのようなものが上がった。自警団は危険を察知して、しばらく留まった。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 各教室の中はメチャクチャで、中には、竹を割って作った手製の弓矢が、山ほど積んである教室もあった。しかし、矢を見て笑ってしまった。ほとんどの矢が曲がっていたのである。これでは矢を放っても、まっすぐに飛ばずに、ブーメランのように戻って来るのではないか。
 経済学部の窓からそとを見たら、デモ隊と過激派が投石合戦をしているのが見えた。屋外では大学構内のほぼ全域で、過激派集団と教職員学生が激突した。双方で負傷者が続出した。私も負傷者の一人である。
封鎖解除の最中、法学部の屋上から飛んできた石が、私の足の甲に命中したのである。だが、石が当たったときは、それほど痛くはなかった。
午後5時頃、北大事務局の隣にあった教職員組合の書記局が、過激派に攻撃されているという連絡を受けたため救援に向かった。
 工学部自警団は、書記局にいた職員の救出に成功し、午後7時頃、工学部に引き上げた。それから翌朝まで、再封鎖そして封鎖解除が繰り返された。
初めのうちは、それほど痛くはなかった私の足の甲は、次第に痛みを増してきた。その時、過激派が法文系校舎を再封鎖したという連絡が入ったため、再封鎖解除のため、工学部自警団は理学部に行き、そこで待機した。
 夜中の午前0時頃、過激派進入阻止のため、北大の中央通り(当時はゲバルト街道と呼んだ)にバリケードを築いた。深夜、午前1時、私は足が痛むため、助手のTさんの肩を借りながら、工学部に戻った。足が燃えるように痛かった。床中で、「見通し暗いでや」とか「封鎖を解除したぞ」という仲間の声が聞こえた。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 その朝、病院に行くよう同僚に進められ、足を引きづりながら北大病院の整形外科に行った。すると、教職員と一般学生の患者入り口と、過激派の患者入り口が分かれていたのには驚いた。更に、教職員の患者は個室で待たされた。これは、病院内で争いになったら、収拾がつかなくなるため、その対策なんだろう。

1969年11月8日、機動隊の導入で、過激派による北大封鎖は解除され、一応、北大紛争が終結した。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 北大紛争の終結後、台頭したのは、北大事務局である。「文部省北海道出張所」と呼ぶ人も居るくらい、北大は文部省の言いなりの大学に変身したのである。まず、北大事務局がやったことは、教職員組合つぶしと、学生団体(北大学連など)つぶしである。

 北大紛争の最中、北大事務局を中心とする大学管理機構は、何もできなかった。北大事務局の職員は、書類を学外へ持ち出すことと、封鎖されていない学部を逃げ回ることしか能がなかったのである。
 また、北大事務局は、警察との繋がりを綿密とした。文部省と北警察署への詳細な報告である。
ある職員は、最も力を入れたのは、文部省の指導に基づき国家権力(警察)の導入を、学長や評議会へ「進言」することであったという。
北大教職員組合は、文部省からの干渉に反対し、北大自治の拡大を求めてきたが、Yという庶務課長が文部省から派遣され、文部省の支配が一層強まった。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 北大事務局による「教職員組合つぶし」では、労働者の生活と権利を守るためのストライキに対し、文部省や政府関係者等は「公務員の争議行為は違法だ」とする不当な攻撃をかけ、北大でも、事務長以下、庶務や人事関係の職員などが総出で「現認」と称して、組合潰しに奔走したのであった。

 ストライキに参加した職員よりも「教職員組合つぶし」のために「現認」行動に参加した北大事務局や学部職員の方が多かったのだ。
札幌市中央区の理美容会館で行った集会では、会館を取り巻くように、北大事務局や学部事務の現認隊が取り囲み、集会参加者の写真を撮っていた。

 教職員組合の集会場所や時間は、組合員しか分からないはずだが、北大事務局は、組合内に内通者を配置して、組合の情報をつかんでいたのである。
こんなこともある。整備員が、学科事務の主任にまで上り詰めたという、本来なら有り得ない例もある。

 また、30分程度のストライキに参加した職員を、賃金カットするのであるが、「孫子の兵法」のごとく、用務員のおばさんなど、まず、弱いところから切り崩したのである。30分程度の賃金カットは、当時は、150円程度であるが、用務員のおばさんにしてみれば、気分が良いことではない。この事で、用務員室は、二つに分断された。

 北大事務局や学部職員が、集会の参加者を「現認」したといっても、参加をしていないのに「現認」されたという職員も多いので、如何に、いい加減な調査であったかが分かる。
私も、一度だけ、集会に参加をしていないのに「現認」された事がある。
つまり、北大事務局や学部職員の現認隊が、「あいつは集会に参加したに違いない」と決めつければ、「現認」したことになったのである。

 一方、工学部事務部の現認隊の隊長であったM事務長は、工学部全教職員に「ガン保険」の文書を配布し加入を勧めていた。これは、事務長という立場を利用した行為であり、違法ではないのだろうか。
 当時(1974年頃)は、まだガン保険の出始めだった。これは、アメリカンファミリー生命保険会社代理店の場合だが、ガン保険の勧誘にきた担当者は、「M事務部長からの要望です」と言うので、仕方なくガン保険に入った。
当時、M事務部長の要請で、ガン保険に入った教職員は相当いたと思う。

 M事務長のあだ名は『片眼のジャック』とか『ノモンハンの生き残り』など色々あったが、良い評判は一度も聞いたことがない。
また、事務長第一補佐のO氏は、創価学会員、第二補佐のT氏は、共産党員であったため、バランスがとれていたのかも知れない。
そのため、北大事務局の情報は、各方面に筒抜けであった。文部省の茶坊主集団である北大事務局や学部職員が「公務員の争議行為は違法だ」と言う前に、身内の身体検査をした方が良いだろう。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 私と事務職員との関係は、北大に勤めたときから始まる。
昭和43年当時は、給料日になると、学科事務の職員が、学科教職員全員の給料袋を持って、配って歩いていた。事務職員は給料配達員と思ったこともあり、給料日が来るのが楽しみであった。

 また、北工会に「レコード鑑賞会」というサークルがあった。そこでも事務職員の手助けを受けて、会長をすることになった。
 自慢話になるが、毎週水曜日、昼休みにレコードコンサートを行い、会長を退任するまで、274回ものコンサートを開催した。
文化祭には、毎年、大会議室にてレコードコンサートを行い、500名以上の入場者を数えた。大学祭には工学部前庭でプロムナードコンサート、12月にはクラーク会館でダンスパーティを開催した。会員の中には、現在、札幌トヨタ自動車会長の相茶俊介氏もいた。彼は、私がレコード鑑賞会の会長を辞めるとき、惜しんでくれた。レコード鑑賞会はぜひ続けて欲しいとも言われた。

 これらも、すべて、事務職員の支援があって成功したのである。「組合潰し」に奔走した北大事務局や学部の職員とは一把ひとからげにはできない。
 特に、事務職員のOさんには、並々ならぬお世話になった。しかし、そのOさんは不慮の事故で失明してしまった。そのため私は、視覚障害者になったOさんのパソコンのサポートを、10年くらい行ってきたが、あることを切欠として、それをやめた。
 そもそも、Oさんが所属する事務部が、もっと責任を持って視覚障害者の対応しなければならないのに、ほったらかしにしているように思えた。
彼が、交通事故で視覚障害者になった当初は、周りの事務職員が支援をしていたようだが、いつのまにか、Oさんを放置するようになっていった。

 しかし、私のような工学部の技術職員が、他部署の視覚障害者の支援をして良いものか疑問を感じてはいたが、放っても置けないので、出来る限りのことはしたと思っている。
 そのOさんは、札幌の私立大学を(法学部と経済学部)二学部卒業し、更に国家公務員採用試験Ⅰ種に合格しており、部長クラスまで昇進できる実力があったと言われている。

 さて、視覚障害者になった、Oさんのサポートをやめる事にしたその理由は、残念なことに私の支援が当たり前になってしまったという事だ。
 例えば、Oさんの職場や自宅のパソコンに音声装置を備え付けたり、ソフトの使い方の説明や、インターネットのセッティング、パソコンのサポート等は、私の好意で行ったが、いつの間にか、それが当たり前になり、最終的には事務部からではなく、Oさんからの要求になってしまった。

 Oさんは、もともと技術職員だったので、私との意思の疎通は円滑だった。
しかし、Oさんは、ガン保険で有名なM事務長の推薦で、北大事務局に異動することになった。当時、学部から北大事務局に異動すると言うことは、事務職員にとって、立身出世のための第一段階だったそうだ。
最終的には、文部省に異動し、キャリア官僚の仲間入りをする事が夢だったようだが、東大卒の文部省採用でなければその願いは無理だと思った。

 それよりも問題は、Oさんが北大事務局に異動したときも、教職員組合に所属していたため、M事務長から「俺の顔に泥を塗るつもりか」と怒鳴られたという。つまり、M事務長は「組合をやめろ」と言うと問題になるため、「俺の顔に泥を塗るつもりか」と言って、組合をやめさせたのである。

私にも、同じような経験がある。
叔父(私の父の姉の旦那)が、北大事務局の経理部長をしていたとき、「施設部の方に来ないか」と誘われたことがある。と同時に「組合に入っているとダメだ」とも言われた。やはり、北大が「文部省北海道出張所」と呼ばれるだけあって、文部省の茶坊主集団である北大事務局の組合嫌いには、一段と磨きがかかっていたようだ。

公務員の争議行為は違法だ」などと不当な攻撃をかけ、組合潰しに奔走した現認隊の中心的存在であった、K氏やI氏は、定年退職後、六〇代で死亡した。
おそらく「組合潰し」に躍起になり過ぎて、寿命を縮めたせいだろう。

 (出典)写真でつづる北大職祖50年
 そもそも、北大事務局や事務部職員と、研究室の教職員とは昇進のための条件が大きく異なっている。
例えば、研究室の助教授(現在は准教授)や助手(現在は助教)そして、技術職員は、研究論文や講演などで、実績が認められれば、博士号を取得することもでき、昇進の道が開ける。
一方、事務系職員は、文部科学省の指示通り動かなければ、出世ができないだけではなく、地方に左遷される可能性もある。

 従って、文部科学省が「右向けば右、左を向けば左」と、いいなりにならざるを得ないのである。当然の事ながら、文部科学省は、時の政府である自民党の悪政のために動くため、教職員はたまったものではない。

 北大事務局や事務部職員は、「善悪」ではなく、「損得」で動いているようにも思える。現認隊の中心的存在であった、K氏やI氏は、組合潰しの成果が認められ、それぞれ事務長や事務部長へと栄華栄達を果たしたように見えたが、早死にした。天は人の行為の善悪を見ているのかも知れない。

 教職員組合は、教職員の生活と権利を守る闘いを中心に、日米安保反対、沖縄基地問題、ベトナム反戦運動、消費税導入反対、スト権奪還、文科省検定教科書問題、年金改悪問題など、諸問題の解決を訴えた。

 それに対して、文部科学省の茶坊主集団は、「現認」と称して「組合潰しに奔走」したことは、絶対に許される事ではない。

 時代劇のセリフではないが、弱き職員を弾圧した「現認隊」には、もはや見る夢はないのである。地獄の果てまで追い詰め「弱き職員の生き血をすすり、不埒な現認行動、醜い茶坊主集団は、迷わず地獄に堕ちるがよい」とでも言ってやりたい。

最後に一言。
私は、教職員組合の執行委員などの経験は、一度もないことを述べておく。
また私は、「事務部主導による技術部の創設に組合員が協力」したことに対し、異議を唱え、1990年代に教職員組合を脱退した。
2015/03/16
石川 栄一
過激派による理学部襲撃、抗議デモ、封鎖解除、機動隊導入の記録映像
『文部省北海道出張所』 大学紛争と文部科学省の茶坊主集団の話 (保存PDFファイル)
目次
笑うなかれ、怒るなかれ
天下無双の名教授列伝

北大工学部 大野池
 現在、多くの大学では、圧倒的多数である教職員の意向を無視して、大学改革と称した大改悪を推し進めているが、その中核となっているのが、総長(学長)や副学長、そして教授という人達である。
 大学改革の問題点は多々あるが、その代表的なものとして、

1.教員の研究費や非常勤講師手当の削減
 法人化初年度から、大学では 各研究室の教育研究費の半減や非常勤講師
 賃金の減額などが続出している。
2.「役員会の姿が見えない」あるいは「財政などの情報が公開されない
 といった役員会の密室化。
3.連日のように遅くまで業務をしても、残業手当が一円もつかないサー
 ビス残業
(法人化まで続いた)。その結果、いずれ身体が持たない職員
 が大勢出てくるのは、時間の問題である。
4.法人化によって教員任期制の導入が推進
 つまり、三~五年の任期がきたら失職する任期制の導入。これでは生活設
 計が出来ないため、結婚も遠のくし、家のローンも組めない。

 これらの問題は、過去の封建的な大学(師弟関係や研究室の家父長制など、医
 歯系では白い巨塔と呼ばれてきた)の歴史から生じたものといえる。


北大工学部 大野池で遊ぶカモ

 現代の教授は、昔と比べると、かなり民主的になってきているように思えるが、その反面、権力、特に人事権や予算を握っている者に対しては、非常に弱い人達が多い。「カネ」に弱いのである。
 つまり、自分よりも強いものには逆らわないが、自分より目下の者に対しては、態度が極端に大きくなるのである。
 昔の教授は、親分肌の人もいて、目下の者に対しては、面倒見が良かったようである。
 しかし、かつて北大工学部の玄関が、教授専用玄関一般職員玄関と別々に分かれていたこともあり、教授は特権階級であった。
 また、電気工学科には「一般職員とは同席しない」という、K教授もいた。
 昭和43年春、私が北大工学部 電気工学科に配属が決まり、学科の教授の部屋に挨拶回りをしたときのことである。
 私は、配属講座の助手に引率されながら、各教授室に挨拶に出向くのだが、それには、偉い教授からという順番があるというのである。
 職種が教授であっても、上、中、下といったランクがあったのである。例えば、先輩と後輩でも、先輩教授のほうがランクが上であった。
 私は、赴任の挨拶だから、順番はどうでも良いと思っていたが、そんなことをすると、うちの講座の教授に迷惑がかかるそうである。
 これ自体が、大学という組織で最大の疑問であった。


北海道大学 中央ローン

 さて、大学に赴任して数ヶ月後、O(オ)名誉教授という人物が、度々私の実験室に工作を頼みに来たことがあった。
 工作といっても、金属に10ミリ程度の穴を開けるのみであったが、鋼のように、たいへん堅い金属だったため、結構時間を要した。O名誉教授はヘリコプターの研究をしているようであった。
 名誉教授と呼ばれるくらいだから、凄く偉い人物だと思っていたら、北大工学部に教授としての在任期間が20年以上あると、誰でも名誉教授の称号が与えられたようである。
 そのO名誉教授の工作を、数日間手伝ったある日、私は実験室に施錠して組合の会議に出席したことがあった。
 大学院生から聞いた話だが、そのことが、O名誉教授としては気に入らなかったらしく、酷く怒っていたそうである。挙げ句に「あの技官は労働組合員で悪党だ」と言い残して帰ったそうである。
 当時(1970年代)の北大職組の組織率は、30%程度だったが、技官の組織率は70%以上あったようだ。
しかし、私は、事務部主導による、技術部の立ち上げに反対して、教職員組合を脱退した後は、技官の組織率が、何%なのかは分からない。


北大農学部

 1970年代に入ると、70年安保反対闘争が始まった。
 私は昼休み、安保反対署名を集めに回った。そうしたなかで凄いと思ったのは、電気回路工学のY教授の発言である。
 私が、憲法九条の戦争放棄の会話をしようと思ったが、Y教授曰く「皆さんはそのように(戦争の放棄を)教わったのかも知れませんが、私は違います。」という素っ気ない返答であった。
 そしてY教授は、少し間を置いてから「教授は皆、ノーベル賞を目指して研究をしています。」と、きたもんだ。
 私は、そこで、教授は偉いんだなあ、とは決して思わなかったが、安保条約とノーベル賞と、どのような関係があるのかを知りたかった。
 つまり、おそらく、Y教授は、”我々はノーベル賞を目指している。いま70年安保を闘っている貴方とは違うのだ。”、と言いたかったのだろう。

 それから数年後、Y教授は北大を定年退職したが、教授の在任期間が、20年に満たなかったため名誉教授の称号は与えられなかった。
 恐らく、(Y教授は)NHKでの在任期間の方が長かったせいだろう。
 その後、Y教授は、ひっきりなしに私の研究室に訪れるようになった。
しかも、わざわざ東京都世田谷からである。
 Y教授は「私は日航の株主だから、航空機の優待券で安く利用できるんです」などと自慢げに話していたが、私は、日航の経営破綻の原因にもなるのではないかと思った。案の定、日航は、それからまもなくして経営破綻した。

 Y教授は、定年退職後、東京のアルミホイールメーカーの顧問になり、その設計のために、私からCADソフト関係の説明を受けたかったようである。
しかし、Y教授は何のためらいもなく、J社とA社のコピーソフトを使っていたのが気になった。そんなある日、Y教授と、うちの助手と三人でウナギ屋に行って、うな丼をご馳走になったが、あまり美味しくなかったような記憶がある。


北大工学部 大野池のカモ

 1980年代に入ると、教職員の入れ替わりが激しくなってきた。
 そうした中、T助教授がカナダに外国出張することになった。
 カナダのS大学からはT助教授から、実験依頼や計算依頼が、毎日のように送られてきた。私は、それに沿って北大での実験結果や計算センターでの計算結果を返送した。こんなことが2年間続いた。
 T助教授は、短編も含めると二年間で三十編以上の論文を書くことが出来たと喜んでくれた。私も嬉しかった。
 また、10年近く一緒に仕事をした同じ講座のY助手も、教育大学に転勤することとなった。


北大工学部正面

 最近は、よくセクハラという言葉を耳にするが、それによって処分を受けた教授もいるようである。しかし、いまから20年以上も前になると、セクハラという用語さえ知らなかった教授も多い。

 工学部では、まずセクハラ教授で筆頭に上げられたのは、I教授であった。
I教授は、自身が雇用した女性秘書に手を出して裁判沙汰にもなったようであるが、どういう訳か、警察沙汰にも新聞沙汰にもならなかったのが、当時(1970~1980年代)の大学の特徴でもある。

 また、例年、年度末になれば、慣例のように教職員の歓送迎会があった。歓送迎会が盛会のうちに終わった時である。
 皆が席を立った時、T教授(1980年代、同学科に頭文字がTの教授が、三人在籍)は、いきなり主賓の女性秘書の上司の教授(同じくT教授)に対し「この女性の手を握っても良いですか」と聞いたのである。
 私は、それほど女性の手を握りたかったら、直接その女性に問いかけるべきだろうと思っていたら、女性秘書の上司の教授は、すかさず「握ってもいいですよ」と答えたのである。その言葉を聞いた私は、女性秘書というのは教授の所有物のように思った。
 このような行為は、セクハラになるのかどうか、私には分かりませんでしたが、T教授はたいへん喜び、女性秘書の手をギュッと握りしめたのであった。
 この事について、周囲にいた教職員も何も言わなかったし、当時は、そのようなことが罷り通る時代でもあった。


北海道大学 銀杏並木

 「教授は皆、ノーベル賞を目指して研究をしています。」などと名言を言い残して、Y教授が定年退官したその後釜に就任した教授は「技官を退治する」と言いながら、工学部内を回っていたF教授であった。

 F教授は、私の父親の後輩(旧制北海中学時代)であったため、技官の私に対しては、退治という言葉は一度も使わなかった。
 退治という言葉を使ったのは、技官に対してだけではなかった。
 F教授は「助手の三羽烏を退治した」という悪口雑言を吐いて回ったため、原子工学科など、他の学科でも有名であった。
 F教授は、原子工学科のY教授から「そのような事を言うと、教職員から嫌われますよ」と窘められるほどであった。
 そもそも「助手の三羽烏」と呼ばれていた助手は、既に亡くなっていたか、あるいは退官した助手であった。

 どうやらF教授は、自分より地位の低い者や、論敵に対しては、このように悪口雑言を並べ立てたらしい。しかも、対象者がいない場所で悪口をたたくのだから、かなりの小心者であったことには間違いない。
 しかし「技官を退治する」とか「助手の三羽烏を退治した」と大口を叩いていたF教授も、数年後、60代で亡くなった。


北大工学部 大野池

 さて、小心者と言える教授は他にもいた。
 旧学科制の頃は、毎年、講座(研究室)の持ち回りでレクレーションを計画していた。昭和43年には、泊り掛けで、然別湖に旅行にいったこともあった。
 私の研究室が幹事を担当したのは、4~5回あったが、一番思い出に残ったレクレーションは、積丹に行ったときで、海の幸で会食をした事であった。
40名くらいの参加で、三時間かけて現地に到着したとき事件が起きた。貸し切りバスの運転手が、路肩にバスを寄せすぎたためか、K講座のH助手が運が悪く、防波堤から約5メートル下の波打際まで滑り落ちてしまったのだ。

 H助手が怪我をしたようなので、幹事講座の職員(私とT助手)が、近くの病院まで、K講座のH助手を連れて行った。運良く、擦り傷程度であった。
 そして数時間後、海の家で会食をして、皆、ほろ酔い気分で帰途についた。ところが酒に弱い私は、ほろ酔いではなく酩酊状態であった。私は、海の家に免許証などが入った上着を忘れて帰ってしまった。気が付いたのは、工学部に着いてからだった。私は弟に電話し、積丹までクルマの手配と運転を頼んだ。


北海道大学 古河記念講堂

 その後、K講座のT教授が問題にしたのは、H助手の怪我の件であった。T教授の抗議の内容は「部下のH助手が怪我をしたのは、バスの運転手が路肩に寄せすぎたのが原因なのだから、バス会社に補償させるよう交渉できないか」という趣旨だった。
 幹事講座であった、うちの助手が「そんなことは当事者同士で行うべきだ」と言ったら、T教授は「幹事講座が責任を取るべきだ」と反論してきた。
 その為、うちの講座から、バス会社に対し、怪我人の補償をするよう申し入れたら、「落ちる方が悪い」などと簡単に断られてしまった。

 交渉の経緯をK講座のT教授に伝えたら、今度は、事もあろうに「石川技官(私)がH助手を突き落としたようだから補償するよう伝えて欲しい」ときたのである。
 そもそも、バスの一番後ろの席に座っていた私が、最前席にいたH助手を突き落とせる訳がないのである。K講座のT教授は、それほど他人に責任を擦り付けたいのであれば、自分で行動すべきであったのではないか。こういう教授を小心者と言わずして、何というのであろうか。


北海道大学 中央通り

 小心者といえば、工学部長のK教授(当時)もそうだった。
それは北大紛争の頃である。1969年11月8日の機動隊導入により収まったかのように思えた北大紛争(激動の北大史)だが、1970年代に入ってからも、工学部が断続的に過激派の学生に封鎖されることがあった。
 私は、その過激派に対し「封鎖を解除して、勉学に励んだらどうか」と抗議したら、その学生が、私に殴りかかってきた。
 それを見ていた工学部長のK教授は、殴りかかった学生を注意しないで、殴られた私に「やめなさい」と注意したのであった。これではあべこべではないか。

 このK教授は、学長(総長)選挙でも、有力候補の一人であったが、結局、落選した。またK教授は、工学部長選挙で当選しても、暫く工学部長にもなれずに、工学部事務取扱「ジムトリ」を数年間続けざるをえなかった。その理由は、非民主的な学部長選挙制度を、多くの教職員がボイコットしたからであった。

 教授会は、近い将来、全教職員に対し一次選挙権を与えるという約束をしたが、O(オ)学部長の時、文部省の介入によって、全てご破算になった。
このO学部長は、原子工学科の教授で、あだ名を「ポチ」と呼んだ。その訳は、姓名の「名」がそう読めたからである。このO学部長は、北大の評議会でも、おかしげな主張をするために、当時のA学長(機械工学科教授)からも、安易な発言を控えるように忠告されていたそうである。

 次に、更に大衆の前で恥をさらしたのが、K工学部長(資源開発工学科教授)である。それは、K工学部長が元工学部長の大野名誉教授(工学部大野池を作った教授)の葬儀で、工学部を代表して、弔辞を読んだ時のことである。
 K工学部長は、どこをどう間違えたのか「弔辞(ちょうじ)」と読まずに、こともあろうに「祝辞(しゅくじ)」と読んでしまったのである。しかも、300人以上の弔問客の前で「祝辞(しゅくじ)」と読んでしまったのだから、工学部長としての見識や格式が、地に落ちてしまったようなものである。

工学部前庭

 また、教授の一般常識、価値観、判断力にも不可解な事も多かった。
 当時(1980年代~)は、工学部内にもPCコピーソフトが氾濫し、オリジナルのソフトが、どこにあるのか分からないような状況であった。
そもそも、工学部長(T教授)がワープロソフト一太郎のコピーソフトを持って、私に年賀状の作成や印刷方法を尋ねに来るのだから、もう終わっている
このように、大学民主化の以前に、まず、一般常識を身につけることが先決であったのかも知れない。

 さて、教授会では、全教職員に対して発行した覚え書き文書では「各研究室でも教職員との意思の疏通をはかる」と学部運営を民主化することも呈示されたが、現在では、それさえも反故にされている。
これが、当時の教授や教授会の実態である。


クラーク像

 また、旧原子工学科に、I教授というユニークな教授が居た。
 そのI教授は、戦時中、旧日本海軍にいたので、私が「海軍司令長官」というあだ名を付けてあげた。例えば、こんな事があった。

 昼休み、私がバンデグラフ研究室の前で洗車をしていたところ、どこからか、I教授が現れ、「ここは洗車場ではないぞ、やめなさい」と注意を受けた。
 私は、あと2~3分で終わるため洗車を続けていたら、I教授が、リニアック研究室の方から戻ってきて、立入禁止の標識(放射能標識)を指差しながら「この標識が目に入らぬか」と私を怒鳴りつけた。それに対し私は、聞こえないふりをして洗車を続けた。

 その後、バンデグラフ研究室の主任技官に聞いたところ、I教授本人も、普段から、ここで洗車をしているという。その時、私は、I教授も例外ではなく、自分自身には甘いんだな~と、つくづく感じたのである。

 本来の大学であれば、自由な研究と教育を発展させる事で、社会に寄与できるのであるが、時の国家権力からの干渉、経済界からの干渉、そして原子力発電や福島第一原発事故、放射能の拡散や汚染水問題、被曝問題など、解決すべき問題は山ほどある。
 そうした状況の中で、全ての教授ではないが、このように、自分には甘く自分よりも地位が低い者には厳しい教授が山ほど居ると言うことは、情けなく、北大の将来を憂えるのである。
 石川 栄一
おわり
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北大工学部 大野池
奇談(第1話)「夜泣き人」
 10年ほど前、私が、胃潰瘍で入院していた時の奇談である。
 夜9時になると、全ての病室は消灯させられるのであるが、どうも病院というところは夜になってもなかなか眠れないものである。
 私の病室は6人部屋で、他の患者さんは肺ガンなどの重症患者ばかりであった。年齢的にも、殆どが私よりも20歳以上も年上で、中には病院内を徘徊してまわる患者もおり、まるで老人病院のようであった。
 また、他の患者さんと会話をしても、昔話的な内容になってしまうのである。しかし完全な昔話なら良いのだが、現在の事と昔の事が、ごちゃ混ぜになるため、何がなんだかわけが分からなくなるのである。
 これもまた良い経験だと思いながら、そろそろ寝ようとしていたある夜、「うぇーん、うぇーん」とどこからか赤ちゃんのような泣き声が聞こえてきた。
 いつまで経っても泣きやまないため、”赤ちゃんの親や看護婦さんは一体何をしているのだろう”と思いつつ、泣き声のする方に行ってみた。

病院の廊下
 北側の端の病室に近づくと、赤ちゃんの泣き声が段々と大きくなってくる。そして、泣き声がする病室の前についたとき、急に静かになった。
 病室のドアは開けっ放しで、カーテンで目隠しをしているだけだったので僅かな隙間から中を覗いてみた。
 しかし、赤ちゃんらしきものは見あたらなかった。
 ただ、ベッドに老婆が一人、寝ているのが見えた。
 私は、”赤ちゃんの泣き声は気のせいだったのか”と思いながら、自分の病室に戻ろうとしたとき、また病室の方から「うぇーん、うぇーん」という泣き声が聞こえた。
 私はビックリし逃げ出したかったが、もう一度その病室の中を見渡すと、なんと、老婆が赤ちゃんの声で泣いているのであった。
 私は気味悪くなって、その場から逃げ出した。
 私と同じ病室の患者さんにこの事を話したら、その老婆のことを詳しく話してくれた。
 その話によると、老婆は3年ほど前に、脳の血管が切れて入院し、一命は取り留めたが、三歳児程度の能力に低下してしまったという。
 その後、老婆の夫が看病していたが、その疲れが響いたためか夫も倒れ、そのまま亡くなったそうである。
 夫が元気だった頃には、老婆も機嫌が良く、周りの患者さん達に、童謡を歌って喜ばせていたそうである。
 しかし、夫が亡くなったことを知ってか知らずか、毎夜、老婆は夫を呼ぶように「うぇーん、うぇーん」と泣いているという。
おわり
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奇談(第2話)「気配」
 今回は、少々怖い話になりますので、本当にトイレに行くのが怖くなるかも知れません。
 さて、どなたでも人の気配を感じることがあるでしょう。
 自分のそばに誰かがいると感じるのは、何か考え事をしている時に多いようです。時には人の気配ではなく、犬や猫の気配を感じることもあります。
しかし、1日に何回も同じ人の気配を感じることは、まずないでしょう。
 今回も、私が入院していた病院での話です。
 私の病室の向かい側に洗面所があり、そこから男子用トイレと女子用トイレ、および身障者用トイレに分かれておりました。
 それぞれのトイレには、1日の尿の量などを調べるための採尿パックが各病室の患者の数だけぶら下げてありました。
 採尿パックには患者の氏名が書いているため、間違って他人の採尿パックに自分の尿を入れ違えることはありません。
 また、掛けてある採尿パックがなくなった場合は、その患者が退院したか、あるいは死亡の場合です。

病院の怪談

 さて、入院してから2週間経ったある日の朝食後、採尿のためトイレで用を足しているときです。
 青白い顔をした患者が、私の隣の便器で用を足しているような気配を感じたのです。しかし周りを見渡しても誰もおりません。
 同日、午前のリハビリの後、小便をもようしてきたためトイレに行きました。その時、またしても、隣に誰かがいるような気配を感じましたが、誰もおりません。何か、いやな予感がしたため、急いで病室に戻りました。  案の定、隣の病室の様子が何か慌ただしいのです。と、いうのは医者や看護師が出たり入ったりしており、また患者の家族らしき人々が、病室の前にたたずんだり、うろついたりしているのです。中には涙を流している家族の姿もありました。
 私は、隣の病室の患者の誰かが危篤状態だという事を察しました。
トイレで私が気配を感じたのは、恐らくこの危篤の患者さんだったのかと思い、一応納得しましたが、冷や汗をかきました。
 しかし、人の気配を感じたのは、これで収まらなかったのです。
 夜、就寝前にトイレに行ったのですが、やはり自分の隣に青白い顔をした人の気配を感じたのです。私は、そそくさとその場を去り、自分の病室に戻り、一体何があったのかと思いながら布団に潜り込みました。
 もう、夜中の11時をまわっておりました。
 その日もなかなか眠れず、うとうとしていたら、今度は反対側の病室が慌ただしくなりました。また誰かが亡くなったらしいことが分かりました。
 やけに死亡者が多い病院だなと思いましたが、今度は自分かも知れないとは思いませんでした。
 翌朝、トイレに行って採尿パックを見たら、私の隣に懸けてあった患者の採尿パックがなくなっておりました。
 やはり昨日、亡くなったのは、この患者かと思い、一応これで安心してトイレに行けると思いました。
 ところが、午後のリハビリが終了後、トイレにいって採尿していたら、また隣の便器で用を足している患者の気配を感じました。
 私は周りを見て驚きました。
 青白い顔をして立っている患者は、なんと自分と同じ顔をしているではありませんか。
 私はビックリ仰天して逃げだそうとしても足が動きません。
 誰かを呼ぼうとしても声も出ないのです。その時、耳元で私を呼ぶ、やさしい声が聞こえたのです。
 目を覚ますと看護師さんが血圧を測りに来ていたのです。
 そうか、夢だったのかと思いましたが、どこからどこまでが夢なのかは、今でも分かりません。
おわり
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奇談(第3話)「白い猫」
 皆さんはペットを飼おうとして、犬か猫か迷った場合どうされます。
 私は断然、犬ですね。犬はペットに限らず様々な方面で活躍しています。例えば盲導犬、警察犬、麻薬探査犬、災害救助犬などなど。
 それに対して猫はどうでしょう。
 昔はネズミを捕るために、猫を飼う家庭が多かったと思いますが、現在はネズミ退治の目的で猫を飼う人は、殆どいないと思われます。
 かつて、ある国の主席が「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕る猫は良い猫だ」と述べたそうですが、私の周りでは、ネズミを捕る猫など聞いたことがありません。従ってその主席の言葉を借りれば、ネズミを捕らないため悪い猫ばかりになってしまいます。
 また、盲導猫とか警察猫なんて聞いたことがないですし、そもそも、日本語入力システムのATOKの辞書には「盲導犬」は登録されていますが「もうどうねこ」は登録されておらず、無理に変換すると「妄動猫」や「盲動猫」になってしまいます。
 それでは、なぜ猫はペットとして飼われるのでしょうか。これは言うまでもなく可愛いですし、人間の思い通りになるからでしょう。
 ところで、私の自宅の付近では、野良猫が住み着いているのですが、飼い猫と違って目つきが悪いのです。
 また、花壇や野菜畑は猫の糞尿だらけになりますし、クルマのボンネットは、爪で傷を付けられるため家族が迷惑を受けているのです。


 さて、私がまだ5歳くらいの頃のお話です。
 札幌市中央区の自宅の前は電車通りで、すぐ近くには路面電車の停留所があり、いま住んでいる西野の高台では考えられないほど、交通の便が良いところでした。
 当時、私の自宅は店舗兼用共同住宅でした。そのうち1戸は電気屋に貸しておりましたが、何故か2~3年で店じまいしてしまいました。
 やがて、私の自宅は電気屋の方に移ることになりました。
 しばらくして、うちに下宿していた私の叔父が、そこで電気屋を始めることになったのです。
 何故、叔父が私の家で電気屋をやることになったのかと言いますと、私の父は鉄道公安官であったため兼業ができなかったのです。その為、名義は叔父で、私の母が店番などをしておりました。
 居間と店舗は、ガラス戸で仕切られていましたが、お客さんが来れば、すぐに分かりました。
 電気屋と申しましても、当時の電化製品は、真空管ラジオと電気蓄音機、略して電蓄、そして電気アイロンくらいで、テレビや電気洗濯機、電気冷蔵庫などは、まだ普及していませんでした。
 昔の、電化製品は壊れやすいものばかりでしたので、修理業という商売はうまくいっていたようです。例えば、電蓄やラジオの真空管交換、アイロンのヒーター交換、また住宅の蛍光灯や白熱灯の取付けや電球の交換などは、かなりの収入になったようです。

 本題に入ります。ある夜、屋外に置いてあった自転車を店舗に入れて、店じまいしてからの話です。
 夜9時を回った頃、居間から店舗の中を見ますと、誰もいないのに自転車の車輪がカラカラカラと回っているのです。
 よく見ると、白い猫が自転車のペダルをクルクルと回しながら遊んでいるように見えるのです。
 いつ店舗の中に入り込んだのだろうか、と思いながら、ガラス戸を開けてみたら、ネコの姿はどこにも見あたりません。
 しかし、ガラス戸を閉めたら、また自転車のペダルを回す白いネコが見えるのです。白い猫を見たのは私だけではなく、両親や叔父も同様に見ているのです。
 特に母親は大騒ぎでした。そして、もう一度ガラス戸を開けて店舗内を見渡しましたが、やはり白いネコはいません。
 今度は、店舗側から居間を眺めてみました。
 すると、ストーブの側に白っぽい干し物が干してあり、暖気の影響なのかヒラヒラと揺れておりました。
 母親はとっさに、白いネコの正体は、この干し物かもしれないと判断し片づけました。
 白いネコの正体は、やはり白っぽい干し物だったのです。
 つまり、その干し物が、店舗に置いてある自転車と合成されてガラス戸に映り、白いネコがペダルをクルクルと回しているように見えたのです。
 しかし何故、犬ではなく、白いネコと決めつけたのでしょうか。
 その理由はこうです。
 非番で休みだった父親が、白い野良猫を捕らえて虐待したらしいのです。 その光景を母親が見ており、大変気にしていたそうです。
 あまり気にするので、ガラス戸に写った干し物が、白いネコに見えるという結果になったのでしょう。
 翌朝、自宅の花畑に、花を見に行った時、白い猫の遺骸がありました。
それを見た私は、やはり昨晩の白い猫は、亡霊だったのかも知れないと、背筋が凍る思いをしました。
おわり
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奇談(第4話)「賀老橋」

 私が子供の頃(昭和20年代)、母の実家はブナ北限の里で有名な黒松内町(当時、黒松内村)にありました。
 黒松内町は、ニセコ町(当時、狩太村)から、車で50分くらいのところで、町の中央を朱太川という大きな川が流れており、夏から秋にかけて、サケやマス、ヤマベやアユ、そしてヤツメウナギなどが収穫できました。
 市街地から2キロくらい離れたところの中里地区賀老橋(がろうばし)という名の橋がかかっており、橋の上から朱太川を見渡すと、子供たちの元気な歓声が聞こえ、楽しそうに河原で魚を取ったり、泳いだりして遊んでいる光景が目に入りました。
 賀老橋を渡り、坂道を少し上がったところに母親の実家がありました。
町に出るときも、近所の家に行くときも、この賀老橋を渡って行きました。


賀老橋

 当時は電気がなく、照明はランプなので、夜になると、ほんのりとした明かりが、幻想的に居間を照らしていました。
 住宅は農家造りで、玄関は広い土間になっており、中央に長い廊下があり、向かって右側に居間と子供部屋、左側に寝室と大きな座敷がありました。
 トイレには、居間と子供部屋の間の廊下を通って行きますが、薄暗くて気持悪かったため、その前まで行っては、用を足せないまま居間に戻り、母親にトイレの前までついて来てもらったのを思い出します。
 ある夏の日、私は賀老橋を渡って、近くの知り合いの家に行こうとしましたが、街灯がないため周りは真暗闇で、おまけにゲロゲロゲロゲロと耳を裂くような沢山のカエルの鳴き声で薄気味悪く、途中で引き返したこともあります。
 賀老橋の反対側には砂崩れという場所があり、放牧している農耕馬が、崖から落ちて死んでいたという話も聞きます。
 また、祖母が「街に買い物に行く」と家を出たと思ったら、すぐに帰ってきたことがあったそうです。
 それは、街に向かって歩いているつもりが、いつの間にか家に戻っていたそうで、祖母は「狐に化かされた」と青ざめた顔をしながら話したのを思いだします。


 また、賀老橋に関わる奇談がありました。
 それは、ある村の子供が、賀老橋の上から、野良ネコを朱太川に投げ捨てたことがあったのです。その日から、その子の様子が変わりました。
 それは、毎日、夜になると、賀老橋から投げ捨てたネコの霊が乗り移ったかのように、寝室を歩き回ったり、壁をよじ登ろうとしたそうです。
 その子の両親は、我が子が、何かの病気にでもかかったと思い、病院で診てもらったようですが、特別異常はないと言われたそうです。
 しかし、その後も毎晩、猫のように部屋中を歩き回るため、その子の両親は祈祷師の所に連れていきました。
 祈祷師は「柳の枝を枕の下に入れて寝かせなさい」と言ったそうです。
 両親は、毎晩、我が子の枕の下に柳の枝を入れて寝かせました。
すると、いつの間にか、部屋中を歩き回ったり、壁をよじ登ろうとすることはなくなったと言うことです。


朱太川

 現在、賀老橋の上から朱太川を見渡しても、河原で遊ぶ子供達の姿はありません。ただ、川の流れる音だけが、懐かしく聞こえてくるのです。
おわり
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自分は不遇か
 私は、もし自分が不幸にみまわれた時、次のように考えて、そういう人達よりも恵まれているのではないかと自分を励ますようにしております。
自分は不遇だと思っていても、世間には恵まれない人々が大勢おります。
 例えば、会社の倒産やリストラなどで職を失った人達。
 現代医学でも原因が分からない難病に冒されている人々。あるいは目が見えない、耳が聞こえないといった身障者の人々。
 そういう人たちが抱えている悩みと比べれば、いまの自分の悩みなど、ぜんぜん軽いものであると思うのです。
 

[不可思議] 日本上吊聖地(富士山樹海)
※這篇口味比較重一點,請未滿18歲的同學先迴避
 このように世間には、いろいろと悩みを抱えた人達が多いと思いますが、そういうときこそ人間の真価が発揮されるときと思います。
 まずは、健康が第一。
 「病は気から」何事も、あまり深く考えない方が良さそうです。
おわり
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別れと出会い
 私の若い頃は、道庁、市役所、新聞社や電気店など、いろいろな職場でアルバイトをしてきたのですが、入る時よりも辞めるときの方が辛かったという思い出があります。
 ドカタなどの肉体労働以外は何でもやりました。その中で、一番、想い出として残っているのは、電気店でのテレビやラジオ修理です。
 当時(昭和30年代)は「真空管式のテレビ」でしたので、テレビが正常に映らない場合は、真空管の交換で殆どのテレビは直りました。
 また、その頃はステレオも出始めでしたね。
 テレビを一台直すと修理代が当時(昭和30年代)のお金で2000円くらいになりました。
 現在、テレビの修理代は、その10倍くらいはかかりますので、買い換えたほうが得かも知れませんね。

北海道庁赤レンガと池
結婚記念日(10月17日)に撮った写真です。
 人生は、生まれるときは出会い、死ぬときは別れですね。やはり、これも別れの方が辛いと思います。
 人間の死亡率は100%ではありますが、今まで元気に過ごされていた人が、いつの間にか亡くなると言うのは、本当に辛いですね。
 しかし、何れは自分の番が来るでしょうから、今から心の準備をした方がよいのかも知れません。
おわり
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ストーブが恋しい季節が到来
 今年の夏は本当に暑かったですね。本州では、30度以上の真夏日が続いたためエアコンがフル稼働だったようですね。
 本州の場合、冬場でもエアコン暖房を行うと、エネルギー源は電力ですので、灯油代と比べ電気代が莫大でしょうね。
 北海道の暖房は灯油が主流ですが、住宅には断熱材をふんだんに使って、住宅全体が魔法瓶のようになっておりますので、それほど灯油代が気に掛かることはありません。
 しかし、灯油は年間、ドラム10本(約2000リッター)は焚きますので、年金生活者は、室温を下げて灯油代を節約しなければなりません。
 特に今年は円安と、シリア、エジプト情勢の悪化により、原油が更に高騰していくことが予測できますので、出来るだけ灯油の消費を押さえなければ家計を圧迫してしまいます。
 昨年は、室温を20度程度に抑えたので、ドラム缶にして約2本分も節約できました。室温20度というのは、少し厚着をしないと肌寒い温度です。
 我が家は、築35年になりますので、新築の家と比べますと、やはり断熱効果が劣ります。老後のことを考えると、新しい家が欲しくなります。
 しかし、これから家を建てられる経済力も気力もありませんね。
 こういう時は、夏は比較的涼しい北海道に住んで、冬は暖かい九州・沖縄のほうに住めるだけの余裕が欲しいものです。
富士通ゼネラル
温水ルームヒーター「ホットマン®
自宅の老人(母親)室に設置した
温水暖房機(ホットマン)
室内で火を使わないので安全です。

 いくら狭い日本と言いましても、距離にして、端から端までは約2千キロもありますので、そう簡単には移り住めないと思います。
 もし永住するとしたら、日本列島のほぼ中央に位置する仙台市当たりが住み心地がよいと思われます。しかし、いまは福島第一原発事故による放射能汚染と相次ぐ地震が心配ですね。
 九州、沖縄そして四国は台風、一方、東北と北海道は雪害。
 このような現実を見ますと、日本には安全なところが少ないようですね。
 今年は、北海道の夏も暑かったですね。
 札幌でも、30度以上に気温が上がった日が、一週間くらいはあったと思います。
 我が家にはエアコンがないので、そういう日には、部屋の窓を全部開けっ放しにして、風通しを良くするしか方法がありません。
 また、温めの風呂に入り、外で夕涼みをすると結構涼しくなります。
 あとは風鈴の音で、涼しさを感じるしかないでしょうね。
 9月に入りますと、朝晩冷え込むようになります。
 いよいよ、ストーブが恋しくなる時期になりました。
おわり
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人口問題は婚期の問題か
 私のような団塊の世代でも、若年結婚した人もいれば、高齢結婚する人もいます。現在は30代に結婚するカップルが多いと聞きます。
しかし、30代も後半になると高齢出産になり、何かと問題が生じます。
 現在の人口を維持せよ!とは申しませんが、人口が少なくなれば、国民生産性も落ち、国勢にも影響を及ぼします。
 かつて、女性が結婚相手を決める基準は「家付きカー付き(クルマ付き)、ババ抜き(姑抜き)」とよばれてきましたが、その後、バブル全盛期には「3高」が基準となりました。
 つまり「高学歴(大卒以上)、高収入高身長」の男性であることが最大の条件でした。現在は、イケメンであれば良いのかも知れません。

婚活・結婚おうえんネット(北海道版)
 是非、良き結婚相手を探されることを願っています。しかし、女性が幸せになる条件としては、やはり結婚相手の収入(経済力)になるでしょう。
 さて、我国は、21世紀前半に、完全に高齢化社会となり、その頃になると高齢者を支える勤労者が減少するため、もはや年金や福祉に頼ることはできないと推察できます。
 ある統計学者の調査によりますと、少子化の為、200年後の我が国の総人口は、僅か6人になるそうです。
 自分の生活の維持は、福祉行政に頼ることはできないということを、今から覚悟しておいたほうが賢明かも知れません。
 その対策の為には、地方の安い土地(北海道の場合、数千円/坪)を買って、芋やトウモロコシでも栽培しながら、自給自足をするのも一つの方法です。地方は空気がよいので、長生きもできるでしょう。
おわり
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スタッドレスタイヤの”誇大宣伝”
 北海道には、もうすぐ、厳寒の冬がやってきます。
テレビでは、スタッドレスタイヤの”誇大宣伝”も始まりました。
 その宣伝文句「アイスバーンやツルツル路面にネバル」とか、「スタッドレスは効くのが一番」、「乾いた氷は滑らない」とか、スタッドレス化の仕掛人でもあるタイヤメーカーがよく言いますね。

水面ではありません。これは道路です。交通量の多い交差点などで、
クルマの発進・停止によって磨かれてできるミラーバーン

 また、ブリザックやガーデックスは、私も以前、履いた経験がありますが、横滑りに弱く、酷いものでした。
 役所も役所です。節電の為にロードヒーティングを停止して、道路整備もしないで「ツルツル路面を放置」するような道路管理を続けています。

一見濡れた路面に見えるが、日中溶けた雪が、
夜中に再び氷ったブラックアイスバーン

Car Watch
 かつて、後付の「金属ピン」という滑り止めがありましたが、その金属ピンを使用しているドライバーの約70%が女性だったそうです。
 しかし、スピードを上げると、どこかに飛んでいってしまう金属ピンですが、まあ圧雪アイスバーンでの、運転が未熟な女性ドライバーには、おまじないのようなものだったのでしょう。
ちなみに、スパイクタイヤが許可されている車両は
「特別にスパイクタイヤの使用が許可される自動車 緊急自動車」
 ■公安委員会に届けられた除雪車
 ■道路運送車両法の適用除外の自衛隊車両
 ■災害時の緊急輸送車両
 ■身体障害者手帳、戦傷病者手帳を持つものが運転する自動車
スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律
おわり
目次
DISCOVER北海道
 本州の旅行者が東北に旅する時、仙台まで来ると、青森まではもうすぐ、と錯覚する人がおりますが、これは大違いで、東京から仙台よりも、仙台から青森の方が遠いのです。 
 我々の祖先は、東北を大昔から「陸の奥」と書き、”むつ”、または”みちのく”と読みました。
 【みちのく】とは道の奥であり、はるかに遠い国であることをしめしていました。仙台も青森も同じ陸奥の国であったため、仙台が東京より青森に近い感がするのは無理からぬことでしょう。
 北海道は、その遠い【陸の奥】からさらに海峡を越えて行くのですから、地の果てに行くようなものです。その昔、朝廷に反抗した者たちが住む場所と言われていました。
 北海道は、それらの者が住む場所と考えられ、蝦夷(えみし)の国と呼び、蝦夷(えぞ)と音読したのです。
 それが、子々孫々に語り伝えられ、現在になっても、北海道は遠く寒い所だとの感が残っていると思います

シャクシャイン像
コシャマインの戦い・シャクシャインの戦い

 日本の歴史を覗くと、西暦700年代の律令国家の時代には、西はすでに大路が九州の太宰府まで通じていたのに、東はようやく中路が、仙台から山形県の遊佐まで通じており、小路が衣川の少し北まで開かれていただけで、それから先は蝦夷征討の軍が往来するような始末でした。
 このことは近年まで尾を引き、特に海をへだてた蝦夷地は、中央文化の影響はなく、アイヌ人たちの文化が深く根をおろしていました。
 その名残は、いまも北海道のいたるところで見られ、地名、生活となって残っていて、本州の旅行者が北海道を訪れると、異なった地に遊ぶ思いをさせられます。
 また、都会に住む人間にとって、農村風景に接しますと、そこに古里を感ずることが多いのですが、北海道にはそれがありません。
 広大で雄大な原野の北海道では、こじんまりまとまった古里は感じないのです。いいかえますと、どこか日本ばなれしており、オホーツク海に面した紋別地方などは、シベリアのある地を訪れた思いがしてくるといわれます。

オホーツク海
紋別観光協会フォトライブラリー

 開発の遅れた地には、それだけ自然が残っているのは当然で、ましてや地味で、やせた土地の多い北海道は、やむなく開発を放棄されていたのもしかたがありません。
 しかし、北海道の開発も明治以後には進み、北海道はようやく百数十年をかけて、その基礎ができつつあります。そして、これからも大規模に開発されようとしています。
 しかし、日本の各地に見られるような野放図な開発を、自然を大切にすることを知った国民がもう許すはずはありません。
 開発という、うたい文句にのって、ほとんど自然をほろばしてしまった日本人にとっては、この北海道こそ、日本に残った唯一の大自然として大切に保存しようと努力することになります。
 だから、北海道はいつまでも緑豊かなネーチャーランドとして残ることになります。
 北海道の大自然は、豊かな緑や原野に咲き競う色とりどりの花ばかりでなく、日本を代表する野獣や野鳥に、こよない住処を与えています。

ヒグマの親子

 日本最強の猛獣であるヒグマや海獣トドがいるかと思えば、かわいい鳴き声をあげるナキウサギがおり、ゆうゆうとあたりを睥睨するオジロワシがいますし、端正な姿をしたタンチョウヅルや、端正美の化身と思われるオオハクチョウが舞います。
 川にのぞめば、産卵のため身体をすりあって、多数のサケがのぼってくるなど、大自然は惜しみなく彼らに楽しい日々を送らせています。このように北海道は日本ただ一つ残った大自然郷なのであります。
 最後に、北海道は味の宝庫といえるでしょう。そして豊かな産物は簡単な調理で、すばらしい味を発揮してくれるものばかりです。
 水産物としては、カニ、イカ、ホタテ貝、ウニ、コンブ、サケ、シシャモなど。原野のものはトウモロコシ、バレイショ、カボチャ、豆類があり、広い牧場からは牛乳やバターを始めとした乳製品がありますが、そのいずれもが簡単な調理で最高の味をだしてくれます。こんな所は日本では北海道を除いてほかにありません。

北海道「地名の起源」

オタモイ海岸(小樽市)
 北海道の地名は、アイヌ語から採ったものが殆どといってよいでしょう。函館付近には一部、和名のものもありますが、多くはアイヌの呼び名に漢字を当てはめています。
 たとえば、「積丹」は「しゃこたん」と呼びます。
その語源はアイヌ語の「サク・コタン」で、夏の部落(コタン)という意味です。
 アイヌ民族全盛のころ、春から夏、秋にかけて魚類に恵まれていた積丹半島にアイヌ人たちが漁労に集まったといわれています。
 このように、北海道には耳なれない響きをもつ地名が多く、時刻表や地図を見ても判読がむずかしいでしょう。
 次にいくつかの地名をひろって、その起源をご紹介しましょう。


アシリベツの滝(札幌市)
■ 札幌(さっぽろ)=「サリ・ポロ・ペツ」
 (葦原が広大な川)が「サチポロペツ」となり、下部が略されて「サチポロ」となり、さらに「サツ」(乾いている)に付会されて「サッポロ」になった。

■ 滝川(たきかわ)=現在の滝里をアイヌ名「ソ・ラプチ」
 (滝が並んでかかっているところ)といい、その意訳。

■ 旭川(あさひかわ)=市内を流れる忠別川「チュウ・ぺツ」
 (瀬の早い川)が後に「日の川」と解され「旭川」と訳。

■ 函館(はこだて)=昔は臼岸といいました。
 アイヌ語「ウス・ケシ」の転訛したもので「湾の下手」の意味。

■ 長万部(おしゃまんべ)=本来は「オ・シャム・ペツ」 
 川尻が横になっている川)でありましたが、シャマンベ(カレイ)を連想して「オ・シャマンベ」となり、川口付近にカレイ漁が豊富であったところからこの名がある。


ニセコアンヌプリ(蘭越町)
■ 倶知安(くっちゃん)=「クッ・サム・ウン ・ぺツ」
 (岩崖・のそぱ・にある・川)が語源。

■ 小樽(おたる)=「オタルナイ」すなわち「オタ・オル・ナイ」
 (砂浜の中の川)から転訛。

■ 室蘭(むろらん)=「モ・ルエラニ」
 (小さい・下り道)の意。

■ 苫小牧(とまこまい)=「ト・マク・オマナイ」
 (沼・奥・にある・川)の意。

■ 稚内(わっかない)=「ヤム・ワッカ・ナイ」
 (冷めたい飲水の川)。
■ 釧路(くしろ)=「クッチャロ」
 (のどロ、すなわち沼口)。

■ 根室(ねむろ)=「二ムオロ」
 (樹木の茂ったところ)から出たものといわれていますが、一面「メム・オロ・ぺツ」(湧壷・そこにある・川)から転訛したと思われます。

■ 松前(まつまえ)=「マトマイ」すなわち「マツ・オマ・イ」
 (夫人のいるところ)。


松前城(松前町)
■ 磯谷(いそや)=「イショ・ヤ」
 (岩島)。

■ 美国(びくに)=「ポク・ウン・イ」
 (下のところ)。

■ 古平(ふるびら)=「フレ・ピラ」
 (赤い崖)。

■ 忍路(おしょろ)=「ウショロ」
 (湾)。

■ 高島(たかしま)=「トカリ・シュマ」
 (水釣の岩)。

■ 石狩(いしかり)=「シシカリ・ぺツ」
 (非常に曲がった川)。

■ 留萌(るもい)=「ルルパ・オ・ぺツ」
 (海の南端の川)。

■ 宗谷(そうや)=「ソー・ヤ」
 (岩岸)。

■ 利尻(りしり)=「リイ・シリ」
 (高い山)。


積丹海岸(神恵内村)
 などで、現在の地形とくらべて考えるとたいへん興味ぶかいでしょう
おわり
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お布施・禅宗(曹洞宗)の場合
 例えば戒名ですが、僧侶に「院号」を希望したら、字数や文字にも依りますが、50万円以上は要求されます。
 戒名に[]という文字が入ると100万円を越えます。
 ちなみに、私の父親の戒名は[善覚院 徹山 勝元 居士]です。
]という文字が入らないため、比較的に安く上がりました。
 ところで辞書によると「院号」とは、

 (1) 上皇・皇太后・准母などの尊号。
 (2) 貴人の建立した寺院の称号。また、その貴人の称号。
 (3) 死者の戒名につける「院」のついた称号。
 (4) 年功を経た修験者(しゆげんじや)につける称号。

 などと解説されておりますが、偉人や賢人に与える称号なんですね。
世のため、人のため」にならなかった死者の戒名に、院号など必要ないと思うのですが。やはり、院号は死者のためではなく、寺や僧侶のお布施のためにあるようなものでしょうね。

 父親の葬式費用は、軽く200万円を超えました。
 墓所も約200万円 [私が建立した頃(1988年)の価格]。
 その他、お布施、仏壇仏具などに100万円、ということで、家族が一人亡くなると、最低でも「500万円」の出費は考えておかなければなりません。更に檀家になれば、臨時に数十万円、そして寺の増改築ともなれば、数百万円もの寄付(庫裡)を要求されます。
 北海道でさえ、これ位かかるのですから、首都圏では、倍の1000万円以上は覚悟しなければならないと聞いております。
 どこかに不老不死の妙薬はないものでしょうか。
 秦・始皇帝の気持ちが分かりますね。
おわり
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後遺症は忘れた頃に表れる
 私の母親は、40年ほど前に交通事故に遭いました。
全治3ヶ月の大怪我でした。当時、母が勤務する会社の同僚の運転で、交差点を横断中に、タクシー運転手が「こっちが優先だ!」と窓から顔を出して怒鳴りながら、わざとぶつけてきたということです。
 大怪我をしたのは、助手席に乗っていた母親だけで、もう一人の同乗者は無事でした。母親が入院中、タクシー運転手は、一度も見舞いにこないどころか、事故の責任を一方的に、母が同乗していた運転者のせいにされてしまったということです。
つまり警察はタクシー会社の言い分を100%認めて処理したのです。

タクシー絡みの交通事故
(本文とは関係ありません)

 そもそも、タクシー会社の事故係は、定年退職になった警察官の天下りが多いといわれていますから、裁判になった場合のために有利な証拠を集めており、また警察にも顔が利きますので、一般の運転手は太刀打ちできません。
 しかし、タクシーとバスとが衝突事故を起こした場合、タクシー会社の事故係がいくら頑張ったとしても、バス会社の事故係に対しては勝ち目がないと、あるタクシー運転手が話しておりました。

札幌市営バス
(本文のバスではありません)

 ある冬の日、妻が札幌市営バス(現在はJRバス)に乗っていた時の出来事です。
 札幌西区役所付近で、市営バスが、渋滞している片側二車線の市道を、無理に通り抜けようとしたところ、停車していたクルマと接触してしまったということです。
 その時、市営バスの運転手は、大声で「今の接触事故を見た人がいますか?」と、乗客に尋ねたそうですが、妻や乗客は、関わりたくないので黙っていたそうです。
 そして市営バスの運転手が、停車していたクルマの運転手に抗議している様子を、妻や乗客が車窓から眺めていたそうです。
 結果はどうなったか分からないそうですが、やはり、「今の接触事故を見た人がいますか?」と乗客に尋ねると言うことは、誰も見ていなければ停車していたクルマの運転手が悪いことにしてしまうのでしょう。
 ところで、母親の後遺症ですが、事故から40年経っても、首のあたりが痛むなどの症状があるようです。後遺症は忘れた頃にやってきます。
おわり
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生と死と
 積丹半島、古平町の豊浜トンネル崩落事故(1996年2月)から20年。事故発生当初から、トンネルと道路を管理する開発局の対応の鈍さと、福島第一原発事故と同様に「事故の予測はできなかった」、という責任逃れには呆れましたが、彼らには、犠牲者の無念さや、家族を失った親や親族の気持ちは通じないのでしょうか。
 崩落事故の予測ができようができまいが、開発局、つまり国には管理者としての責任があるのは当然です。
 そもそも、火山灰が固まった崩落しやすい地質の断崖絶壁の下にトンネルの出入り口を開けること自体が危険な設計であり、安全管理を重視するならばそのような工法は避けなければならなかったのです。
豊浜トンネル崩落事故現場
この事故は忘れない 風化させてはいけない

 ここで、生と死について 考えてみましょう。
 死亡の要因は様々ですが、一般的に「病気で死んだ」とか「交通事故で死んだ」、「トンネルの崩落事故で死んだ」、「戦争で死んだ」などといいますが、本当は「死ぬ」ということと「殺される」ということとは、区別して考えるべきだと思います。

崩落事故慰霊碑

 つまり、「戦争で死んだ」とか「交通事故で死んだ」「トンネルの崩落事故で死んだ」「薬害エイズで死んだ」ことは、実際は「殺された」ことであると思います。
  例えば、病気で死んでゆく場合も、多くは「病源菌によって無理やりに殺された」ことであります。
 事故でもなく、病気でもなく、「老いて自然に死んでゆく」、その自然死老衰」こそ、本当に死んだということであると思います。
 しかし、自然死よりも、病死や事故死が圧倒的に多いのが現実です。
死の恐怖におびえ、生と死の問題を問題にせずにいられないのには、原因があります。
 最大の原因は、自分が事故やテロ、あるいは薬害や戦争によって、いつ殺されるか分からない世の中に生きていることにあると思います。
 この社会には、死の恐怖を生みだすような危険が山ほどあります。
人間は、なによりも生命の不安をいちばん鋭敏に感じます
自分がそれを感じていると意識しなくとも、その意識以前の状態で、反射的にそれを感じます。言いかえれば、からだで死の恐怖を感じます

平和祈念公園(okinawa)

からだで感じたこと」が意識を襲って、死の恐怖という観念をつくりだします。生命の不安を感じさせるものには、事故や病気そして戦争などがあります。これらが最大の恐怖の原因となります。
 直接、それを経験しなくても、話にきいただけで、それは死の恐怖の原因となります。
 また、災害、失業、生活苦、全て、身体で生命の不安を感じさせる事情になっています。死を恐怖する感情は、いつ、どこで、自分の意識を襲うか全く決まっていません。わけもなく、いつでも心を襲います。
 それは意識以前に、この身体が反射として、あるいは本能として、生命が危険を感じているからです。
 それでは、死の恐怖から逃れるにはどうしたらよいのでしょうか。
一つは、生命を神仏にまかせてしまう事です。そうすると、自分の生死が他人ごとになってきます。そういう道もあります。
もう一つの道は、生命を脅かす一切の危険を現実に、この世界からなくすことです。
 戦争が、もう二度と起こらないようにすること、原水爆の実験や原子力発電も止めさせるようにすること。その結果、戦争、テロ、薬害、原発事故を無くすことができる、そういう政治や社会をつくりだすことであります。
 また病気については、医学を発達させます。
そして、充分に予防や治療措置ができるような世のなかをつくることであります。例え、そういう世の中が来なくても、そういうことが出来るのだという自信が生まれてきますと、死の恐怖は少なくなってゆくと思います。

世界のテロリスト

 自分がいつか殺されるというのに、そういうことを前にし、安心して「悟り」をひらいているようなことは、一見偉そうに見えますが、自己の生命にたいする侮蔑であると思います。
 宗教において、生死を超越するなどというのは、生命を軽く考える思想であります。
 人間にとって一番大切なものは生命であります。
その生命の不安にたいして恐怖と思うことは、人間として自然のことであります。それを恐怖と思うからこそ平和が生まれ、科学の発達も推進されてきます
 しかし、殺されることが全く無くなったとしても、人間には避けられない自然死ということがあります。つまり人間の死亡率は100%なのです。
 仏教では「生者必滅」(生きているものは、必ず死ぬ)といっています。そうして仏教は、生きることと死ぬことの、この二つのことを並べて、この二つの重さを等しいと見ています。
 説法では、生まれることをプラス5とし、死ぬことはマイナス5として、プラスマイナスして、人生をゼロとしています。
死とは、人生をゼロにする」というのです。はたしてそうでしょうか。

釈迦如来像

 生物は、よく発達した高等なものになるほど、生と死がはっきり分れています。下等な生物ほど、自己分裂をしたりして、生と死がはっきりしていません。下等なものの繁殖がすなわち死です。
 しかし、死とはなんであるかという死の本質は、下等な生物に最も単鈍なかたちであらわれています。
 生物にとって死とは繁殖であり、より発達した生をつくりだすことであります。死は生の否定のようですが、もともとは「死は、より大きい生の肯定」であるのです。
 一粒の麦は、みずから死んでゆくことによって、何百粒の麦をつくりだしてゆきます。つまり、生きているから死ぬのではなく、自分より以上の生をつくりだすから生物には死があります

麦畑

 バイ菌のような下等な生物は、親が子どもを育ることがありません。
 そのために繁殖をしても、その成長は不確実となります。
哺乳動物のようなものになりますと、親が子どもを守りながら育てます。
そうすることによって、その繁殖は確実となります。その間、親は生きています。そして、その親がやがて死んでゆきます。
 死の意味を考えるについて、重要なことは、生を自分ひとりの孤立したものとして見ないことであると思います。
 生は、孤立しては成りたたず、連続した流れの中に、自分の生は成りたっているからです
おわり
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輪禍の三要因
 連日、悲惨な交通事故が多発しております。
 しかし毎度の事ながら、警察の原因調査によって、ドライバーの「わき見運転」、「スピードの出し過ぎ」、「ハンドル操作の誤り」などの理由で処理されてしまい、しかも総てドライバーの責任にされてしまう場合が多いのが現実です。
しかし、それでは、国道や道道、市町村道の各所に設置している事故多発地帯の看板に矛盾があると思います。つまり「交通システム」にも事故の原因があるのは当然です。
 スピードを出し過ぎても事故を起こさないドライバーと、スピードを出さなくとも事故を起こすドライバーが存在するのは何故でしょう。
事実、時速40km以下での事故が最も多いのをどう説明するのか。
警察は、交通事故をドライバーだけの責任として簡単に処理してはいないのか。これでは、いつまで経っても輪禍は減らないし、逆にドライバーやクルマの増加により輪禍が増え続けるのは違いないのです。

 かつて、NHKの交通事故防止キャンペーンにおいても「危険なのは、クルマではなく、運転するドライバーである」と印象づける放送をしていました。また、「時速40kmではカーブを曲がり切れても、時速50kmでは曲がり切れない」などと「速度のみを基準」として事故を起こす確率を判断しているから呆れてしまいます。
 クルマというのは、1人乗車と4人乗車車高や形状路面や気候など、あらゆる条件で、ドライバーの運転操作とその結果(速度や方向など)に至るクルマの特性、つまり伝達関数などのパラメータが変わってしまうのです。
 たとえば速度だけではなく、クルマの重量によって、例えば、1人乗車ではカーブを曲がり切れても、4人乗車では曲がり切れない場合もあります。
 北海道では、これから冬季になるとスリップ事故が多発します。
いわゆる冬型事故です。そして、いつも犠牲になるのは、老人や子供などの交通弱者なのです。道路管理者は、それが分かっているにも関わらず、何故スリップ事故対策をしないのか非常に疑問です。
 たとえば事故多発地帯を融雪剤やロードヒーティングなどで整備すればスリップ事故が減少するのは当然です。
 スタッドレス化による「ツルツル路面」や「アイスバーン」は、いくらタイヤの性能が良くても、タイヤの形状自体がその原因になっているため「交通システム」の改善をしない限り絶対に解決できません。
 以上のように交通事故は「ドライバー」と「クルマ」そして「交通システム」の三要因が重なり合って起こるのです。そして冬期においては、夏場以上の「予見運転」が要求されるというわけです。


■若年ドライバーと高齢ドライバー の過渡特性
 若年ドライバーはスピードの出しすぎによりハンドル操作を誤り事故を起こし、高齢ドライバーは、ノロノロ運転である、という認識が多いようですが、これは若年と高齢ドライバーの対称的な特徴ではなく、実は共通点なのです。
 スピードの出し過ぎと、ノロノロ運転がなぜ共通点かと言うと、若年と高齢ドライバーの共通点として挙げた次の3点の中の[2.過渡特性や定常特性が劣る]に該当するからです。
1.予見能力が低い。
2.過渡特性や定常特性が劣る。
3.協調性が低い。  

 過渡特性や定常特性が悪ければ、クルマは不安定になり、危険な状態に陥るか、あるいは応答が非常に遅いために、危険回避が不能になるわけです。


 前者は若年ドライバーの無謀運転後者は高齢ドライバーのノロノロ運転に該当します。
 スピードを出さない高齢ドライバーが事故を起こすのは、1、2、3全てに該当するわけですが、2について検討・吟味すれば、そのわけが分かります。つまり、過渡特性が劣るため、危険回避のための敏速な操作が出来ずに事故を起こすのです。

 たとえば、乾燥路面において40Km/hで走行しているクルマを、危険回避のために停止させる場合、普通であれば15メートル前後(夏場)で停止できます。
 しかし高齢ドライバーの場合は、この距離が非常に長いのです。
高齢ドライバーは、危険を認識してブレーキ操作を行うまでの時間がかかるため空走距離が長く、更に足腰の力が弱いため、十分なブレーキ操作ができません。そのために制動距離が長くなります。
 他車が追い越しをかけてきて、すぐ割り込まれた場合、過渡特性が優れていれば敏速に危険回避ができる場合が多いのです。
 しかし、それ以前に1.の[予見能力が低い]ことも原因になっているのです。追い越された場合、割り込まれるかどうか[予見]できなければ、非常に危険です。
 また、高齢ドライバーの場合、60Km/hの公道を、危険な状態でもないのに20~30Km/hで走行する自体が問題なのです。
 以前、右翼の街宣車が、230号線を定山渓から札幌市南区の石山あたりまで、時速5km/hの超ノロノロ運転で走行し、渋滞を招いたとし道路交通法違反で検挙されたことがありましたが、1、2の他に3に挙げた[協調性]も重要なことなのです。

■「死角」、目だけに頼るのは事故の元
運転席から見えない外界の範囲を死角」といいます。
しかし「目で見える物だけが存在するとは限りません」。
逆に、「目では見えないからといって存在しないとも限りません」。
 例えば、目で見える蜃気楼はその場には存在しません。あるいは、何らかの原因で、幻覚状態に陥ると存在しないものまで見えてしまうといいます。
 ここで、目では見えない、又は見え難い例を挙げます。
例えば、”薄暮”では、歩行者や対向車が見え難くなります。また、対向車のヘッドライトが歩行者を照らすと、自分のクルマからは、その歩行者の影しか見えなくなることがあります。つまり視覚というものは如何に、いい加減なものかを考えなければなりません。
 次に、「死角」を見ようとする場合にも「予見能力」と「的確な状況判断」が必要なのです。もちろん視覚や聴覚、臭覚、触覚も必要です。
 発車寸前のクルマの前後左右の「死角」は、乗る前にクルマの周りを一巡すれば、安全かどうか大体の見当がつくものです。
 もしクルマの周りで子供が遊んでいれば。一言注意をすればよいのです。
更に、クルマを安全に発車するための初期速度は、2~3Km/h(ほぼ子供の歩行速度)とします。
 この状態でクルマが2~3メートル動いてから本格的に 加速します。

 見通しの悪い交差点では、できる限り減速したうえ、センターライン側に寄ります。
 交差点に差し掛かったときには、クラクションを軽く鳴らすのも一つの方法です。夜間走行の場合は、ヘッドライトをパッシングなどで一時的に明るくするなどで「死角」があっても安全確認の方法があるはずです。
 ドライバーが適切な「予見能力」を備えれば「車の陰から歩行者がでてくる」、「親子が道路を挟んで会話をしていたら子供が飛び出す」、「犬や猫が走ってきたり、サッカーボールが転がってきたら、子供が追っかけてくる」などの予見は誰にでも簡単に出来るものです。
 次に、「協調性」とは、「お互いに調和すること」であり、相手があるからこそ「協調性」という言葉が成り立つのです。
 安全走行やクルマの流れを乱すような「無理な割り込みをしない」、「暴走運転や低速運転をしない」などという基本的なマナーが「協調性」なのです。
 しかし「安全運転していますよ」とノロノロ走っている車に限って、信号無視や標識無視、あるいはウインカーをあげないドライバーが多いものです。困りますね。
おわり
目次
保険勧誘「アポなしでやってくる非礼さ」
 アポ(アポイントメント)無し勧誘の最たるものが生命保険の勧誘です。
自宅に来るのならまだしも、勤務先の研究室にまでやってきて、アンケートと称して、氏名や年齢を聞き出そうとします。
 そもそも、アンケートに氏名など必要でしょうか、と思いつつ、私の場合、毎度の事で慣れているので、適当に記入するようにしています。
 数日後、保険勧誘員は、さりげなくバイオリズムなどを載せた資料を持ってやってきて、アメやお菓子を置いていく場合もありました。
 そして次にやって来たときは、確実に生命保険の勧誘です。
最初に聞きだそうとする台詞は「いま何か生命保険にお入りですか」と、ほぼ決まっていましたね。

  ここで、「○○生命に入っていますよ」と言っても、掛け金などを聞きだし、あと、どの程度の保険に入れるかなど、支払能力を掴んでいるため、入りたくなければ答えないほうがよいと思います。
 つまり、収入の何パーセントは、生命保険を掛けられるとふんでいるので、まだ余裕があると判断されたら何回でも、保険勧誘員はやってくるのです。
 生命保険を断る例として「先日まで高血圧で入院していました。現在でも血圧が180あります」という必殺技があります。
あるいは「現在、心臓病で通院しています」と答えておくと良いでしょう。これで、アポなし勧誘の被害から自分を守れると思います。

 ところで、私が、最初に入った生命保険は、朝日生命でした。
 私の母の従姉妹が生保勧誘員をしており、わざわざ研究室まで来たので、断れなかったですね。おまけに「お嫁さんを紹介してあげますよ」とまで言われました。これは「小さな親切、大きなお世話」ですね。
 結局、朝日生命には三年後、生命保険の解約を電話で連絡して、保険料の支払いを停止しました。ところが、朝日生命は「解約払戻金」の方から、私に何の連絡もせず保険料の未払い分を補填するというトンでもない行為に出たのです。
 そのため私は、朝日生命の札幌支社まで行って抗議をしましたが、結局、「解約払戻金」が保険料の3ヶ月分くらい目減りしていましたね。

 その次に加入したのは、住友生命でした。
 住友生命の保険勧誘員は「○○高校、担任教師からの紹介です」と言ってやってきました。私は高校時代、担任の先生に大変お世話になったので、断り切れなかったですね。
 しかし、私の月給が5万円の頃の保険料の1万円は大きいので、翌日、住友生命の札幌支社まで行って解約しましたが、払った1万円は返金されませんでしたね。その住友生命の言い分は「契約して1日後の解約は、期間が短い為、保険料の返金はされません」といった訳の分からない理由でしたね。このように、義理と人情で勧誘にやってくる場合が多かったですね。

 義理と人情以外では、事務部長の要請もありました。
当時(1974年頃)は、まだガン保険の出始めでした。
これは、アメリカンファミリー生命保険会社(アフラック)代理店の場合ですが、ガン保険の勧誘にきた担当者は、「○○事務部長からの要請です」と言うので、仕方なくガン保険に入りました。
 当時、事務部長の要請で、ガン保険に入った教職員は相当いたと思います。もし、生命保険に入りたくなければ、あらかじめ、断る理由を考えておくべきですが、義理や人情、上司の要請なら仕方がないかも知れませんね。
おわり
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ワンちゃんのお散歩
 我が家の周囲の市道は、ワンちゃんのお散歩コースになっています。
道幅が広く、歩道も整備されているせいか、隣の町内からもワンちゃんを連れて散歩にやってくる、おばさんやおじさんが沢山居るのです。
 私がまだ大学に在職時の話です。
 毎日、午前6時半頃、出勤のため自宅を出るのですが、これは渋滞を避けるためと健康のためでした。しかし妻は、おさんどんのため、毎日午前4時頃には起きなければならないため、かなり疲れているようでした。
 さて、私がマイカーで自宅を出た時の事でした。
 いつものように、ワンちゃんを散歩させているおばさんが居たのですが、ワンちゃんは何を思ったのか、よりにもよって、道路のど真ん中でウンチをしだしました。
 これでは、クルマが通れないため、私はブレーキを踏みました。
 そして、ワンちゃんが一生懸命踏ん張っている、そのとき、飼い主のおばさんが首輪のヒモをグイグイと引っ張ったのです。
 私は、ワンちゃんが可哀想と思いましたが、これもワンちゃんの躾けかと思いつつ、困っているおばさんにも同情したわけです。途中で、ウンチを止めさせられたワンちゃんは、落ち着きがなく、あっちヨタヨタ、こっちヨタヨタしながら、飼い主のおばさんについていきました。
おわり
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1965年国勢調査
 私がまだ高校生の頃、1965年に国勢調査がありました。私は親戚の叔父の紹介により、北海道庁でアルバイトをすることになりました。
 当時、北海道庁の国勢調査の本部である企画部は、中島公園の池の畔にありました。12月も下旬だったので、公園の池は、良いスケートリンクになっており、若い職員は昼休みスケートを楽しんでいました。
 1月に入ってから、若くて可愛い女の子(当時、アイドルであった由美かおるにそっくりな女性)がアルバイトとして採用され、私と同じ係で仕事をすることになったのです。
 国勢調査の調査票は、各市町村から企画部に集められました。
 私達はそこで、必要事項が、調査票にきちんと記入されているかを確認し、誤記やマークシートなどを修正後、段ボール箱に詰め、総理府統計局(当時)に送る準備をしました。

由美かおる
(歌手デビューの頃)

由美かおる
 箱詰めされた調査票は、段ボール箱で数百個にもなり、倉庫の中に高く積み上げられました。
 最後は、荷札に差出人である北海道庁企画部の住所のゴム印を押す仕事でした。
 1日がかりで、私と女の子で荷札にゴム印を押して、ようやく終わった頃、深刻な顔をしながら主任がやってきました。
主任は私たちに、ゴム印に誤りがあると言うのです。
 そこで私は、ゴム印を押した荷札をよ~く見ると、差出人の都道府県名が北海道」ではなく「北道道」となっていたのです。
 私と女の子は呆気にとられました。
 主任は「何百枚もゴム印を押していて、何故気が付かなかったの?」と言いましたが、私は「まさか、ゴム印の都道府県名が間違っているとは知りませんでした」と答えるしかありませんでした。
 そして私は「ゴム印を押し直しますか」と聞きましたが、主任は「ゴム印を作り直さなければならないため、もう締め切りに間に合わないから良いです」と残念そうに言い残して自分の席に戻って行きました。
 後から聞いた話ですが、都道府県名が「北道道」になっていても、総理府統計局に問題なく届いたようです。そもそも、これは誰の責任なんでしょうね。

 1.ゴム印を発注した主任の責任か?
 2.ゴム印を造ったハンコ屋の責任か?
 3.ゴム印を押した私の責任か?

  ....それは今でも疑問です。

 やがて、冬休みも終わり、アルバイトの女の子とも別れなければならなかったので、多少残念でした。
 ある女子大生もアルバイトに来ていたのですが、その子の昼食は、な、なんと牛乳1本でしたね。これでは、まともに仕事が出来ないだろうと思いました。
 また、その女子大生から「可愛い女の子と別れて寂しいでしょ?」などと、言われ、からかわれました。
 道庁で、アルバイトをしていて驚いたのは、どこかの宝石商のおばさんが、職員が勤務中であるなしに関わらず、堂々と事務室に入ってきて、宝石のセールスをしていたことでした。当時の道庁職員は、心が広かったんですね。
 1965年の国勢調査によると、当時の札幌市の人口は約80万人でしたが、それから48年が経過した現在、人口はその倍以上の190万人を突破しました。これは、1965年当時から110万人以上も人口が増えたことになります。
 北海道では過疎化が進み、道民の多くは、生活に便利な札幌経済圏に集中しています。
 統計学者の言によりますと、今後、20年以内に、道民の70%以上は札幌経済圏に集中し、また、その70%以上が65歳以上の高齢者になるとのことです。札幌市は将来、人口200万人の「巨大老人都市」になるようですね。
おわり
目次
気象予報士
  気象予報士の国家資格ができてから、NHKや民放の各放送局が競うように、若くて綺麗な女性気象予報士を登用させてますね。
 以前は、解説に間が開くわ、トチルわで、せっかくの天気予報も台無しだったのですが、年々、上手になりましたね。

気象予報士 半井さんの写真集を見つけました。
衣装代がかかりそうですね。
半井小絵 気象予報士
 かつて北海道の天気予報解説をやっていた、小島さんや佑川さんは、いま何をしているのでしょうね。
 ところで、NHKや民放による天気予報の放送時間は、殆どが同じ時間帯ですね。これには何か意味があるのでしょうか。
 どの局も気象台の発表を根拠にしていますので、内容は同じです。
 ただ、晴れのマークで、お日様やお星様の形が多少違うだけですね。
 なにか気象予報士の仕事の場を与えているようにも思えます。
 北海道の住民が、九州や沖縄の天気予報を聞いても、それほど役には立ちませんね。夏は暑くて大変だ冬は暖かくて良いなと思う程度です。
 テレビの報道番組も、どのチャンネル回しても、「金太郎飴」状態で、内容は殆ど同じです。民放は1局あれば十分です。
おわり
目次
コンビニ強盗対策
 検挙率が高いというのに、コンビニ強盗が減りませんね。
コンビニ関係者もたいへんなことと思います。なにせ、そこで勤務しているほとんどの店員は、低賃金で雇われているアルバイトでしょうから、怪我でもしたら割に合いません。
 また、命がけでアルバイトをするのも馬鹿馬鹿しいと感じている人も多いのではないでしょうか。
 コンビニ店の経営者から「危険手当」というのが出ているのならまだしも、まずそのような配慮はしないでしょう。
そのほとんどは「イヤなら辞めろ」と言うのが経営者の考えでしょうね。



 そこで「コンビニ強盗対策」なんですが、まず防犯カメラがあります。
 しかし、店の天井や壁から溢れるような数のカメラを取り付けても、犯人が覆面をしてたら、誰が誰だか全く分かりませんね。
 そこで、コンビニ強盗の時間帯は深夜か早朝と相場が決まっていますので、襲われると同時に自動的に店の電源ブレーカーを切れるようにしたらどうでしょう。
 犯人は逆上するかも知れませんが、今度はサイレンと警察官の声が入ったテープを大音量で流すのです。
 そして最後のトドメは「番犬の出番」です。逃げる犯人を追いかけさせて、ひるんだところを、駆けつけた警察官によって逮捕ということになればメデタシメデタシと思います。



 コンビニ強盗の犯人は、住所不定無職による犯行が多いようです。
 しかし、年齢20歳~30歳代くらいで、健康であれば、コンビニ強盗などしなくても、どんな仕事にでも就けると思います。コンビニの被害額、数万円位の強盗で捕まった場合、割にあわんでしょうね。
 道警の警部補も「コンビニ強盗は割に合わないと思いますよ。数万円強奪しても、すぐに使ってしまうから、またやらなければならないし、強盗は、罪も重いですからね。」と仰っています。
 私は、コンビニ強盗よりも、「殺人」のほうが割に合わないと思っています。その理由は、人間の死亡率は100%。必ず死ぬからです。
おわり
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第88回全国高校野球選手権大会
 第88回全国高校野球選手権大会は、早稲田実業が三連覇を狙う駒大苫小牧を再試合にて、一点差という小差で破り、夏の大会初優勝という結果になりました。駒大苫小牧のピッチャーは田中将大、早稲田実業のピッチャーは 斎藤佑樹で、息詰まるような投手戦は見応えがありましたね。
 早稲田実業の地元、東京都国分寺市では、三千人に上るファンが選手達を見ようと大フィーバーしているそうです。
 しかし、初優勝ということで嬉しいのは分かりますが、その相手は昔から雪のため、半年以上は土の上での練習が十分に出来ないと言われていた北海道のチームですね。それでも大フィーバーするほど嬉しいということは、東京地区のチームは、余程弱かったという証拠と思います。



 たとえば、1963年(昭和38)春の選抜35回大会の時です。北海道からは名門の北海高校が代表として甲子園の切符を手に入れました。
 大会が始まりますと北海高校は、日南高校(宮崎)、PL学園(大阪)、享栄商業(愛知)、早稲田実業(東京)といった立ちはだかる強豪をことごとく打ち破り、ついに決勝に進出しました。決勝の相手は下関商業(山口)でした。
 NHKのアナウンサーは、北海高校VS早稲田実業との準決勝の折、すでに決勝に進出を決めている下関商業の生徒に対し「北海高校と早稲田実業、どちらに勝って欲しいですか」と質問したところ、口を揃えるように「北海高校に勝って欲しいです」と答えていました。
 このように正規の選手以外でも、北海道のチームは弱いという印象を強く持っており、もし決勝に進出してきたら、いいカモに出来ると思っていたに違いないものと思います。案の定、北海高校は決勝戦にて、下関商業に10対0の大差で負けてしまいました。

北海高校野球部は永久に不滅です 激闘の記録 戦後編
 春の選抜35回大会において、話題という点で独占したのは北海高校でした。北海は決勝までの4試合が全て逆転勝ちでした。
 準決勝の早稲田実業(東京)戦では、大会新の6号となる吉沢投手による逆転サヨナラ・ランニングホームラン。さらには、大会タイ記録の一試合10盗塁も記録しました。
 それにしても、春の選抜35回大会で準優勝の立役者となった吉沢投手は、今はどうしているのでしょうか。彼の希望であった巨人軍に入ったというのは風の噂で知っています。
 旧北海中学(現北海高校)出身であった私の父は、「巨人になんか行かない方がよい、ピッチャーの潰し合いだからな」と言っていたのを思い出します。
 当時、父は国鉄職員であり、野球は国鉄スワローズ(現ヤクルト)のファンだったので、そのように言いたいのは良く分かります。
 当時のスワローズには、巨人キラーの名ピッチャー金田正一がいた時代です。
 それはそうと、何故、マスメディアは両軍の投手中心にしか取材しないのでしょうか。これでは英雄崇拝主義のように思います。
 野球は投手だけではできません。選手9人全員が力を合わせて、全力で相手チームに立ち向かわなければ勝負になりません。
夫婦も家族も同じです、チーム力が家族円満の秘訣です。
おわり
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ガソリン価格高騰
 「生活必需品」のガソリン価格が高騰しているというのに、なぜ法律でそれを阻止できないのでしょうね。
 政府もマスコミも、何もしないで、ガソリン価格が高騰だ、また上がった上がったといって騒いでいるだけではないですか。
 一番困っているのは、運送業者や 漁業関係者でしょうね。もう指をくわえて石油元売り各社の値上げ攻勢を見ているときではないと考えます。 
 かつて、 エッソ、モービル、ゼネラルなどの大手石油会社は、ガソリン価格高騰のお陰で、ボロ儲けだったようです。
 政府は、直ちにガソリンや灯油を中心とした石油関連製品の値上げを禁止し、これを破った者には禁固十年以上を課すようにしたらどうでしょうか。
 石油元売り各社も、石油危機や円安による原油価格の高騰においては、儲け主義を撤廃し、ボランティア精神をもって、全ての石油製品を値上げ前の状態まで引き下げるようにすると、多くの国民に感謝されると思います。しかし、いくらガソリン価格が上がっても、道路の渋滞がなくならないのは何故でしょう。皆さんは、それほど困らないのかも知れません。 


この頃に戻って欲しいですね。(2005年2月頃)

 それはそうと、北海道では、お盆が明けて、短い秋が終わると、いよいよ、厳寒の冬がやってきます。昨年に引き続き、灯油の価格は下がらないようですが、出来る限り灯油を焚かないようにしなければな りませんね。
 我が家の場合は、内戸を全てペアガラスのサッシと交換したので、それのお陰か、昨年は灯油200リッターくらい節約できました。
 今年はそれ以上、節約しなければなりません。手っ取り早い方法は、暖房している部屋を減らし、更に室温を下げることですね。
 数年前、NHKの番組で、三笠市の一人暮らしのお婆さんに、冬の生活についてのインタビューがありました。
 そのお婆さんの息子達は、皆、都会に移ったまま帰ってこないそうです。お婆さんは、国民年金と生活保護で月五万円程度の低収入のため、室温を、なんと”12度”にして耐え凌んでいるそうです。
 この ような現実を、石油元売り各社は知っているのでしょうか。
 もし、このお婆さんが凍死でもしたら、石油元売り各社の責任と言っても過言ではありません。
 やがて到来する高齢化社会にそなえ、私たちも、この三笠市のお婆さんを見習わなければなりませんね。
おわり
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北方領土問題と解決法
 2006年8月16日、 北海道根室市のカニかご漁船「第31吉進丸」がロシア国境警備艇に銃撃・ 拿捕された事件で、乗組員2人が2週間後に解放され、道の漁業取り締まり船「北王丸」で根室市花咲港に戻りました。
 疑問が残るのは、ロシア側が言うように、本当に密漁していたのか、しかも常習的に密漁と領海侵犯を繰り返していたのか、ということでした。
 領海侵犯の場合は、GPSで測定すれば、すぐ判明すると思いますが、我国が北方領土と主張している海域のためか、その真相はウヤムヤになってしまいました。
 そもそも、我国が北方領土の奪還を主張して半世紀以上経ちますが、進展は全く見られません。
 それもその筈、旧ソ連の時代は、日本と米国は、旧ソ連の 「仮想敵国」であり、また旧ソ連は、日本と米国の 「仮想敵国」だったのです。
 仮想敵国に領土を返還するような、お人好しの国家など、どこにもありません。もし仮想敵国という状態を回避するためには、米国との安保条約を廃棄し、ロシアと平和条約を締結するしかありません。  


密漁船銃撃事件

 しかし、情勢はそれとは全く逆に、日本と米国との同盟関係が、ますます強固なものとなっています。
 日本人の中には、旧ソ連が「日ソ中立条約(1941年締結)」を一方的に破って日本の占領地に攻め込んできた、と言う人もおりますが、この話はまったくデタラメなのです。
 1945年(昭和20年)4月5日、翌年期限切れとなる平和条約を、旧ソ連は延長しないことを日本政府に通達しています。
 これは、旧ソ連がヤルタ会談で、米国や英国と秘密裏に対日宣戦布告を約束したという事実があります。
 もしも、旧ソ連を「日ソ中立条約違反だ」と責めるのであれば、ヤルタ会談に参加した国の首脳を責めなければ公正ではありません。
 そもそも「日ソ中立条約の目的とその本質は、日本による中国侵略を、押し進めるために、背後にいるソ連を釘付けにした条約です。そのような条約など、一方的に破棄されても仕方がないものです。
 本当に北方領土を取り戻したければ、自衛隊を国後・択捉に派遣すれば良いのです。恐らくロシアは慌てるでしょう。
 そして、ロシアは、10個師団程度の軍隊を、奪還のために差し向けると思いますが、そこで自衛隊は島を死守すれば、国内外の世論は高まり、北方領土問題が世界中に広まるでしょう。
 仮に、北方領土が日本に返還された場合、旧島民は、はたして北方四島に戻って住むのかどうか疑問です。その場合、現在、住んでいる大勢のロシア人を追い出してしまうのでしょうか。もし、ロシア人を追い出した場合、追い出されたロシア人は、領土返還闘争を起こすでしょうね。
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靖国神社参拝問題解決法
 日本の閣僚による靖国神社参拝が原因で、第二次世界大戦で多くの犠牲者を出した周辺諸国の指導者や国民から反感を買っております。
 それは、戦争を起こした東条英機等のA級戦犯も合祀されている、というのが大きな理由のようです。
 日本政府は、A級戦犯を合祀することで、戦争犯罪人として烙印を押された当時の為政者を、「軍神」にしたということですね。
 靖国神社に祀られますと、国のために戦って戦死した将兵は、全て「神(軍神)」になるとされています。
 しかし、国のために戦った沖縄のひめゆり部隊が祀られていないのは何故でしょう。つまり対象者が女性の場合、沖縄戦で負傷した多くの将兵を助けても、軍神にはなれないようです。
 まあ、ひめゆり部隊には軍神は似合いませんが、こんなところにも、女性差別の現実が見られるようです。しかしながら、いかなる宗教にも信心が全くない私にとっては、どうでも良いことのように思います。 



東宝「日本のいちばん長い日(1967年)」
原作:大宅壮一  製作・配給:東宝  監督:岡本喜八
製作:藤本真澄、田中友幸  音楽:佐藤勝
出演:笠智衆、三船敏郎、山村聰、宮口精二、志村喬、神山繁、
高橋悦史、中丸忠雄、黒沢年男、土屋嘉男、島田正吾、藤田進、
佐藤允、久保明、伊藤雄之助、天本英世、中谷一郎、井川比佐志
田崎潤、平田昭彦、堺左千夫、藤木悠、小林桂樹、加東大介  
加山雄三、新珠三千代、松本幸四郎   ナレーター:仲代達矢


 そもそも、靖国神社はお寺じゃないのですから、軍神となった将兵の遺骨はそこには存在しません。
 中国や韓国・北朝鮮が問題にしているのは、A級戦犯をも軍神としてその霊をなぐさめ冥福を祈るといった行為なのでしょうか。
 私は、精神的に戦死者を弔うだけなら何ら問題はないと考えます。しかし、中国や韓国・北朝鮮には日本の神道が理解できないでしょう。
 ひょっとしたら、靖国神社に祀られ軍神となった将兵の遺骨が祀られていると誤解しているのかも知れま せん。
 そこで、靖国神社参拝問題を解決する為には、いっそのこと、第二次世界大戦で戦った相手である、毛沢東や蒋介石そして金日成等も靖国神社に一緒に合祀したら、誰からも文句は出ないと思われます。そうそう、アメリカのルーズベルトも最大の敵でした。それも一緒に祀りましょう。 
 昭和天皇がA級戦犯の合祀を遺憾として参拝しなくなったにも関わらず、国内外からの批判を余所目に、それでも日本の閣僚は参拝を続けています。 このような閣僚は、満州事変や日華事変などの日本による侵略行為をまったく反省しなかったA級戦犯の精神状態とほとんど変わりませんね。 

日本のいちばん長い日」ストーリー

 戦局が次第に不利になってきた日本に無条件降伏を求める米、英、中のポツダム宣言が、海外放送で傍受されたのは昭和二十年七月二十六日午前六時である。
 直ちに翌二十七日、鈴木総理大臣官邸で緊急閣議が開かれた。その後、八月六日広島に原爆が投下され、八日にはソ連が参戦、日本の敗北は決定的な様相を呈していたのであった。
 第一回御前会議において天皇陛下が戦争終結を望まれ八月十日、政府は天皇の大権に変更がないことを条件にポツダム宣言を受諾する旨、中立国のスイス、スウェーデンの日本公使に通知した。
 十二日、連合国側からの回答があったが、天皇の地位に関しての条項にSubject toとあるのが隷属か制限の意味かで、政府首脳の間に大論争が行なわれ、阿南陸相はこの文章ではポツダム宣言は受諾出来ないと反対した。
 しかし、八月十四日の特別御前会議で、天皇は終戦を決意され、ここに正式にポツダム宣言受諾が決ったのであった。この間、終戦反対派の陸軍青年将校はクーデター計画を練っていたが、阿南陸相は御聖断が下った上は、それに従うべきであると悟した。
 一方、終戦処理のために十四日午後一時、閣議が開かれ、陛下の終戦詔書を宮内省で録音し八月十五日正午、全国にラジオ放送することが決った。午後十一時五十分、天皇陛下の録音は宮内省二階の御政務室で行われた。同じ頃、クーデター計画を押し進めている畑中少佐は近衛師団長森中将を説得していた。一方厚木三〇二航空隊の司令小薗海軍大佐は徹底抗戦を部下に命令し、また東京警備軍横浜警備隊長佐々木大尉も一個大隊を動かして首相や重臣を襲って降伏を阻止しようと計画していた。
 降伏に反対するグループは、バラバラに動いていた。そんな騒ぎの中で八月十五日午前零時、房総沖の敵機動部隊に攻撃を加えた中野少将は、少しも終戦を知らなかった。
 その頃、畑中少佐は蹶起に反対した森師団長を射殺、玉音放送を中止すべく、その録音盤を奪おうと捜査を開始し、宮城の占領と東京放送の占拠を企てたのである。しかし東部軍司令官田中大将は、このクーデターの鎮圧にあたり、畑中の意図を挫いたのであった。
 玉音放送の録音盤は徳川侍従の手によって皇后官事務官の軽金庫に納められていた。午前四時半、佐々木大尉の率いる一隊は首相官邸、平沼枢密院議長邸を襲って放火し、五時半には阿南陸相が遺書を残して壮烈な自刃を遂げるなど、終戦を迎えた日本は、歴史の転換に伴う数々の出来事の渦中にあったのである。
 そして、日本の敗戦を告げる玉音放送の予告が電波に乗ったのは、八月十五日午前七時二十一分のことであった。

おわり
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恐怖
 死んでいるもの、と思っていたものが、突然動き出したとしたら、ギョッとするものです。
 私の場合、従兄弟の結婚式の時にご馳走になった「活き造りの鯉」が、突然動き出したため、それ以上食べられなくなったという経験があります。
 また、ある日、妻が、ナマコを料理しようとしたとき、ニョロッと動いたため、ビックリしていましたね。
 先日、虫が多いと言われているアブラコの煮つけを食べました。私は刺身にするよう頼んだのですが、妻は自信がないというのです。
 そのため、何処に虫が付いているのか分からなくなるため、美味しさ半減です。煮たり焼いたりしたら、仮に虫だらけだとしても分かりません。
やはり、アブラコは刺身に限ります。


日高幌尻岳へ(1972年7月) 
長い杖を持っているのが私(石川)です。
日高山脈「日高幌尻岳山行」 8ミリ映画
制作:石川プロダクション
 日高を登山した時の話です。
 登山口に遅く着いたので、周りは暗くなっておりました。
夕食の時には、もう懐中電灯がなければ何も見えませんでした。そこで、豚汁をつくって食べましたが、美味しいと思ったのは、その時だけでした。
 翌日早朝、登山に出発するまえに食器類を洗おうとして、昨日食べた豚汁の鍋の蓋を開けてビックリ。蛾などの虫がびっしりと入っていたのです。
 ひょっとしたら昨日、懐中電灯の灯りに寄ってきて、鍋の中に落ちたのではないか。そして、それを我々が食べてしまった。
 おぇー、と思っても後の祭りでした。
 私より10歳年上のリーダーは、「動物性蛋白質だから問題はない」と言いました。年寄りにはかないませんね。ガクッ。
おわり
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親の苦労
 親の苦労は実際に親にならなければ分からない、と思います。
 私が娘に「可愛い子には旅をさせよ、だぞ」といったら、娘から「可愛くない子には楽させて」と言葉が返ってきます。いやー困ったものです。
親のこころ子不知、だな」と言うと、娘は「子のこころ親不知、でしょ」と突っぱねるのです。


The Ten Commandments (7/10) Movie CLIP
映画「十戒」(1956年)
制作:セシル・B・デミル 主演:チャールトン・ヘストン 配給:パラマウント映画

 「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」などと、数千年前のモーゼの十戒のような説教をしても始まりませんし、そもそも、全ての人間が、モーゼの十戒を守っていたとしたら、この地球上から窃盗や殺人、さらに戦争もなくなっていたと思います。
 そして、そこにいる人間は、人間が創造した神に支配され、ただ生きているだけの人間です。それが良いのか悪いのか私には分かりません。
 笑い話でしょうが、モーゼが神から授かった「十戒」の石板が、実は三枚あって、モーゼが山から下りる途中に一枚落としてしまい、残ったのが二枚だったそうです。
 しかし、落とした一枚の石板には「汝、殺すなかれ、盗むなかれ」という戒めが書かれていたため、後の世に人間は、殺したり盗んだりする戒めは守らなくなったと言われています。
 私は、「子を持って、始めて知る親のエゴ」かも知れないと思って、娘に、ただ一言「分相応に生きれ」と言ってやるのです。
おわり
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日本神話と明治憲法の身分制度
 涼しい日が続いた札幌も、猛暑とまでは行きませんが、ようやく夏らしい気候になってきました。庭には沢山のチョウチョウが舞い、たいへん賑やかです。生きていくためには昆虫の世界も大変なんだと思う今日この頃です。
 さて、日本神話ですが「ヤマトタケル」や「ヤマタの大蛇」、「天の岩戸」など、ギリシャ神話にも勝るとも劣らぬ神話が山ほどあります。
 しかし日本神話の場合、神話と天皇を結びつけ、天皇は現人神だから敬わなければならない、というようになっております。
 まあ、奈良時代や天皇制を推進した明治、大正、昭和の初期(戦前)はそれで通じたのかも知れません。


映画「日本誕生」

 今の時代は、天皇のことを戦前のように「現人神」と言っても、誰も信用しないでしょう。それが証拠に、わが国の宗教は、国家神道よりも、仏教を中心に、他に統一協会や創価学会などの新興宗教が氾濫しています。
 ところで、日本の神話に「ヤマトタケル」がでてきますが、このヤマトタケルは、一人ではなく、征服者に名付けられた勇者のことだったそうです。
 神話では、クマソ征伐や蝦夷征伐のように、一人の皇子の活躍としてまとめられています。
 当時は、大伴一族や、物部氏、蘇我氏などの豪族が政権を自由に操っており、天皇を動かしておりました。1500年以上も前から官僚制度があったのです。

明治憲法における身分制度
 さて、ここで天皇制(専制君主制)の基盤となった明治憲法における身分制度を紹介します。

■天皇 大日本帝国の元首。
■皇族 天皇の一族。宮家。皇胤の男子及びその配偶者並びに皇胤の女子。
■華族 明治維新の功臣および実業家(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)
『皇族と華族を纏めて「貴族」と呼んだ。』
■士族 明治以前の武士の家系に属する者(士農工商の「」の階層)
■平民 農民、商人、職人(士農工商の「士を除く全ての人」)
『他に、えた、非人のことを「新平民」と差別して呼んだ。』


 なんと、大日本帝国憲法(明治憲法)では、江戸時代の士農工商の上に、更に華族、皇族という身分があったわけです。
 また、エタ非人は、平民籍に編入した後も、新平民と呼ばれました。アイヌも新平民と呼ばれたそうです。
 戦後、新憲法(日本国憲法)によって身分制度がなくなったとしても、家柄や学歴及び職業などによる差別意識は、いまでも生きているようです。
おわり
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おのぼりさんモード
 私が東京に行ったときは、十分、おのぼりさんモードを発揮します。
数年前の夏に行ったときは、新宿の駅前で通行人に都庁の場所を尋ねたり、芝公園の地下鉄駅前では、東京タワーの場所を訪ねたりしました。


東京の夜景(東京タワーより撮影)

 東京タワーと言えば、おのぼりさんのシンボル的存在だったと思いますが、今は、若者達のデートコースになっているようです。特に東京タワーから見る都内の夜景は素晴らしいですね。
 また、ランドマークタワーから見る横浜の夜景も綺麗でしょうね。
一度写真を撮ってみたいと思っています。以前、夫婦で横浜に行ったときは、シーバスからランドマークタワー周辺の夜景をビデオで撮りました。
 当時はまだデジタルビデオではなく、Hi8(8ミリビデオ)のビデオカメラでしたが、結構綺麗に撮れましたね。
おわり
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野良猫と犬猫の寿命
 もう15年くらい前になるでしょうか、私の自宅の周りに、数匹の野良猫がたむろしておりました。野良猫たちは北海道の冬は厳しいため、暖かい場所を探しながら彷徨い歩いておりました。
 その為、野良猫たちは、家主が勤務から帰宅してクルマのエンジンを切ったばかりの暖かいクルマのボンネットに上がったり、エンジンの 下に潜り込んだりと、命がけで暖を取っていたようです。
 町内では、クルマの所有者が、ボンネットに爪で傷を付けられたりするため猫を追い払っておりますが、またどこからか違う猫が現れるため、ネコゴッコではなくイタチゴッコが続いています。


  猫は犬と違い、集団で暮らすことはないようで、その日によってイタズラしに来る猫が異なるのです。北海道の厳冬期は、野良猫にとっては悲惨ですね。猫を捨てた飼い主は、責任を取るべきと思います。
 また、ある夏の日、自宅の裏玄関の方で、ニャーニャーという声がするので、様子を見に行ってみたら、親ネコが、6匹の子猫に乳を与えていました。その親ネコは私に対して歯をむき出して威嚇するのです。
 私は親ネコだけなら追い払ったのですが、微笑ましい光景でしたので、そのままにしておきました。その6匹が更にどんどん増えるのでしょうね。
 数年前、庭の池で飼っていた金魚が数匹、野良猫に食われてしまいました。今度、その野良猫たちを見つけたら捕獲しようと思っております。

犬猫の寿命
 ペットの犬猫の寿命は、最長で20年位と思いますので、飼う場合は、彼らのために飼い主の寿命も考慮しなければなりません。
 たとえば、飼い主の年齢が、50代半ばを過ぎてから犬猫を飼う場合は、彼らより先に寿命が尽きてしまう恐れがありますので、犬猫にとっては好ましいことではないと思います。
 つまりペットよりも、飼い主が先に死んではならないということです。
ペットにとっては、死に水を取ってくれる飼い主が存在することが一番幸せなのです。しかし、飼い主が長生きしても、認知症になったらペットの世話もできなくなるかも知れません。また、ペットも認知症になると「認認(にんにん)介護」になる可能性もあります。
 飼い主も、ペットも元気に長生きしましょう。
おわり
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安定した幸せ
 私がまだ20代の頃、結婚後の安定した幸せのために大切なことは「忍耐」と聞いたことがあります。これは妻と夫、双方に言えることです。
それが出来ないのでしたら結婚しても長続きはしないでしょう。


中島みゆき「世情」(シュプレヒコール入り)
「国民のささやかな幸せを破壊してきた国家権力との戦い」
 このように偉そうなことを申しておりますが、やはり、結婚してから、あわただしく子供を育て、そして時が過ぎ去り、一段落したときが一番楽しく幸せだと思います。夫婦の安定期というのは、この一段落したときですね。
老後の幸せもこの時期でしょうか。
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国家と個人
 私は憂国と聞きますと国家主義を連想します。つまり、国家主義とは、個人を犠牲にしても国家を至上とする主義で、戦前・戦中の軍国主義者が、この思想を国民に押しつけて悲惨な戦争を始めました。
 現在においても、軍国主義者の一部は、あの「崇高な戦争」は「個を超えた公のために」生きることで可能だったと言います。
 そして、この「」が、「国家」にほかならないことを語っています。
しかしそれは、国民を支配し押しつぶす国家」であり、国益のために隣国に強制的に自分達の言うことをきかそうとする「国家」です。
 日本・軍国主義による侵略戦争と、沖縄の地上戦の実態は、まさに「国家」は決して国民を守らないことを証明したのです。



馬鹿が戦車(タンク)でやってくる
 公とは、個人が、それぞれの基本的人権を認め合い、お互いにつくりあげていくものでなければなりません。過去の歴史をしっかり認識し、自分たちの未来は、自分たちで切り開くという立場が大切なのです。
 「」を押しつぶす「」と命がけで戦い、日本とアジアの平和、目に見えない他者のために戦った人達こそ、公と個とのあるべき関係を体現した人々だと思います。
 かつての軍国主義による侵略戦争に対するしっかりとした認識こそ、全人類の明日のために不可欠な条件であると思います。
公=国家」よりも「個=国民」の、一人一人を大切にしてこそ、輝かしい未来が切り開かれるものと確信しております。

日本国憲法 第十三条
【条文】 すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。
「日本国憲法第十三条」>>bit.ly/14g8Agm#k13
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大飢饉と日本沈没
  人類の終末が予言された「1999年の7の月」は、何事もなく終わりましたが、ノストラダムスの大予言で触れられていないのが、大飢饉です。 我が国の食料自給率は、40%(農水省公表)で、これは、端的に申しますと、昔、氷山に衝突して沈没した豪華客船タイタニックの救命ボート(定員の半数分以下しか用意されていない)と同じようなものです。
つまり、食料危機になると、半数以上の国民が餓死などで死んでしまうと言うことです。



日本沈没 / Panik über Tokio / Submersion of Japan
(German Trailer, 1973)
これは「日本沈没」のドイツ語の予告編です。
ドイツのタイトル、「Panik über Tokio」の意味は
日本語で「東京の上の恐慌状態」と言います。ドイツのほかのタイ­トルは「Der Untergang Japans」で、意味は「日本沈没」です。

 北朝鮮の食糧危機が他人事とは思えません。飢饉でなくても、以前の米騒動や昨年の野菜の極端な値上がりが良い例でしょう。
 もし大飢饉にでもなれば、食料はもとより、物価が極端に跳ね上がり、我々、一般庶民の生活を圧迫します。
 従って国民は、現在の農政に関心を持ち、早急に改善しなくてはならないと考えます。それでも、農業離れが進むと思いますので、国民皆農民運動を展開する必要があるでしょう。
 そして、最後に笑うのは、食料を握っている者であると思います。
 人間が、生きるか死ぬかという食糧難の際には、お金は紙屑同然です。

日本沈没
 地球物理学者である田所雄介博士は、地震の観測データから日本列島に異変が起きているのを直感し、調査に乗り出す。
 潜水艇操艇者の小野寺俊夫、助手の幸長信彦助教授と共に小笠原諸島沖の日本海溝に潜った田所は、海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見する。
 異変を確信した田所はデータを集め続け、一つの結論に達する。それは「日本列島は最悪の場合2年以内に、地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈没する」というものだった。
 最初は半信半疑だった政府も、紆余曲折の末、日本人を海外へ脱出させる「D計画」を立案・発動する。しかし、事態の推移は当初の田所の予想すら超えた速度で進行していた。
 各地で巨大地震が相次ぎ、休火山までが活動を始める。精鋭スタッフたちが死に物狂いでD計画を遂行し、日本人を続々と海外避難させる。
 一方、あえて国内に留まり日本列島と運命を共にする道を選択する者もいた。四国を皮切りに次々と列島は海中に没し、最後に北関東が水没して日本列島は完全に消滅する。日本沈没

ノストラダムスの大予言


 1973年に祥伝社から発行された五島勉の著書。
 フランスの医師・占星術師ノストラダムスが著した『予言集』(初版1555年)について、彼の伝記や逸話を交えて解釈するという体裁をとっていた。その中で、1999年7の月に人類が滅亡するという解釈を掲載したことにより、公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなった。実質的に日本のノストラダムス現象の幕開けとなった著作である。翌1974年には、東宝でこれを原作にした文部省推薦の同名の映画も制作公開されている。その作品については、ノストラダムスの大予言 (映画)を参照のこと。
おわり
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★官僚顧客勢揃い★
(平成10年2月26日当時) 今は懐かしい、ノーパンしゃぶしゃぶ「楼蘭」 顧客名簿です。この「楼蘭」と言う店はハニートラップの為に作られた店だった!
日本国憲法全文
労働基準法
戦争を煽ったマスコミ
NHKの不祥事
連日のように、BSを利用して 反共反社会派プロパガンダを 展開しているNHKですが、その 目的は、「言論の自由を守る」 という名目と耳障りの良さで 「自分たちの既得権を守る」 ためと言わざるをえません。
 マスコミ扇動と虚構
チェルノブイリから福島へ 未来への答案 「NNNドキュメント 3.11大震災シリーズ」
Profile
 北大工学部・情報工学科 計算機室にて
2014/02/15
2014/02/11
2014/12/28
第二次朝鮮戦争
イムジン河が 赤く染まるとき
2014/11/30
2014/11/14
2014/06/13

朝鮮人民軍に受け継がれる
日本軍歌
忘れるな! あのスキャンダル 国会議員たち
2014/01/08
2014/02/01
東海村臨海事故[拡大] 
被曝死
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嘘つきの世界
 橋下徹の正体
原子力村 癒着の相関図
原子力村 癒着の相関図 放射線被ばくの早見図
 
大手ゼネコン大儲け 北海道新幹線着工へ
お金持ちの 未来のために
 
2014/01/27
2014/05/29
 
 
1974年 東宝