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20世紀 哲学・思想史 敵前逃亡の国連軍 なぜ今“玉音放送”なのか 事件と世相 新館
安倍晋三とヒトラー
ニュースサイト ハンター 
HUNTER
2014年6月25日
 解釈改憲による集団的自衛権の行使容認に向けて、秒読み段階となった日本。
「平和の党」を自認してきた公明党は、政権側から政教分離を定めた憲法と活動実態との整合性をつかれ腰砕け。
それどころか、自民党側が提示したとされていた自衛権行使の「新3要件案」が、じつは公明の北側一雄副代表が内閣法制局に作らせたものだったことが西日本新聞のスクープ報道で暴露され、出来レースであることを露呈した。
 野党各党もバラバラで、安倍の暴走を遅らせることすらできない。
主権者たる国民はそっちのけで、戦後から「新たな戦前」へと突き進むスピードが増すばかりだ。
 経済を立て直し、美しい国をつくるなどと聞こえのいいことを叫びながら、其の実戦争への道をひた走る安倍晋三の手法は、かつてナチスドイツを率いたヒトラーのそれと同じである。

憲法前文が示す“戦争は政府が起こすもの”
 お仕着せであろうとなかろうと、戦後の日本に平和をもたらしたのが「日本国憲法」であることに議論の余地はない。とりわけ恒久平和を誓った「前文」と、戦争放棄を定めた「9条」が、重要な役割を果たしてきたことを肝に銘じるべきだろう。

 安倍がやろうとしているのは、事実上の憲法改正。
多くの国民の努力と汗で積み上げられた平和や国家への信頼が、一人の政治家によって根底から覆されようとしているのである。

 安倍の思惑次第で武力行使の範囲が拡大していくことは、自民党と公明党の協議過程をみれば歴然。
どれだけ「限定的」などという言葉のまやかしを並べても、集団的自衛権を行使することに変わりはない。
武力行使はさらなる反撃を招き、本格的な戦争へと拡大していくものだ。
しかし、政府の判断だけで国民を戦争に引きずり込むことは許されない。日本国憲法の「前文」には、こう謳ってあるからだ。
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 憲法前文にある、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し』との一文は、戦争を起こすのが政府であることを明示し、これを否定したものだ。
だが、安倍政権による解釈改憲と集団的自衛権の行使容認は、この憲法前文が否定したはずの「政府による戦争」が、現実になることを意味している。
主権者たる国民が無視されている現状も、憲法前文の精神とは相容れないものだ。


ナチスドイツとその時代の再来 
 国家間で戦争が起きる場合、最終決断を下すのは一人の為政者だ。
本当に自衛が目的なら、責められることはない。
しかし、狂った人間が国民の支持を得、欲望のおもむくままに戦争を志向した場合、悲惨な結果を招くことは歴史が証明している。
ここで想起されるのは、ナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーである。

 ドイツは、第一次世界大戦で敗戦国となったあと、ヴェルサイユ条約によって巨額な国家賠償金を課せられた。
疲弊したドイツで台頭したのは極右政党のナチス。
政権をとったヒトラーとナチスは、公共事業による国内経済の立て直しを図る一方で、ワイマール憲法を歪め、ヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備を実現する。
この後のヒトラーとドイツの歩みは、誰もが知るところだろう。
ドイツ、イタリアと「日・独・伊三国同盟」を結んだ日本も、泥沼の戦争に突入し、国民に塗炭の苦しみを与えるに至る。
 安倍晋三と自民党のここ1年の動きは、第二次世界大戦までのヒトラーとナチスに酷似している。
右寄り姿勢を強めた自民党の政権復帰は、ナチスの政権奪取過程と同じ。
ともに偏狭なナショナリズムに支えられたものだ。
国土強靭化と称した公共事業を軸とするアベノミクスによる見せかけの経済再生も、ヒトラーががやったドイツ再生策と基本的には同じ。
かつての治安維持法に比類する特定秘密保護法の制定は、ナチスを象徴する秘密警察ゲシュタポの時代の再来だ。
そして解釈改憲による集団的自衛権の行使容認は、ヒトラーがやった事実上の憲法改正と、ドイツ再軍備にあたるだろう。
昨年、麻生太郎副総理が憲法改正問題にからみ「ナチスに学んだらどうか」と発言し、世界中の顰蹙を買ったが、安倍は言われるまでもなくヒトラーの手法を踏襲しているのだ。
 HUNTERには読者から様々なメールが送られてくる。その中には時代を風刺した画像もある。
最近増えたのが安倍をヒトラーに模した画像で、下はその中のひとつ。
笑う安倍ヒトラー、戦闘機、きのこ雲――日本の未来を予見した1枚と言えそうだ。
「平和の党」の終焉 公明党・創価学会が 抱える矛盾
 国民の過半数以上が反対するなか、きょう、集団的自衛権の行使容認に向けた「解釈改憲」が閣議決定される。
これに伴う自衛隊法などの関連法案改正が行われるのが秋の臨時国会。
安倍晋三という一人の狂った為政者が、戦後70年の節目となる2015年を「新たな戦前」のスタートに変える。
 平和を希求してきたこの国の方針を180度転換させる重大な決定を、主権者であるはずの国民の意見も聞かず、自民党と公明党だけで決めるという暴挙。
これは同時に、「平和の党」を自認してきた公明党の終焉を意味している。
支持母体である「創価学会」は、本当にこれを認めるのか?学会員は、自分たちの組織の歴史と、どう整合性をつけるのか?


戦争否定した「人間革命」の書き出し 『戦争ほど、悲惨なものはない。』
だが、その戦争はまだ、つづいていた。
愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである。
人間革命」――全12巻。著者は創価学会の支柱である池田大作名誉会長。
学会員なら誰もが読んでいるはずの大作の第1巻は、こう始まっている。
 同書は、創価学会の第2代会長である戸田城聖氏の生涯を通じて、戦後に組織を拡大していく学会の軌跡を描いたもの。
文庫本発刊にあたっての巻頭言には、『人間革命は、創価学会の精神の正史である』と記されている。
その書き出しで池田名誉会長は、戦争を起こした指導者たちを『愚か』と切りすて、率いられる国民を『哀れ』と喝破したのである。
この精神はどこへ行ったのか……。


戦時中には弾圧の歴史
 創価学会の前身は「創価教育学会」。
1930年(昭和5年)に、教員出身で初代会長となる牧口常三郎氏や戸田城聖氏が創設した。
日蓮上人が説いた仏法に基づく教育の実践を目指し活動していたが、戦後、戸田氏が組織名を「創価学会」に改め、第2代会長となってから宗教法人として急成長。
1960年(昭和35年)には池田大作氏が第3代会長に就任し、世界的な宗教団体に育て上げた。
 学会は当初、日蓮正宗の信者の集まりである「講」の一つに過ぎなかったが、1991年(平成3年)に日蓮正宗の総本山である大石寺から破門され、独立した宗教団体に――。
現在の会長は6代目となる原田稔氏。信者数は、公称で827万世帯とされている。
1964年(昭和39年)には公明党(当初は「公明政治連盟」)を組織し、政治の世界に影響力を持つまでになった。
 いまでこそ大きな勢力となった学会だが、 戦時中は神道による国家統制を徹底した当時の政府によって弾圧を受け、1943年(昭和18年)、牧口氏や戸田氏を含む幹部数十名が治安維持法違反などの疑いで逮捕されている。
牧口氏は獄死。学会組織は崩壊寸前になるという悲痛な歴史を刻んでいるのだ。
だからこそ、学会や公明党は「平和」を最大の活動目標にしてきた。創価学会の公式サイトには、学会について、次のように説明されている。
 創価学会は、大乗仏教の真髄である日蓮大聖人(1222~1282)の仏法を信奉する団体です。
 その目的は、仏法の実践を通して、一人一人が真の幸福境涯を確立するとともに、生命の尊厳を説く仏法哲理を根本に、恒久平和、豊かな文化、人間性あふれる教育の創造を推進し、人類社会の発展に寄与することにあります。
 1930(昭和5)年の創立以来、日本では827万世帯、海外にも192カ国・地域の会員が日蓮大聖人の仏法を実践し、各国の繁栄と平和を願い、活動しています。
 「創価」とは価値創造を意味しています。
その価値の中心である「生命の尊厳」の確立に基づく「万人の幸福」と「世界の平和」の実現が、創価学会の根本の目標です。
 日蓮大聖人は「自分の幸福を願うならば、まず周囲の平和を祈るべきである」と述べ、個人の幸せは世界の平和・安穏なくしてはありえないと説いています。
その意味で創価学会は、一人一人の幸せのみならず、真の平和・幸福社会の実現を目指しているのです。
 短い文章の中に、「平和」の二文字が6回。創価学会の政治部門とも言うべき公明党が、「平和の党」と呼ばれるゆえんはここにある。
弾圧。初代会長の獄死。組織壊滅の危機。いずれも戦争が招いた出来事であり、学会や公明党が「平和」を叫ぶ原点だ。


矛盾

 創価学会も公明党も、「政教一致」を否定してきたが、その活動実態はどう見ても政治と宗教の一体化。
政教分離を定めた憲法に違反しているとの見方があるのは事実だ。
それでも公明党の存在が認められてきたのは、同党や創価学会が「平和」を叫び、弱者の味方として一定の存在感を示してきたからに他ならない。その点は評価に値する。
 その公明党が解釈改憲を認め、戦争への道を切り開く手助けをするという。
どれだけ“へ理屈”を並べてみても、この構図を否定することはできない。
異例の声明まで出して解釈改憲に反対していたはずの学会も、いつの間にか変節してしまっている。
戦争を否定してきた側が、戦争指導者になる道を選んだと言っても過言ではあるまい。
 池田大作氏が、「人間革命」の冒頭に書いた≪愚かな指導者たちに、率いられた国民もまた、まことに哀れである≫は、現状にピタリとあてはまる。
このことを、学会はどう説明するのだろう。

ナチスの手口に学べ」「いつの間にか騒がれるようになった。マスコミが騒いで、中国も韓国も。ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね


 麻生太郎副総理兼財務相が2013年7月29日、東京都内のホテルで講演した際、憲法改正に関しての発言。
副総理の立場にある麻生発言は、ナチス政権の手法を肯定したとも取れる発言で、波紋を呼ぶ可能性がある。(時事ドットコム)

 世界が、忘れることも、許すこともできないナチスの手法を、こともあろうに日本国の総理経験者が見習えと宣ったのである。安倍晋三総理の悲願なのか、自民党の集大成なのかは知らないが、とにもかくにも、政府は憲法改正に躍起になっている。(ダイヤモンドオンライン)


ナチスがたどった忌まわしき歴史を、 二度と繰り返さぬようここで述べる。

 1930年前後、ドイツ国家人民党(DNVP)、ドイツ人民党(DVP)の衰退は、世界経済「大恐慌」のドイツへの到来を契機として顕著であった。
 そうした中で、共和制初期の大インフレーションに、最大限苦しめられたドイツ農民も含めた中小市民階級は、ナチ党の政治スローガンに引きつけられていった。

 ナチ党左派(後にヒトラーにより粛正される)のリーダーたちは「革命的社会主義」による”社会正義” の実現に言及したが 、1927年、国民啓蒙・宣伝相のゲッペルスのパンフレットに由来する《第二革命》の主張も、国家社会主義 経営細胞組織(NSBO)や突撃隊(SA)に、一定の共感をもって浸透していったスローガンでもあった。

 ナチ党は、ドイツ共産党(KPD)との対抗上、革命宣伝を実行し、両党は、各々相手の宣伝のためのスローガンを利用しあった。ナチ党新聞も「労働者よ、諸君の鎖を解け!」とか「労働者よ団結せよ!」など、マルクス主義の定式化されたスローガンをくり返し叫んでいたのである。
 ナチ党は、国際政治面では、ヤング案(国際利子奴隷の存続を許すもの)反対、ヴェルサイユ条約修正の主張を行い、国内政治面では、窮乏化してゆく国民各層に対応すべく、中小市民階級に対しては、反共産主義を謳いながら、社会主義的色彩も加味した社会政策の提唱を行なっていたのである。

 1930年9月、ナチ党議員団は、選挙が終ると直ちに、国会において、総ての銀行と仲買業者の資産、および1914年以後にドイツに移住した東欧ユダヤ人すべての財産の没収、 戦争および投機からの利得の没収、 大銀行の国有化を骨子とした法案を議会に提出した。
 ヒトラーは、階級闘争を止揚した民族共同体内協同組合を、労働組合として考えていたのであり、ヒトラーやのちの右派、ドイツ労働戦線(DAF)の指導者R.ライなどにとっては、この時期の、国家社会主義経営細胞組織(NSBO)は、やがて、それへ移行するための、暫定的中間体としての意義しかなかったのである。

 突撃隊(SA)は、大恐慌の進展に伴い、中小市民階級から、失業により排除された人々や青年失業者、労働者など、失業、半失業者の多数の流入により、1929年8月で5万人、1930年6月で6万と増大し、ナチ党下部団体として勢力を拡大していった。

 1930年3月以後のブリューニング第1、第2次内閣になると、労働者階級が獲得していた価値分配の一定の権利(賃金の下方硬直性も含め)は、緊急命令によって次々と剥奪されていった。
ブリューニングは1932年一杯、総ての工場評議会選挙の禁止を発令した。

 1932年、共和制最後の年。国会選挙でナチ党は、ヒトラーを「貧しい労働者階級の出身である」と宣伝し、一部のパンフレットにおいては、突撃隊(SA)の制服を着たヒトラーを載せ、そのタイトルは「アドルフ・ヒトラー『ドイツの労働者、前線の兵士』」であった。
 国民啓蒙・宣伝相のゲッペルスは、労働者階級のナチ党への掌握を目的として、既に、1931年9月1日より運動を始めていた。

 この運動は、最初はベルリンで、新たに1万2千人の工場細胞としての新党員を獲得する目標で発案されたものであるが、1932年には全国に拡大された。
 一方、ドイツの保守勢力は、ナチ党の急激な左傾化を警戒し、フーゲンベルク(DNVP 指導者)は、1932年6月、ベルリンでのドイツ国家人民党(DNVP)指導者会議の席上、「ナチ党は社会主義の方向に進んでいるから、マルクス主義同様、ドイツにとって危険である」と主張した。

 1932年7月31日のドイツ国会選挙において、ついにナチ党は、共和制期を通じて、常に第1党であったドイツ社会民主党(SPD)に代って、第1党(230議席、投票得票率 37.4%)ドイツ社会民主党(SPD)133議席 21.6%になった。これは、ナチ党「合法路線」の勝利であった。

 同年11月の選挙でナチ党は34議席を失ったが、第1党の地位は保持した。
一方ドイツ共産党は、11議席を増やし、首都ベルリンでは共産党が投票総数の31%を占めて単独第1党となった。
 これに脅威を感じた保守派と財界は、以後、ナチ党への協力姿勢を強め、途絶えていた財界からナチ党への献金も再開された。

 全国レベルでのナチ党の大勝利の背景に触れておけば、ナチ党が過半数の得票率を得た全国で、唯一の選挙区であるシュレスヴッヒ・ホルスタインの地方的性格が示すように、ナチ党支持基盤としては、農村と小都市の住民であり、経済的には、独立したプロテスタントの中間層が多かった。

 既成政党に対しては関係しなかった人々(無党派層)の多くが、共和制末期の自ら政治化せざるをえない状況の下で、ナチ党を選んだのであり、婦人票について考えると、ナチ党員は、全党員中、女性の占める割合は、3%にすぎなかったが、ナチ党獲得票の半分は女性の票であった。

 1933年1月30日、ヒトラーはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命されて、ついに政権を獲得した
 同時にナチ党幹部であるヘルマン・ゲーリングが、無任所相兼プロイセン州内相に任じられた。
 ゲーリングは、プロイセン州の警察を掌握し、突撃隊や親衛隊を補助警察官として雇用した。これにより、多くのナチ党の政敵、特にドイツ共産党およびドイツ社会民主党員が政治犯として強制収容所に収容された。

 ヒトラー首相就任(1933年1月30日)から1934年8月までの僅か1年半の間に、ナチ党は、イタリアファシズムが6ヶ年を要した過程を、はるかに徹底的に遂行した。ヒトラー首相就任からの最初の1ヵ月間だけで、460もの特別法令が発せられたことからも、そのすさまじさがうかがわれよう。

 1933年7月6日に、ヒトラーは、「ナチ党革命の終息を宣言」することにより、ナチ党大衆が、右への「強制的同一化(政治や社会全体を「均質化」しようとするナチ党・ドイツの根本政策およびその思想を指す言葉。その影響は公的なものから個人の精神にまで及んだ。強制的同質化とも訳される。)を遂行しようとするエネルギーを圧殺しようとしたのである。

 1933年2月1日、ナチ党はワイマール憲法改正のための、3分の2の議席を獲得すべく、国会を解散した。
 国会選挙の結果、ナチ党1727万票(43.9%)、ドイツ中央党(カトリック系政党)442万票(11.2%)、ドイツ社会民主党718万票(18.3%)、ドイツ共産党484万票(12.3%)となった。

(放火されたドイツ国会議事堂)
 そうした最中、2月27日にドイツ国会議事堂放火事件が発生した
 ヒトラーはこれを口実として「民族と国家防衛のための緊急令」と「民族への裏切りと国家反逆の策謀防止のための特別緊急令」の二つの緊急大統領令を発布させた。
 3分の2の議席の獲得はできなかったナチ党は、ドイツ中央党(カトリック系政党)など中道政党の賛成も得て、 3月23日「全権委任法」を制定し、一党独裁体制を確立した。これにより国内の行政・警察権限を完全に握ったヒトラーは、ドイツ共産党に対する弾圧を行った。
 さらに、ドイツ国内の政党・労働団体は解散を余儀なくされ、ナチ党は国家と不可分の一体であるとされた。
 国会選挙で、81名の議席を獲得したドイツ共産党(KPD)は、選挙後には非合法化され、共産党議員の議席は議席ごと抹消された。
ドイツ共産党(KPD)は、国会、州、郡議会の議員を含め、その地位を奪われ、実質的に党の解体となり、地下活動を余儀なくされたのである。


全権委任法:ヒトラーの政府に国会が立法権を委譲した「民族および国家の危難を除去するための法律」 制定手続きはヴァイマル憲法の憲法改正手続きにのっとって行われ、ヒトラーが制定理由を「新たな憲法体制」(Verfassung)を作るためと説明し、前文に「憲法改正的立法」とあるように通常の法ではなく、憲法改正法であった。この法律によって国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP/ナチ党)の独裁が初めて確立されたと見られることもあるが、これ以前から既にナチ党は強大な権力を掌握していた。
全権委任法 (ウィキペディア)

 その後、ヒトラーは、5月1日のメーデーで、ナチ党体制下での改革を意図した《国民的労働の日》の創設、5月2日には、右派のドイツ労働戦線(DAF)の成立、同じくして「ドイツ労働総同盟」の突撃隊(SA)による解体、さらに6月22日のドイツ社会民主党(SPD)およびその諸属団体の活動を禁止した。

 ナチ党への投票者の内訳は、労働者のみをとっても、3分の1を構成し、さらにサラリーマン、職人、農業労働者を加えれば、過半数を占める。
それ故「労働者(Worker)」を広義に捉える場合、ヒトラーは「ナチ党と労働者」との関係こそが、最も重要であると主張した。

 ナチ党政権の成立前後より、左への強制的同質化が急速におし進められる間、ドイツ労働者階級は、ナチ党政権に対し、ゼネストで反抗しようとはしなかった。
 世界大恐慌の到来と、労働者階級との関係における最も深い矛盾は、生産関係からの排除という現実において、労働者階級自らの本来的課題である「生産関係の止揚という課題」を克服・実現することであったのであり、ドイツ労働者階級は「合法主義路線」に退行せざるをえなかったのである。

 ドイツ共和体制下の既存の労働者諸組織が、自らの圧倒的優位にも拘らず「合法主義路線」を選択した背景には、来たるべき「第三帝国」を展望するとき、自らと本質を同じくすると思われた右派のドイツ労働戦線(NSBO)の存在そのものが、自らの安全のための《保証》として把えられたのだろう。

 こうして、ナチ党は、1935年にはヴェルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言した。ヒトラーはアウトバーンなどの公共事業に力を入れ、壊滅状態にあったドイツ経済を立て直した。
 一方で、ユダヤ人、ロマ(ジプシーと呼ばれてきた集団のうち中東欧に居住する移動型民族)のような少数民族の迫害など独裁政治を推し進めた。
 ヒトラーの政権獲得間もない頃から、公職にあったユダヤ人達はその地位を追われ始めた。またナチ党の突撃隊による1935年9月15日のニュルンベルク党大会の最中、国会でニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「帝国市民法」)を公布した。

 この中でアーリア人とユダヤ人の間の結婚や性交は禁止され、ユダヤ人の公民権は事実上否定された。この法律公布後、民間レベルのユダヤ人迫害も増していった。各地の商店に「ユダヤ人お断り」の看板が立ち、ベンチはアーリア人用とユダヤ人用に分けられた。ユダヤ人企業は経済省が制定した安価な値段でアーリア人に買収され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外の診察を禁じられ、ユダヤ人弁護士はすべて活動禁止となった。また、ユダヤ人、ユダヤ経営とされた企業の資産は没収され、ドイツ人達に引き渡された。

 1936年にはドイツ軍はヴェルサイユ条約によって非武装地帯となっていたラインラントに進駐した(ラインラント進駐)。
 同年には、国家の威信を賭けたベルリン・オリンピックが行われた。また、1938年には最後の党外大勢力であるドイツ国防軍の首脳をスキャンダルで失脚させ(ブロンベルク罷免事件)、軍の支配権も確立した。

 外交においては、“劣等民族”とされたスラブ人国家のソ連を、反共イデオロギーの面からも激しく敵視し、英仏とも緊張状態に陥った。ただし、ヒトラーはイギリスとの同盟を模索していたとされる。
 アジアにおいては、リッベントロップ外相の影響もあり、伝統的に協力関係(中独合作)であった中華民国(中国)から、国益の似通う日本へと友好国を切り替えた
1936年には日独防共協定を締結。1938年には満州国を正式に承認し、中華民国のドイツ軍事顧問団を召還した。1940年9月にはアメリカを仮想敵国として日独伊三国軍事同盟を締結した。

 1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)。9月にはチェコスロバキアに対し、ドイツ系住民が多く存在するズデーテン地方の割譲を要求。
 英仏は反発し、戦争突入の寸前にまで陥ったが、イタリアのベニート・ムッソリーニの提唱により英仏独伊の4ヶ国の首脳によるミュンヘン会談が開かれ、ヒトラーは英仏から妥協を引き出すことに成功した。

 この時ヒトラーが、英国のネヴィル・チェンバレン首相に出した条件は「領土拡張はこれが最後」というものであった。しかしヒトラーはこの約束を遵守せず、翌1939年にはドイツ系住民保護を名目にチェコスロバキア全土に進軍、傀儡政権として独立させたスロバキアを除いて事実上併合した。

 オーストリア・チェコスロバキアを手に入れたヒトラーの次の目標は、ポーランド領となっているダンツィヒ回廊であった。
 ヒトラーは軍事行動に先立って、犬猿の仲とされたヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦との間で独ソ不可侵条約を締結。世界中を驚愕させた。



■第二次世界大戦
 ヒトラーはダンツィヒ回廊の返還をポーランドに要求。拒否されると、独ソ不可侵条約締結から、ちょうど1週間後の1939年9月1日に、ドイツ軍はポーランドへ侵攻した。
ヒトラーは、イギリスとフランスは参戦しないだろうと高をくくっていたが、その思惑に反してイギリスおよびフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次世界大戦が開始された。しかし、戦争準備が十分でなかった英仏は、ドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポーランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを除いてまったく生じなかった。

 西部戦線におけるこの状態は、翌1940年5月のドイツ軍によるベネルクス3国侵攻まで続いた。ポーランドはドイツ軍の電撃戦により1ヶ月で崩壊。国土をドイツとソ連に分割された。
 1940年の春には、ドイツ軍はデンマーク、ノルウェーを立て続けに占領し、5月にはベネルクス三国に侵攻、制圧した。
 ドイツ軍は強固なマジノ線が敷かれていた独仏国境を避け、ベルギー領のアルデンヌの森を突破に一気にフランス領内に攻め込んだ。ドイツ軍は電撃戦によりフランスを圧倒し、1ヶ月でフランスを降伏に追い込んだ。

 イギリスを除く西ヨーロッパの連合国領のすべてを征服したドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦(アシカ作戦)の前哨戦として、ブリテン島上空の制空権を賭けてバトル・オブ・ブリテンを開始したが敗北した。

 そして、1941年6月22日、ドイツ軍は、突如、独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。ソ連軍は、完全に不意を突かれた形となり、スターリン(ソビエト社会主義共和国連邦、連邦共産党書記長)の大粛清によるソ連軍の弱体化の影響もあり、ドイツ軍は同年末にはモスクワ近郊まで進出した。しかし、ドイツ軍は、冬将軍の訪れと補給難により撤退。独ソ戦は膠着状態となり、ヒトラーが当初もくろんだ1941年内のソ連打倒は失敗に終わった。

 1944年6月、連合軍がフランス北部のノルマンディーに上陸し、ドイツ軍は二正面作戦(対米英戦、対ソ連戦)を余儀なくされる。同時期には東部戦線でもソ連軍によるバグラチオン作戦が開始され、ドイツ軍の敗色は濃厚となった。
 1944年7月には、ヒトラー暗殺計画とクーデターが実行されたが、失敗に終わった。
東部戦線でのソ連軍の進撃に伴い、ルーマニア・ブルガリア・フィンランドといった同盟国が次々に枢軸側から離反した。
 各地で敗退を続けるドイツ軍は、同年12月に西部戦線で一大攻勢に打って出た(バルジの戦い)が失敗に終わる。

 1945年に入ると、ドイツ軍は連合軍のライン川渡河を許した。東部戦線でもソ連軍が東プロイセンを占領し、オーデル・ナイセ線を越えた。
 1945年4月、ソ連軍によるベルリン総攻撃が開始され、30日にヒトラーは総統官邸の地下壕で自殺した。
 ヒトラーの遺言により、カール・デーニッツ海軍総司令官が大統領となった(フレンスブルク政府)。
 1945年5月2日にベルリンはソ連軍によって占領され、ベルリンの戦いは終結した。5月7日、デーニッツにより権限を授けられた国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨードル大将が連合国に対する降伏文書に署名し、翌5月8日に最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が批准文書に署名した。

 すでに、ナチ党は事実上崩壊しており、連合国も中央政府の存在を認めなかったため「ベルリン宣言 (1945年)」、ナチ党の政府は消滅した。

2014/12/04 石川栄一
 
 


「参考文献」  

■ヴァイマール共和制期におけるナチ党の権力掌握 〔皿〕

 「国家社会主義企業細胞組織《NSBO》」から「ドイッ労働戦線《DAF》」の成立まで「井代彬雄」
ナチス党・ドイツ (ウィキペディア) ナチス党の政権掌握 (ウィキペディア)


■「第三帝国」

 第三帝国は、古くからキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味する概念として用いられた。第三の国とも。ナチ党による呼称が有名。
 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)統治下のドイツでは盛んに用いられ、当時のドイツを指す言葉として知られる。ただし、公式のドイツ国名として用いられたわけではなく、公式に用いられたのは「Deutsches Reich(ドイツ国)」、もしくは「Grosdeutsches Reich(大ドイツ国)」であった。
第三帝国 (ウィキペディア)


■「ナチ党(国家社会主義民族労働者党)」

 前身の党は「ドイツ労働者党」である。1920年、党の実力者となったヒトラーが改名を主張し、ルドルフ・ユングがオーストリアの「ドイツ国家社会主義労働者党」の命名パターンに従うことを要求した。
 国家社会主義ドイツ労働者党(略称: NSDAP)は、かつて存在したドイツの政党。一般にナチ党、ナチスなどと呼ばれる。1919年1月に前身のドイツ労働者党が設立され、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党に改称した。
アドルフ・ヒトラーが指導者として率い、1933年に政権を獲得後に独裁体制を敷いたものの、1945年のドイツ敗戦により解党した。
ナチ党(国家社会主義民族労働者党) (ウィキペディア)


■「国家社会主義」と「社会主義」の違い

◆国家社会主義は、国家や政府による重要産業の国有化と統制経済を柱としており、改革を手段とする。
 従来の社会主義は、協同組合や労働組合などの共同体を基本とするものや、マルクス主義など暫定的な政治権力獲得によるプロレタリア独裁を認めつつ「共産主義社会に達すれば国家は死滅する」とするものが多かったが、ラッサール(政治学者、哲学者)は、普通選挙によって国家や政府が労働者階級の権利や利益を反映して社会主義政策を進める事を主張した。
 マルクス(哲学者、経済学者)は、1875年の『ゴータ綱領批判』でラッサール主義を批判したが、ラッサールの主張はその後のドイツ社会民主党に影響を与えた。


◆社会主義

社会主義は、個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制。歴史的にも社会主義を掲げる主張は多数あり、共産主義、社会民主主義、無政府主義、国家社会主義なども含む。「社会主義」にはさまざまな定義や潮流がある。
狭義には、生産手段の社会的共有と管理を目指す共産主義、特にマルクス主義とその潮流を指す。広義には各種の社会民主主義、一部の無政府主義、民族社会主義なども含めた総称である。
社会主義 (ウィキペディア)


◆共産主義

共産主義は、産業の共有によって搾取も階級もない社会を目指す。
フランス革命時のバブーフは「土地は万人のものである」として物品の配給による平等社会を目指し「共産主義の先駆」とも呼ばれる。


◆マルクス主義(科学的社会主義)

マルクス主義はマルクスとエンゲルスにより展開された。
従来の社会主義を「空想的社会主義」と批判し、唯物史観と剰余価値説による「科学的社会主義」を対置、共産主義革命は歴史の必然とした。
1848年や1871年などの革命の経験から、議会制民主主義は、ブルジョア民主主義として暴力革命とプロレタリア独裁を主張したが、19世紀後半には、マルクスは平和革命の可能性も認めており、エンゲルスは暴力革命が時代おくれとなったと述べている。
なお、マルクス・レーニン主義では、資本主義社会から共産主義社会に発展する中間の段階を「社会主義社会」とも呼ぶ。


■ドイツ国会議事堂放火事件

犯人の『逮捕』現場を捜索したところ、焼け残った建物の陰でちぢこまっていた半裸の人物マリヌス・ファン・デア・ルッベが発見された。ルッベはオランダ人でオランダ共産党員であった。ルッベは放火の動機は「資本主義に対する抗議」と主張しており、プロイセン内務省のディールス政治警察部長も「一人の狂人の単独犯行」と推定した。
ディールスは国会議長公邸で開かれた閣僚、警視総監、ベルリン市長、イギリス大使、元皇太子ヴィルヘルム・アウグストなどが参加する対策会議で犯人逮捕を報告した。
しかし、ヒトラーは「共産主義者による反乱計画の一端」と見なし、「コミュニストの幹部は一人残らず銃殺だ。共産党議員は全員今夜中に吊し首にしてやる。コミュニストの仲間は一人残らず牢にぶち込め。社会民主党員も同じだ!」と叫び、単独犯行であるとするディールスの意見を一蹴した。
ドイツ国会議事堂放火事件 (ウィキペディア)
戦後のワースト総理 栄えある1位に輝いたのは麻生首相だった!
『週刊文春』に戦後のワースト総理、1位に麻生首相「週刊文春」調べ(livedoor ニュース)という結果が出たが、朝日の世論調査でも「首相は早く辞めて欲しい」票が71%にものぼったそうだ。

「首相は早く辞めて」71%
 朝日新聞緊急世論調査 
 2009年2月20日23時40分

 中川財務相の辞任を受けて、朝日新聞社が19日夕から20日夜にかけて実施した緊急の全国世論調査(電話)によると、「麻生首相は早く辞めてほしい」との答えが71%に達した。内閣支持率は13%で、今月7、8日の前回調査の14%に続いて低迷。不支持は75%(前回73%)だった。


 いやあ、それでもまだ支持率が13%もあるっていうのが驚きだけど、麻生を今支持しているのって、麻生の息子が取締役の(株)ニワンゴ職員や弟が取締役の(株)麻生の幹部や従業員、関連病院の職員の他、麻生内閣閣僚とその家族くらいだろう。
 みんな決して麻生を支持しているわけじゃなくて、麻生が総理であるために恩恵を被っている人達だけということだ。

(注)もっとも多い回答を赤で表示。2番目に多い回答との誤差が3%以内の場合は2番目に多い回答も赤で表示した。


緊急世論調査―質問と回答
〈朝日 2月19、20日実施〉

(数字は%。小数点以下は四捨五入。
 質問文と回答は一部省略。◆は全員への質問。◇は枝分かれ質問で該当する回答者の中での比率。〈 〉内の数字は全体に対する比率。丸カッコ内の数字は、7、8日の前回調査の結果)

◆麻生内閣を支持しますか。支持しませんか。
 支持する  13(14)
 支持しない 75(73)

◆いま、どの政党を支持していますか。
 自民党25(22)▽民主党26(25)▽公明党3(3)▽共産党2(3)▽社民党1(1)▽国民新党0(0)▽改革クラブ0(0)▽新党日本0(0)▽その他の政党0(0)▽支持政党なし39(43)▽答えない・分からない4(3)

◆できるだけ早く衆議院を解散して、総選挙を実施すべきだと思いますか。急ぐ必要はないと思いますか。
 できるだけ早く 64(60)
 急ぐ必要はない 28(31)

◆仮に、いま、総選挙の投票をするとしたら、比例区ではどの政党に投票したいと思いますか。
自民党22(22) 民主党42(42)
公明党3(3) 共産党4(3)
国民新党0(0) 社民党2(1)
改革クラブ0(0) 新党日本0(0)
その他の政党1(1) 答えない・分からない
26(28)
◆麻生首相と民主党の小沢代表とでは、どちらが首相にふさわしいと思いますか。
 麻生さん  19(20)
 小沢さん  45(39)

◆麻生さんに首相を続けてほしいと思いますか。早く辞めてほしいと思いますか。
 続けてほしい   15
 早く辞めてほしい 71

内閣支持率、13%に急落 財務相辞任「当然」84%
(中日新聞 2009年2月19日 朝刊)
 共同通信社が17、18両日に実施した全国緊急電話世論調査で、麻生内閣の支持率は13・4%と今月7、8両日の前回調査から4・7ポイント低下し、2001年に退陣した森内閣(最低6・5%)に次ぐ低水準となった。
 不支持率は76・6%
で前回からわずか10日で5・7ポイント急増。支持率下落は加速しており、政権末期の様相だ。
 調査は中川昭一前財務相兼金融担当相の辞任を受けて実施した。

麻生内閣支持率わずか3%に急落
(世田谷通信 2月21日)
 これってきっこちゃんが本当に駅前で100人に聞いてくれたのだろうか(笑)。だとしたら、ご苦労さまでした♪

「新報道2001」
(2月19日調査・2月22日放送/フジテレビ)

あなたは、麻生内閣を支持しますか。
 支持しない 83.0%

【問1】あなたは次に行われる衆議院選挙では、どの党の候補者に投票したいですか。
 自民党 13.8%(↓)  国民新党 0.0%(-)
 民主党 37.0%(↑)  新党日本 0.0%(↓)
 公明党 4.6%(↑)   無所属・その他 1.4%
 共産党 2.6%(↓)   棄権する 1.0%
 社民党 0.4%(↓)   まだきめていない 39.2%

【問2】あなたは、麻生内閣を支持しますか。
 支持する 11.4%(↓)
 支持しない 83.0%(↑)
 (その他・わからない) 5.6%

【問3】中川財務・金融担当相の辞任問題について、責任の所在はどこにあると思いますか。
 麻生首相の任命責任 14.4%
 中川大臣の自己管理責任 73.0%
 財務省の危機管理責任 9.4%
 (その他・わからない) 3.2%

【問4】あなたは、解散・総選挙はどの時期にするのが望ましいと思いますか。
 直ちに 41.4%
 予算成立後 39.0%

 景気が回復してから 6.6%
 任期満了 9.2%
 (その他・わからない) 3.8%

【問5】あなたはポスト麻生にふさわしいのは誰だと思いますか。
石破茂 4.0% 与謝野馨 4.2%
石原伸晃 4.0% その他与党議員 4.0%
小池百合子 5.8% 渡辺喜美 4.0%
小泉純一郎 10.0% 小沢一郎 18.4%
高村正彦 0.8% 菅直人 4.6%
谷垣禎一 1.4% 鳩山由紀夫 2.4%
中川秀直 0.6% その他野党議員 8.4%
舛添要一 5.4% (その他・わからない) 20.4%
町村信孝 1.6%

首都圏の成人男女500人を対象に電話調査
Fuji Television Network, Inc. All rights reserved.


麻生内閣:支持11%…政権運営さらに窮地
本社世論調査(毎日2月22日)

 毎日新聞は21、22両日、電話による全国世論調査を実施した。麻生内閣の支持率は1月の前回調査比8ポイント下落の11%で、現在と同じ質問形式にした1949年以降、89年3月の竹下登内閣、01年2月の森喜朗内閣の各9%に次ぐワースト3位の低水準となった。麻生太郎首相がいつまで政権を担当すべきかを尋ねた質問でも「今すぐ辞めるべきだ」との回答が39%に達し、首相の政権運営は一層窮地に陥った。
 不支持率は前回比8ポイント増の73%で、前回記録した01年2月の森内閣の75%に次ぐワースト2位を更新した。支持率は昨年9月の内閣発足直後には45%。その後は同10月に不支持率に逆転を許すなど調査のたびに下落し、当初の4分の1にまで落ち込んだ。

麻生内閣、支持15%不支持80%
日経世論調査

日本経済新聞社とテレビ東京が20―22日に共同で実施した世論調査で、麻生内閣の支持率は1月の前回調査を4ポイント下回る15%で、歴史的な低水準となった。不支持率は4ポイント上昇し、80%で、調査開始以来初めて80%台となった。衆院解散・総選挙の時期に関しては「できるだけ早く解散すべきだ」と「今春の来年度予算成立後に解散すべきだ」が合わせて70%に達した。
 内閣支持率は森政権で最も低かった2001年2月の16%を下回った。宮沢政権末期の1993年6月(6%)や7月(10%)、竹下内閣の最後の調査の89年3月(13%)に次ぐ低い水準となった。 (22日 22:01)
 歴代内閣支持率については、新聞社によって違う結果がでているようだが、下記の毎日の調査が、歴代内閣の発足時と退陣前両方の支持率、不支持率を記録しており、参考になる。この調査によれば、この時点での歴代内閣で最悪の支持率と最高の不支持率の両方を記録していたのは、森内閣である。
 どうりで、森センセ、麻生を擁護しながら、最近嬉しそうだよね。麻生のおかげで、最悪支持率、最高不支持率の汚名挽回できそうだから。「麻生君にはなるべく長く居座ってもらって、オラの記録を破ってもらいたい。だから、擁護しているのさ。ウヒヒヒ・・・・。」、なんて心の中では思っているんだろうね。
●毎日新聞  2008年12月8日


世論調査:歴代内閣の支持率
◆毎日新聞調査による歴代内閣の発足時と退陣前の支持率(%)

支持率 支持率 不支持率 不支持率
内閣 発足時 退陣前 発足時 退陣前
吉田茂 55 38 14 35
鳩山一郎 35 34 14 33
石橋湛山
岸信介 46 28 24 34
池田勇人 40 33 26 36
佐藤栄作 46 19 18 46
田中角栄 53 18 13 48
三木武夫 47 32 12 30
福田赳夫 27 25 38 29
大平正芳 27 21 24 46
鈴木善幸 38 16 21 35
中曽根康弘 39 30 31 30
竹下登 30 20 63
宇野宗佑 22 40
海部俊樹 31 36 27 24
宮沢喜一 31 18 22 49
細川護熙 75 74 12
羽田孜 43 23
村山富市 40 24 31 37
橋本龍太郎 59 27 16 41
小渕恵三 25 28 48 43
森喜朗 40 24 75
小泉純一郎 85 45 37
安倍晋三 67 29 16 58
福田康夫 57 25 25 52
麻生太郎 45 21 26 58
(※麻生内閣は発足時と12月の調査の比較)
(注)宇野、羽田の両内閣は在任中1回しか調査がなく、石橋内閣は在任中の調査がなかった。吉田内閣の発足時の数字は、第3次内閣のもの。

世論調査:麻生内閣支持率
会社名 調査方法 調査日付 支持率
(%)
不支持率
(%)
共同通信 電話 2月17-18日 13・4 76・6
朝日新聞 電話 2月19-20日 13.0 75.0
毎日 電話 2月21-22日 11.0 73.0
日経 電話 2月20-22日 15.0 80.0
読売 電話 2月06-08日 19.7 72.4
時事通信 面接 2月06-09日 16.4 67.3
ANN
報道ステ
電話 2月14-15日 13.7 71.2
JNN 電話 2月07-08日 18.5 80.6
産経FNN 電話 1月10-11日 18.2 71.4
NHK 電話 2月06-08日 18.0 71.0
NNN
(日テレ)
電話 2月13-15日 9.7 76.2
新・報道2001 電話 2月19日 11.4 83.0
12社平均 14.8 74.8
参考資料:giinsenkyo @ ウィキ 世論調査:麻生支持率
 産経はなぜか2月に入ってからは一度も世論調査の結果を発表していない。2月前半に実施された調査では、支持率がまだ10%台後半だったが、2月後半に実施された調査では支持率はいっせいに10%台前半まで落ち込んでいる。
 2月末までには、支持率の平均が10%を切る可能性は高い。そして、不支持率は80%台に突入するだろう。
 自民党はとっとと解散しろと思ったら、今日もランキングの応援宜しくお願いします♪  

BY Canada de Nihongo
帝国主義論
ウラジーミル・レーニン著作

概略

自由競争段階にあった資本主義において生産の集積がおこり、独占体が生まれる。同時に資金の融通や両替など「ひかえめな仲介者」であった銀行は、銀行自体も独占体となり、資金融通などや簿記を通じて産業を支配するようになる。
銀行独占体と産業独占体が融合・癒着した金融資本が成立する。金融資本は経済だけでなく政治や社会の隅々を支配する金融寡頭制を敷く。

巨大な生産力を獲得した独占体に対し、国内大衆は貧困な状態に置かれたままになり「過剰な資本」は国外へ輸出される。この資本輸出先を巡り資本家団体の間での世界の分割が行われる。やがてこれは世界の隅々を列強が分割し尽くすことになり、世界に無主地はなくなる。
資本主義の発展は各国ごとに不均等であり、新興の独占資本主義国が旧来の独占資本主義国の利権を打ち破るために再分割の闘争を行う。したがって、再分割をめぐる帝国主義戦争は必然である。
ゆえに、帝国主義戦争を不可避でないとする潮流は誤りだ。自国の帝国主義戦争を支持しようとさせる労働運動・社会主義運動の潮流は、資本輸出によってもたらされた超過利潤によって買収された労働貴族が担っており、労働者階級の利益を裏切っている。
帝国主義に発展した資本主義の基礎は独占であり、この段階では生産の社会化は極限まで達しており、資本主義は実体的な富の生産による搾取という本来的な経済のあり方を失い、金融詐術や独占の利得によって利潤をあげる、寄生し腐朽した資本主義になり、次の社会主義にとって代わられざるをえない。
大逆事件

概要

大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑「志を継ぐ」(和歌山県新宮市)
政治制度として天皇制を重視した大日本帝国憲法下の日本政府は大逆罪を重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。裁判は非公開で行なわれ、大審院(現・最高裁判所)が審理する一審制(「第一審ニシテ終審」)となっていた。これまでに知られている大逆事件には、
1910年(1911年) - 幸徳事件(検察によるフレームアップがあり、幸徳と面識があるだけの有罪者もある)
1923年 - 虎ノ門事件(虎の門事件とも表記される)
1925年 - 朴烈事件(「朴烈、文子事件」とも呼ばれる)
1932年 - 桜田門事件(李奉昌事件とも呼ばれる)の四事件がある。

単に「大逆事件」と呼ばれる場合は、その後の歴史にもっとも影響を与えた1910年の幸徳事件を指すのが一般的である。
虎ノ門事件と桜田門事件が現行犯の逮捕であるが、幸徳事件と朴烈事件は未遂犯の逮捕で、朴烈事件についてはテロ計画に具体性はなく大逆罪を犯す犯意程度で有罪とされた。

四件の事件

幸徳事件

冒頭のとおり、「大逆」と言えば一般的にはこの事件が指される。

堺利彦や片山潜らが「平民新聞」などで、労働者中心の政治を呼びかけ、民衆の間でもそのような気風が流行りつつあった中の1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された「信州明科爆裂弾事件」が起こる。

以降、この事件を口実に全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、根絶やしにする弾圧を、政府が主導、フレームアップ(政治的でっち上げ)したとされる事件。

敗戦後、関係資料が発見され、暗殺計画にいくらかでも関与・同調したとされているのは、宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名にすぎなかったことが判明した。
1960年代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求などの運動が推進された。これに関して最高裁判所は1967年以降、再審請求棄却及び免訴の判決を下している。

信州明科爆裂弾事件後、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事、小山松吉神戸地裁検事局検事正らによって事件のフレームアップ化がはかられ、異例の速さで公判、刑執行がはかられた。

平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹が、文学者で弁護士の平出修に弁護を頼んだ。

1911年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)。1月24日に幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に1名(管野スガ)が処刑された。

特赦無期刑で獄死したのは、高木顕明、峯尾節堂、岡本穎一郎、三浦安太郎、佐々木道元の5人。仮出獄できた者は坂本清馬、成石勘三郎、崎久保誓一、武田九平、飛松与次郎、岡林寅松、小松丑治。
赤旗事件で有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は事件の連座を免れた。
 ロシア革命

経緯 前史

ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。
これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。社会不安と急速な工業化の進展によってストライキの発生数は急速に増加していた。

日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労兵協議会)が結成された。
また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公のウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。同艦に呼応した戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。

この時期、ロシア中央から離れたセヴァストーポリやオデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで革命運動が盛り上がりを見せた。なおこの年の9月にはロシアは日露戦争に敗北している。
こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。

1906年にドゥーマが開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(ロシア語版)(1911年)や第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。スト発生数はさらに増加を続け、1912年の2032件から、1914年の前半だけで3000件を超えるまでになった。
一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、1912年にウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキとゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃(1915年 - 1916年)が伝えられるとその党勢を拡大していった。

第一次世界大戦はロシア不利のまま長期間に及ぶようになり、ロシア経済の混乱と低迷も一層ひどくなっていった。食糧不足が蔓延し、ストが多発するようになっていった。また、ドゥーマも皇帝の干渉に対して不満を表明するようになり、1915年にはカデットや十月党、進歩党など国会の4分の3の議員によって進歩ブロックが結成され、対立姿勢を強めていった。
1916年12月30日には、宮廷に取り入って大きな権勢をふるっていた怪僧グリゴリー・ラスプーチンがユスポフ公とドミトリー大公によって暗殺された。

二月革命

1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。
食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。

ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。
2月27日、労働者や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれた。
 一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。

3月1日、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備軍に対して「命令第一号」を出した。「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。

ドゥーマ臨時委員会は3月2日、カデットのリヴォフを首相とする臨時政府を設立した。この臨時政府には、社会革命党からアレクサンドル・ケレンスキーが法相として入閣したものの、そのほかはカデットや十月党などからなる自由主義者中心の内閣であった。
臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公は翌日の3月3日にこれを拒否し、帝位につくものが誰もいなくなったロマノフ朝は崩壊した。
ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命はブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。

四月危機

臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した。この声明は連合国側から歓迎された。
一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。
そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた。

ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の「戦争目的についての声明」(3.27声明)を発表した。
「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」

ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた。ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を発送した。
しかし彼は声明に「ミリュコフ覚書」を付し、その中で「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」と解説した。

この「ミリュコフ覚書」は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。
ミリュコフ外相とグチコフ陸海相は辞任を余儀なくされた。

 ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキーのほかに、ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった。

攻勢の失敗と七月事件

七月事件(ロシア語版)(1917)。ユリウス暦7月4日のペトログラード
第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、前線において大攻勢を仕掛けた。
将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。しかし6月18日に始まった攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。

攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。7月3日、ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定した。
他の部隊や工場労働者も呼応し、その日のうちに武装デモが始まった(七月事件(英語版))。
しかしソヴィエトの中央執行委員会はデモ隊の要求を拒否した。
7月4日になるとデモの規模はさらに拡大したが、政府とソヴィエト中央を支持する部隊が前線からペトログラードに到着し、力関係が逆転した。武装デモは失敗に終わった。
デモを扇動したのはアナーキストであり、ボリシェヴィキは当初の段階ではデモを抑える姿勢をとっていた。しかし抑えきれないまま始まってしまったデモを支持する以外なくなった。
デモが失敗に終わると一切がボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、激しい弾圧を受けることになった。
トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。
レーニンは、この7月事件により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行した、と評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には武装蜂起による権力奪取を意味した。
ボリシェヴィキは7月末から8月はじめにかけて開かれた第六回党大会でレーニンの呼びかけに基づく決議を採択した。

十月革命 ソヴィエト権力の成立

十月革命に際して冬宮を砲撃し、革命の成功に貢献したとされる。映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争における日本海海戦にも参加しており、撃沈または鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルクのネヴァ川に保存されている。

カデットの閣僚が辞任して第二次連立内閣が崩壊したため、ケレンスキーは9月1日に5人からなる執政府を暫定的に作り、正式な連立内閣の成立を目指した。
ソヴィエトは9月14日から22日にかけて「民主主義会議」を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との連立政府をつくること、コルニーロフ反乱に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、という三点を決議した。
しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。9月25日に成立した第三次連立政府は結局はカデットも含むものになった。

ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキへの支持が急速に高まった。8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。

これを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。

一方、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。

トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。

メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。

10月24日、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。
ペトログラードの要所を制圧し、10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と宣言した。

このとき臨時政府側には冬宮が残されるばかりとなっていたが、情勢の不利を悟ったケレンスキーは25日早朝に冬宮から脱出しており、残された臨時政府の閣僚たちはコサックや士官学校生、女性部隊といった残存兵力とともに立てこもりながら無意味な議論を続けるばかりだった。やがてボリシェヴィキ側の攻勢が始まり、冬宮は26日未明に占領された。

蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。この大会においては社会革命党右派やメンシェヴィキが蜂起に反対し退席していたため、残った社会革命党中央派・左派に対してボリシェヴィキは多数派を占めていた。
冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。
冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第三軍団長クラスノフの協力をとりつけ、その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。
ペトログラード市内でも社会革命党やメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。

モスクワでは10月25日にソヴィエト政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。
10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。

ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。

憲法制定議会の解散

二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。
ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきたため、武装蜂起が成功したあとの10月27日に憲法制定議会の選挙を実施することを決めた。
しかし11月に行われた選挙では社会革命党が得票率40パーセントで410議席を得て第一党となり、ボリシェヴィキは得票率24パーセントで175議席にとどまった。

レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表した。憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している、としたうえで、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求するものだった。
一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、十月革命を否定する姿勢を示した。
翌年1月5日に開かれた憲法制定議会は社会革命党が主導するところとなり、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決した。翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させた。1月10日にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ロシアは世界初の共産主義国家となった。
全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した「平和についての布告」はフランスやイギリスなどの同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府はドイツやオーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した。交渉は外務人民委員となっていたトロツキーが担当した。

この交渉に関してボリシェヴィキの内部に三つのグループが形成された。講和に反対し、革命戦争によってロシア革命をヨーロッパへ波及させようとするブハーリンのグループ、ただちにドイツ側の条件を受け入れて「息継ぎ」の時間を得ようとするレーニンのグループ、そしてドイツでの革命勃発に期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーのグループである。
最初の段階ではトロツキーの中間的な見解が支持を得たため、ソヴィエト政府はドイツ側が1月27日に突きつけた最後通牒を拒否した。ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開し、ロシア軍が潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニンの見解が多数派を占めた。

3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約に調印した。このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域を失い、巨額の賠償金を課せられることとなった。
のちに、同年11月にドイツ革命が起き、ドイツが敗北するとボリシェヴィキはこの条約を破棄したが、ウクライナを除く上記の割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなった。
左翼社会革命党は講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した。

内戦

1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団が反乱を起こし、これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵した(シベリア出兵)。

イギリス軍は白海沿岸の都市を占領した。サマーラでは社会革命党の憲法制定議会議員が独自の政府、憲法制定議会議員委員会(Комуч、コムーチ)をつくり、さらに旧軍の将校が各地で軍事行動を開始した。

こうした反革命軍は、総称して白軍と呼ばれたが、緑軍のようにボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も存在した。

白軍の有力な将帥としては、アントーン・デニーキン、アレクサンドル・コルチャーク、グリゴリー・セミョーノフなどが知られる。
ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約締結後に軍事人民委員となっていたトロツキーの下で赤軍を創設して戦った。
この内戦を戦い抜くため、ボリシェヴィキは戦時共産主義と呼ばれる極端な統制経済策を取った。

これはあらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除くすべての穀物を徴発する穀物割当徴発制度などからなっていた。
この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わり、ロシア経済は壊滅的な打撃を受けた。農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こした。
また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになった。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んでいた。

この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強めた。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化された。革命直後に創設されていた秘密警察のチェーカーは裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられた。

1918年8月30日には左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こし、これをきっかけに政府は「赤色テロル」を宣言して激しい報復を行った。
一方、退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月17日、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺された。
一時期白軍はロシアやウクライナのかなりの部分を支配下においたものの、内紛などによって急速に勢力を失っていき、次々とソヴィエト政府側によって鎮圧されていった。

デニーキンの敗残兵をまとめ上げ、白軍で最後まで残ってクリミア半島に立てこもっていたピョートル・ヴラーンゲリ将軍率いるロシア軍も、1920年11月のペレコープ=チョーンガル作戦で破れて制圧され、内戦はこれをもって収束し、ソヴィエト政府側の勝利に終わった。

最後までシベリアに残っていた日本軍も1922年に撤退した。また、この内戦の過程において、白軍に参加した、あるいは赤軍やソヴィエトに反対した人々が国外に大量に亡命し、こうした亡命者は白系ロシア人と呼ばれるようになった。

内戦が終わっても戦時共産主義体制はしばらく継続しており、これに反発して起きる反乱もやむことがなかった。1921年には軍港都市クロンシュタットで海軍兵士によるクロンシュタットの反乱が起き、ボリシェヴィキによって鎮圧されたものの、同年3月21日に経済統制をやや緩めたネップ(新経済政策)が採択され、軌道修正が図られるようになった。このネップ体制下で、農業・工業生産は回復にむかった。

最初の憲法

1918年7月4日から7月10日にかけて開かれた第五回全ロシア・ソヴィエト大会は最初のソヴィエト憲法を採択した。

憲法の基本的任務は「ブルジョワジーを完全に抑圧し、人間による人間の搾取をなくし、階級への分裂も国家権力もない社会主義をもたらすために、強力な全ロシア・ソヴィエト権力のかたちで、都市と農村のプロレタリアートおよび貧農の独裁を確立すること」とされた(第9条)。

また、ソヴィエト大会で選ばれる全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会を最高の権力機関とする一方、ソヴィエト大会および中央執行委員会に対して責任を負う人民委員会議にも立法権を認めた。

この大会の会期中の7月6日、ブレスト=リトフスク条約に反対する左翼社会革命党は戦争の再開を狙ってドイツ大使のミルバッハを暗殺し、軍の一部を巻き込んで政府に対する反乱を起こした。反乱は鎮圧され、左翼社会革命党は弾圧を受けることになった。
ソヴィエト政府はボリシェヴィキの単独政権となり、野党は存在しなくなった。1922年にはロシア社会主義連邦ソビエト共和国、ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国、ウクライナ社会主義ソビエト共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国の4つを統合し、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。

定義と影響

ロシア革命は、少なくとも最初に勃発した二月革命の時点においては自然発生的な革命であり、どの政治勢力も革命の展開をリードしているわけではなく、むしろ急展開を急ぎ追いかける形となっていた。

しかし成立した臨時政府が情勢をコントロールできない中、レーニン指導下のボリシェヴィキが情勢を先導して行くようになり、十月革命は逆にボリシェヴィキが徹頭徹尾主導権を握って自力で起こしたものであり、革命というよりはむしろクーデターというべき性格のものだった。

ともあれ十月革命によって成立したボリシェヴィキ主導政権は世界初の社会主義国家であり、全世界に大きな影響を及ぼした。
ボリシェヴィキは世界革命論によってロシアの革命を世界へと輸出することを望んでおり、1919年3月2日にボリシェヴィキ主導のもとで結成されたコミンテルンもヨーロッパ諸国へ革命を波及させることを主目的の一つとしていた。
しかしこうした試みは成功せず、一国社会主義論の登場とともにコミンテルンの役割は変容していった。
国家と革命
ウラジーミル・レーニン著作
概要
レーニンが『国家と革命』を執筆したのは、2月革命後のボリシェヴィキ弾圧から逃れるため、1917年8月から9月にかけて、ペトログラードの郊外ラーズリフ湖畔に潜伏していた時期である。
第1版は十月革命の直後に発表され、第2版は1918年12月に、第2章第3節「1852年におけるマルクスの問題提起」が追加されて発表されている。
「国家と革命」
(イリイーチ・レーニン)

1.本書の書かれた背景
 革命にとっての根本問題は、国家権力の問題である。それは、すなわち、プロレタリアートの社会主義革命が、「国家」にたいしていかなる立場をとるのかということである。レーニンの本書は、こうした問題にたいする徹底して階級的な実践的解答である。
 レーニンは、本書を一九一七年の八月から九月にかけて書いた。この時期は、一九一七年、二月革命によって打倒されたツァーリ帝政にとって代った、エス・エル、メンシェヴィキ等のブルジョア的臨時政府の反動的性格が暴露され、労農兵士のソヴィエトがボルシェビキの指導の下に獲得され、ブルジョア的臨時政府にたいする革命的攻勢をかけんとする二重権力の情勢の最後的決着にいたる過程であった。
 本書は、エス・エル、メンシェヴィキ等の「社会主義」を看板にかかげた小ブルジョア的改良主義政党にたいする闘いの実践的課題から提出されたものであり、ブルジョア権力にとって代るプロレタリアート権力の意義と任務について一切の疑問の余地なく、プロレタリア人民に自覚させるためのものであった。
 それはまた、第一次大戦を契機として決定的に社会排外主義に転落した、第二次インターナショナルのカウツキー等の指導理論にたいして、革命的祖国敗北主義を掲げて、戦争の革命への転化をおしすすめていかんとする国際的党派闘争の一環でもあった。
 革命的情勢において、ブルジョア国家にたいするあいまいな態度をとることは、自ら、プロレタリア革命との関係でバリケードの反対側に立つことを意味する。すなわち、平時における日和見主義は、革命期においてはブルジョア反革命とならざるをえないことを、本書は教えるのである。

2.階級社会と国家
 レーニンは本書において、エンゲルスの「家族・私有財産・国家の起源」を引用しながら、国家が人間社会の相闘う階級への分裂とともに発生し、階級対立の深刻化とともに、ますますその機能を強化させてきたものであることを論証する。
すなわち、国家は、階級対立が、調停し、和解しえないことの表現である。
 国家はなにかしら神秘的な民族の共同体といったものではなく、永久不変にその性格が変らぬというものではない。国家とは、その社会において経済的に支配的な一階級が、自己の利害を全社会に押しつけ、自らの支配のための「秩序」を防衛し、かくして政治的支配をおしひろげるための機構である。
 古代奴隷制国家は奴隷所有者の、封建国家は封建貴族のそしてブルジョア国家は、ブルジョアジーの階級的利害を社会に強制するためのものであった。
 そこにおいては、自らの特殊な利害を全社会に共通な利害として主張するための、「武装した人間の特殊な部隊」を不可欠とする。警察、監獄、軍隊などの暴力装置が国家権力の本質的な機能を果すものである。
 そうした特殊な暴力装置の存在こそは、国家が、諸階級の対立を調停したりする、階級対立から独立した機関ではなく、支配階級が、被支配階級を抑圧するためのものであることを証明している。
 まさに国家こそは、搾取階級が被搾取階級をしぼりとするための道具としての位置をもっているのである。
 資本主義の帝国主義段階への推転とともに、階級対立に決定的な段階にまで進展し、国家権力の暴力装置は肥大化し、官僚的軍事的統治機構という寄生物が発達する。国家権力の暴力的寄生的性格はかつてなかったほどに強化されるのである。

3.暴力革命とプロレタリア独裁
 国家権力の本質が、支配階級による被支配階級にたいする暴力装置である以上、プロレタリアートの革命は、この支配階級の暴力を打ち破る、プロレタリアート自身の組織された階級的暴力の行使としてなされなければならない。
 暴力は、旧社会から新社会を生み出す「助産婦」としての役割を果すのである。暴力にたいする超階級的な嫌悪は、ブルジョアジーの支配を恒久化させるのに手を貸すものに他ならない。
 プロレタリア革命は、その勝利のために階級的暴力を不可避的に伴うものであるとともに、労働者階級を支配階級として組織し、搾取者の反抗を押さえつけ、搾取者を搾取するために、自らを武装し、系統的な暴力を行使しつづけねばならない。
かくして、勝利したプロレタリア革命は、自らの支配をプロレタリア独裁として貫徹しなければならないのである。
 プロレタリアートは、「できあいの国家機構をそのまま手に入れて、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」(マルクス『共産党宣言』)
 すなわち既成のブルジョア国家機構を利用して、支配をおこなうことはできないのである。なぜならば、ブルジョア国家機構は、少数の搾取者が多数の被搾取者を支配するためのものだからである。
 プロレタリアートは、ブルジョア国家機構を爆破し、武装したソヴィエトによる支配の機構を形成しなければならない。
 常備軍、警察、一切の官僚機構は解体され、武装した労農人民の統制の下に秩序が再建されねばならないのである。
 ソヴィエト(コミューン)は、ブルジョア議会風のおしゃべり機関ではなく、立法し執行する、行動の機関である。官吏は、直接選挙によって任命、罷免され、その給料は熟練労働者の平均的賃金を上回るものであってはならない。
 官吏は、全住民が交代してその任につき、かくして全ての住民が国家の業務にたずさわることをもって、官吏の特権的な位置は喪失する。全ての住民は武装したソヴィエトの統制下におかれる職員としての役割を果すことになるのである。
 マルクスは、このコミューン型国家の原則を、一八七一年のパリ・コミューンの総括のなかから導き出した。それは本質的に、「死滅しつつある国家」としての「国家ならざる国家」である。
 旧来の全ての国家は、その形態のいかんに関らず、少数者が多数者を抑圧するためのものであった。しかしこのプロレタリア独裁期における国家は、多数者による少数者にたいする支配であり、民主主義を最大限に保障するものであり、かくして民主主義それ自身の死滅、すなわち国家の死滅に道をひらくものである。
 俗物は、「民主主義」と「独裁」を相対立する概念としてとらえる。しかし、民主主義もまた、支配の形態なのであり階級的性格を深く刻印されたものである。
 ブルジョア民主主義は、搾取者たるブルジョアジーによる民主主義、すなわち、プロレタリアート人民にたいする独裁なのであり、プロレタリア独裁は、プロレタリアート人民の民主主義を最大限保障する、最も拡大された民主主義の形態なのである。
 無政府主義者は、ブルジョア国家の暴力的粉砕ののち、プロレタリアート人民による、搾取者を収奪するプロレタリア独裁としての中央集権的国家が、必要であることを認めようとはせず、プロレタリアによる権力奪取と確保そのものを拒否することをとおして、ブルジョア反革命に道をひらくこととなる。
 日和見主義者、議会主義者は、なお悪いことに、今日のブルジョア国家機構に、プロレタリアートが漸次的に浸透することをとおして支配権がかちとられるかのごとく説いて、議会をとおした平和革命の実践と理論を合理化し、プロレタリア革命に敵対するのである。

4.共産主義と国家の揚棄
 プロレタリア独裁権力は、一切の生産手段の私的所有を廃棄して、全社会の所有に移す。これをとおして搾取する階級と搾取される階級の分裂・対立を止揚して、無階級社会への過渡期を歩みはじめる。
 この過渡期は、一国的な閉鎖された規模で考えることは、そもそもはじめからできない。無階級社会への歩みは、世界的な規模におけるプロレタリアートの勝利と、それをとおした民族的国境の分断の突破を前提とする。
 巨大な規模に発展した生産力と、私的所有、民族国家の狭い壁の矛盾は克服され、人類がかつて想像できなかったほどの生産力の爆発的拡大がかちとられる。
 この共産主義の低次の段階においては、生産と分配を一定の規準をもって管理し、統制するための社会的強制の機構は存在するであろう。
 しかしそれは厳密な意味において階級支配の道具ではないがゆえに、「国家」と呼ぶことはできない。
共産主義の高度の段階、すなわち語の正確な意味での共産主義社会は、各人が能力に応じて働き、欲望に応じて取る社会であり、労働と分配に関する一切の価値規準は消滅する。国家は完全に死滅するのである。
 スターリニストの一国社会主義論によって歪曲された「共産主義国家」なるものが、マスコミに巾をきかせているなかで、このマルクス・レーニン主義の国家学説の原則を再確認することはきわめて重要である。

 本書が論争の対象とした、カウツキーなどの修正主義者とは比べものにならないほど、今日のスターリニストは、議会主義的、日和見主義的堕落を深めた。
 彼らは、「国家と革命」を一から十まで否定し、労働者階級をブルジョアジーに売り果す役割を引きうけている。本書は決して古くなったのではない。
 「国家と革命」こそは、今日のプロレタリア階級闘争の発展の過程で突き出される問題に応える実践の書である。「国家と革命」の時代が再び始まっているのである。
わが闘争
アドルフ・ ヒトラー著作
 内容
第1巻となる前半部分は自分の生い立ちを振り返りつつ、ナチ党の結成に至るまでの経緯が記述されている。自叙伝は他の自叙伝同様に誇張と歪曲がなされたものであるが、全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤおよび軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されている。

第2巻となる後半部分では、自らの政治手法、群衆心理についての考察とプロパガンダのノウハウも記されている。戦争や教育などさまざまな分野を論じ自らの政策を提言している。特に顕著なのは人種主義の観点であり、世界は人種同士が覇権を競っているというナチズム的世界観である。
さらに、あらゆる反ドイツ的なものの創造者であると定義されたユダヤ人に対する反ユダヤ主義も重要な位置を占めている。しかし、ユダヤ人大量虐殺についての記述は全く無い。また「経済の理のみねらうは民族の堕落」「凡そ世の中に武力によらず、経済によって建設された国家なるものはない」と、経済偏重がドイツ帝国の敗北を招いたとしている。

外交政策では、フランスに対して敵愾心を持ち、ソビエト社会主義共和国連邦(現在のロシア連邦)との同盟を「亡滅に陥る」と批判し、「モスコー政権〔モスクワ政権〕は当にそのユダヤ人なのだ」であるとしている。現時点で同盟を組べき相手は、イギリスとイタリアであるとしている。
また、ドイツが国益を伸張するためには、貿易を拡大するか、植民地を得るか、ロシアを征服して東方で領土拡張するかの3つしかないとし、前者二つは必然的にイギリスとの対決を呼び起こすため不可能であるとした。これは東方における生存圏 (Lebensraum) 獲得のため、ヨーロッパにおける東方進出(東方生存圏)を表明したものであり、後の独ソ戦の要因の一つとなった。
治安維持法が改正
治安維持法(ちあんいじほう、昭和16年(1941年)3月10日法律第54号)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。当初は、1925年に大正14年4月22日法律第46号として制定され、1941年に全部改正された。
とくに共産主義革命運動の激化を懸念したものといわれているが、やがて宗教団体や、右翼活動、自由主義等、政府批判はすべて弾圧・粛清の対象となっていった。

経緯 前身

1920年(大正9年)より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年(大正6年)のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。
また、1921年(大正10年)4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。
また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。
1921年(大正10年)8月、司法省は「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けていると内務省側の反論があり、1922年(大正11年)2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。これらの内容は、平沼騏一郎などの司法官僚の意向が強く反映されていた。
しかし、具体的な犯罪行為が無くては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。
さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で廃案になった。
また、1923年(大正12年)に関東大震災後の混乱を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定

1925年(大正14年)1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年(大正14年)4月22日に公布され、同年5月12日に施行。
普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから、飴と鞭の関係にもなぞらえられ、成人男性の普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など、治安維持を理由として制定されたものと見られている。
治安維持法は即時に効力を持ったが、普通選挙実施は1928年まで延期された。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに治安維持法は可決した。
奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている。
ウィキソースに治安維持法中改正ノ件の緊急勅令の法文があります。
1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全部改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1925年(大正14年)法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

1928年(昭和3年)改正の主な特徴としては「国体変革」への厳罰化

1925年(大正14年)法の構成要件を「国体変革」と「私有財産制度の否認」に分離し、前者に対して「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」として最高刑を死刑としたこと。
「為ニスル行為」の禁止
「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」として、「結社の目的遂行の為にする行為」を結社に実際に加入した者と同等の処罰をもって罰するとしたこと。

改正手続面

改正案が議会において審議未了となったものを、緊急勅令のかたちで強行改正したことがあげられる。
1941年(昭和16年)法は同年5月15日に施行されたが、「国体ノ変革」結社を支援する結社、「組織ヲ準備スルコトヲ目的」とする結社(準備結社)などを禁ずる規定を創設したこと。官憲により「準備行為」を行ったと判断されれば検挙されるため、事実上誰でも犯罪者にできるようになった。また、「宣伝」への罰則も復活した。

刑事手続面

従来法においては刑事訴訟法によるとされた刑事手続について、特別な(=官憲側にすれば簡便な)手続を導入したこと、例えば、本来判事の行うべき召喚拘引等を検事の権限としたこと、二審制としたこと、弁護人は「司法大臣ノ予メ定メタル弁護士ノ中ヨリ選任スベシ」として私選弁護人を禁じたこと等。

予防拘禁制度

刑の執行を終えて釈放すべきときに「更ニ同章ニ掲グル罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著」と判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたこと。
を主な特徴とする。

廃止

1945年(昭和20年)の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死している。
10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者のインタビューに答えて、「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」方針を明らかにした。
1945年8月下旬から9月上旬において、司法省では岸本義広検事正を中心に、今後の検察のあり方について話し合いを行い、天皇制が残る以上は治安維持法第一条を残すべきとの意見が出ていた。ほか、岩田宙造司法大臣が政治犯の釈放を否定している。
1945年10月4日、GHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も廃止を命じられた。

その歴史的役割

当初、治安維持法制定の背景には、ロシア革命後に国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。
そもそも当時の日本では、結社の自由には法律による制限があり、日本共産党は存在自体が非合法であった。また、普通選挙法とほぼセットの形で成立したのは、たとえ合法政党であっても無産政党の議会進出は脅威だと政府は見ていたからである。
後年、治安維持法が強化される過程で多くの活動家、運動家が弾圧・粛清され、小林多喜二などは取調べ中の拷問によって死亡した。
ちなみに朝鮮共産党弾圧が適用第一号とされている(内地においては、京都学連事件が最初の適用例である)。
1930年代前半に、左翼運動が潰滅したため標的を失ったかにみえたが、以降は1935年(昭和10年)の大本教への適用(大本事件)など新宗教(政府の用語では「類似宗教」。似非宗教という意味)や極右組織、果ては民主主義者や自由主義者の取締りにも用いられ、必ずしも「国体変革」とは結びつかない反政府的言論への弾圧・粛清の根拠としても機能した。もっとも、奥平は右翼への適用は大本教の右翼活動を別にすれば無かったとしている。

奥平康弘は1928年(昭和3年)改正で追加された「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定が政権や公安警察にとって不都合なあらゆる現象・行動において「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の名目で同法を適用する根拠になったと指摘している。
不都合な相手ならば、ただ生きて呼吸していることでさえ「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」と見なされ逮捕された。こうした弾圧は公安警察という組織の維持のために新しい取り締まり対象を用意することに迫られた結果という一面もあったといわれる。
また、治安維持法の被疑者への弁護にも弾圧・粛清の手が及んだ。三・一五事件の弁護人のリーダー格となった布施辰治は、大阪地方裁判所での弁護活動が「弁護士の体面を汚したもの」とされ、弁護士資格を剥奪された(当時は弁護士会ではなく、大審院の懲戒裁判所が剥奪の権限を持っていた)。
さらに、1933年(昭和8年)9月13日、布施や上村進などの三・一五事件、四・一六事件の弁護士が逮捕され、前後して他の弁護士も逮捕された(日本労農弁護士団事件)。その結果、治安維持法被疑者への弁護は思想的に無縁とされた弁護人しか認められなくなり、1941年の法改正では、司法大臣の指定した官選弁護人しか認められなくなった。
治安維持法の下、1925年(大正14年)から1945年(昭和20年)の間に70,000人以上が逮捕され、その10パーセントだけが起訴された。日本本土での検挙者は約7万人(『文化評論』1976年臨時増刊号)、当時の植民地の朝鮮半島では民族の独立運動の弾圧に用い、2万3千人以上が検挙された。
日本内地では純粋な治安維持法違反で死刑判決を受けた人物はいない。ゾルゲ事件で起訴されたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は死刑となったが、罪状は国防保安法違反と治安維持法違反の観念的競合とされ、治安維持法より犯情の重い国防保安法違反の罪により処断、その所定刑中死刑が選択された。
そこには、死刑よりも『転向』させることで実際の運動から離脱させるほうが効果的に運動全体を弱体化できるという当局の判断があったともされている。思想犯に転向を勧めるノウハウ、論破・説得術は、一種の芸術のような高レベルだったと言われている。
また、時代が進むにつれ、「転向」のハードルは上がっていった。初期は、政治活動を放棄すれば思想を変えなくても転向と見なされたが、やがてそれでは不十分とされ、ついには「日本精神」を身に付けることが転向の要件とされた。
ゾルゲ事件では他にも多くの者が逮捕されたにもかかわらず死刑判決を受けたのはゾルゲと尾崎だけだった。戦後ゾルゲ事件を調査したチャールズ・ウィロビーはそれまで持っていた日本に対する認識からするとゾルゲ事件の多くの被告人に対する量刑があまりにも軽かったことに驚いている。
とはいえ、小林多喜二や横浜事件被疑者4名の獄死に見られるように、量刑としては軽くても、拷問や虐待で命を落とした者が多数存在する。日本共産党発行の文化評論1976年臨時増刊号では、194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したと記述されている。
さらに、外地ではこの限りではなく、朝鮮では45人が死刑執行されている。それ以外の刑罰も、外地での方が重い傾向にあったとされる。

その後

治安維持法を運用した特別高等警察を始めとして、警察関係者は多くが公職追放されたが、司法省関係者の追放は25名に留まった。池田克や正木亮など、思想検事として治安維持法を駆使した人物も、ほどなく司法界に復帰した。池田は追放解除後、最高裁判事にまでなっている。
1952年(昭和27年)公布の破壊活動防止法は「団体のためにする行為」禁止規定などが治安維持法に酷似していると反対派に指摘され、治安維持法の復活という批判を受けた。その後も、治安立法への批判に対して治安維持法の復活という論法は頻繁に使われている(通信傍受法(盗聴法)、共謀罪法案など)。
第二次世界大戦後は治安維持法については否定的な意見が主流といわれる。しかし、保守派の一部では、治安維持法擁護論もあり、また現在における必要性を主張する論者もいる。
1976年(昭和51年)1月27日、民社党の春日一幸が衆議院本会議で宮本顕治のリンチ殺人疑惑を取り上げた際、宮本の罪状の一つとして治安維持法違反をそのまま取り上げた。そこで、宮本の疑惑の真偽とは別に、春日は治安維持法を肯定しているのかと批判を受けた。
藤岡信勝は『諸君!』1996年4月号の「自由主義史観とはなにか」で「治安維持法などの治安立法は日本がソ連の破壊活動から自国を防衛する手段」と全面的に評価し、ソ連の手先と名指しされた日本共産党などから強い反発を受けた。中西輝政も『諸君!』『正論』などで、同様の主張を行っている(『諸君!』2007年9月号「国家情報論 21」。『正論』2006年9月号など)。
いずれも、反共主義の立場から「絶対悪としての共産主義」を滅ぼすためには当然の法律であったという肯定論である。
蟹工船
小林多喜二著作
『蟹工船』(かにこうせん)は、『戦旗』で1929年(昭和4年)に発表された小林多喜二の小説である。いわゆるプロレタリア文学の代表作とされ、国際的評価も高く、いくつかの言語に翻訳されて出版されている。
小林は1933年2月20日没で、著作権が失効しているため、本作は青空文庫にて無料で読むことができる。
この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」のモデルになった船は実際に北洋工船蟹漁に従事していた博愛丸(元病院船)である。

あらすじ

「おい地獄さ行(え)ぐんだで!」
蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」が本作の舞台である。
蟹工船は「工船」であって「航船」ではない。だから航海法は適用されず、危険な老朽船が改造して投入された。また工場でもないので、労働法規も適用されなかった 。
そのため蟹工船は法規の真空部分であり、海上の閉鎖空間である船内では、東北一円の貧困層から募集した出稼ぎ労働者に対する資本側の非人道的酷使がまかり通っていた。また北洋漁業振興の国策から、政府も資本側と結託して事態を黙認する姿勢であった。
情け知らずの監督である浅川は労働者たちを人間扱いせず、彼らは劣悪で過酷な労働環境の中、暴力・虐待・過労や病気で次々と倒れてゆく。転覆した蟹工船をロシア人が救出したことがきっかけで異国の人も同じ人間と感じ、中国人の通訳も通じ、「プロレタリアートこそ最も尊い存在」と知らされるが、船長がそれを「赤化」とみなす。
学生の一人は現場の環境に比べれば、ドストエフスキーの「死の家の記録」の流刑場はましなほうという。当初は無自覚だった労働者たちはやがて権利意識に覚醒し、指導者のもとストライキ闘争に踏み切る。会社側は海軍に無線で鎮圧を要請し、接舷してきた駆逐艦から乗り込んできた水兵にスト指導者たちは逮捕され、最初のストライキは失敗に終わった。労働者たちは作戦を練り直し、再度のストライキに踏み切る。
五・一五事件
 五・一五事件(ご・いち・ごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。

背景

当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたが1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次いで社会不安が増していた。
犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。
しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は若槻襲撃の機会を狙っていた。
1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形だった。
ところが、立憲民政党(民政党)は選挙で大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。

計画

この事件の計画立案・現場指揮をしたのは海軍中尉・古賀清志で、死亡した藤井斉とは同志的な関係を持っていた。事件は血盟団事件につづく昭和維新の第二弾として決行された。
古賀は昭和維新を唱える海軍青年将校たちを取りまとめるだけでなく、大川周明らから資金と拳銃を引き出させた。農本主義者・橘孝三郎を口説いて、主宰する愛郷塾の塾生たちを農民決死隊として組織させた。時期尚早と言う陸軍側の予備役少尉西田税を繰りかえし説得して、後藤映範ら11名の陸軍士官候補生を引き込んだ。
3月31日、古賀と中村義雄海軍中尉は土浦の下宿で落ち合い、第一次実行計画を策定した。
計画は二転三転した後、5月13日、土浦の山水閣で最終の計画が決定した。具体的な計画としては、参加者を4組に分け、5月15日午後5時30分を期して行動を開始、
第一段として、海軍青年将校率いる第一組は総理大臣官邸、第二組は内大臣官邸、第三組は立憲政友会本部を襲撃する。つづいて昭和維新に共鳴する大学生2人(第四組)が三菱銀行に爆弾を投げる。
第二段として、第四組を除く他の3組は合流して警視庁を襲撃する。
これとは別に農民決死隊を別働隊とし、午後7時頃の日没を期して東京近辺に電力を供給する変電所数ヶ所を襲撃し、東京を暗黒化する。
加えて時期尚早だと反対する西田税を計画実行を妨害するものとして、この機会に暗殺する。とし、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う、というものであった。

経過 首相官邸

5月15日当日は日曜日で、銃殺された犬養首相は終日官邸にいた。
第一組9人は、海軍中尉三上卓以下5人を表門組、海軍中尉山岸宏以下4人を裏門組として2台の車に分乗して首相官邸に向かい、午後5時27分ごろ官邸に侵入、警備の警察官を銃撃し重傷を負わせた(田中五郎巡査が5月26日に死亡する。
三上は食堂で犬養首相を発見すると、ただちに拳銃を犬養首相に向け引き金を引いたが、たまたま弾が入っていなかったため発射されず、犬養首相に制止された。
そして犬養毅自らに応接室に案内され、そこで犬養首相の考えやこれからの日本の在り方などを聞かされようとしていた。
その後、裏から突入した黒岩隊が応接室を探し当てて黒岩勇が犬養首相の腹部を銃撃、次いで三上が頭部を銃撃し、犬養首相に重傷を負わせた。襲撃者らはすぐに去った。
それでも犬養首相はしばらく息があり、すぐに駆け付けた女中のテルに「今の若い者をもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったと言うが、次第に衰弱し、深夜になって死亡した。

首相官邸以外

首相官邸以外にも、内大臣官邸、立憲政友会本部、警視庁、変電所、三菱銀行などが襲撃されたが、被害は軽微であった。
第一組の一部は首相官邸を襲撃した後、警視庁に乱入して窓ガラスを割るなどし、その後日本銀行に向かい車の中から日本銀行に手榴弾を投げ、敷石等に損傷を与えた。
第二組の古賀清志海軍中尉以下5人はタクシーに乗って内大臣官邸に向かい、午後5時27分頃に到着、これを襲撃し、門前の警察官1名を負傷させたが、牧野伸顕内大臣は無事だった。
その後、第二組は警視庁に乱入、ピストルを乱射して逃走した。これにより居合わせた警視庁書記1人と新聞記者1人が負傷した。
第三組の中村義雄海軍中尉以下4人はタクシーに乗って立憲政友会本部に向かい、午後5時30分ごろに到着、玄関に向かって手榴弾を投げ、損傷を与えた。
第四組奥田秀夫(大学生で血盟団の残党)は、午後7時20分頃に三菱銀行前に到着、ここに手榴弾を投げ込み爆発させ、外壁等に損傷を与えた。
別働隊の農民決死隊7名は、午後7時ごろに東京府下の変電所6ヶ所を襲ったが、単に変電所内設備の一部を破壊しただけに止まり、停電はなかった。
血盟団員の川崎長光は西田税方に向かい面会し、隙を見て拳銃を発射、西田に瀕死の重傷を負わせた。
第一組・第二組・第三組の計18人は午後6時10分までにそれぞれ麹町の東京憲兵隊本部に駆け込み自首した。
一方、警察では1万人を動員して徹夜で東京の警戒にあたった。
6月15日、資金と拳銃を提供したとして大川周明が検挙された。
7月24日、橘孝三郎がハルビンの憲兵隊に自首して逮捕された。
9月18日、拳銃を提供したとして本間憲一郎が検挙された。
11月5日には頭山秀三が検挙された。

裁判

事件に関与した海軍軍人は海軍刑法の反乱罪の容疑で海軍横須賀鎮守府軍法会議で、陸軍士官学校本科生は陸軍刑法の反乱罪の容疑で陸軍軍法会議で、民間人は爆発物取締罰則違反・刑法の殺人罪・殺人未遂罪の容疑で東京地方裁判所でそれぞれ裁かれた。
元陸軍士官候補生の池松武志は陸軍刑法の適用を受けないので、東京地方裁判所で裁判を受けた。
当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。
このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人、磯部浅一の獄中日記によって伺える。

評価

犬養首相は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点だったといわれる。
不況以前、大正デモクラシーに代表される民主主義機運の盛り上がりによって、知識階級やマルクス主義者などの革新派はあからさまに軍縮支持・軍隊批判をしており、それが一般市民にも波及して、軍服姿で電車に乗ると罵声を浴びるなど、当時の軍人は肩身の狭い思いをしていたといわれる。
犬養首相は中華民国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。ゆえに犬養首相は満州地方への進軍に反対で、「日本は中国から手を引くべきだ」との持論をかねてよりもっていた。
これが大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥に邪魔となったのである。犬養首相が殺されたのは、彼が日本の海外版図拡大に反対だったことがその理由とも考えられる。
本事件は、二・二六事件と並んで軍人によるクーデター・テロ事件として扱われるが、犯人のうち軍人は軍服を着用して事件に臨んだものの、二・二六事件と違って武器は民間から調達され、また将校達も部下の兵士を動員しているわけではないので、その性格は大きく異なる。
同じ軍人が起こした事件でも、二・二六事件は実際に体制転換・権力奪取を狙って軍事力を違法に使用したクーデターとしての色彩が強く、これに対して本事件は暗殺テロの色彩が強い。
また犬養首相の暗殺が有名な事件だが、首相官邸・立憲政友会(政友会)本部・警視庁とともに、牧野伸顕内大臣も襲撃対象とみなされた。
しかし「君側の奸」の筆頭格で、事前の計画でも犬養に続く第二の標的とみなされていた牧野邸への襲撃はなぜか中途半端なものに終わっている。松本清張は計画の指導者の一人だった大川周明と牧野の接点を指摘し、大川を通じて政界人、特に森恪などが裏で糸を引いていたのでは、と推測している。
だが、中谷武世は古賀から「五・一五事件の一切の計画や日時の決定は自分達海軍青年将校同志の間で自主的に決定したもので、大川からは金銭や拳銃の供与は受けたが、行動計画や決行日時の決定には何等の命令も示唆も受けたことはない」と大川の指導性を否定する証言を得ており、また中谷は大川と政党人との関係が希薄だったことを指摘し、森と大川に関わりはなかった、と記述している。
この事件によりこの後斎藤実、岡田啓介という軍人内閣が成立し、加藤高明内閣以来続いた政党内閣の慣例(憲政の常道)を破る端緒となった。もっとも実態は両内閣共に民政党寄りの内閣であり、なお代議士の入閣も多かった。
民政党内閣に不満を持った将校らが政友会の総裁を暗殺した結果、民政党寄りの内閣が誕生するという皮肉な結果になった。また、犬養の死が満州国承認問題に影響を与えたという指摘もある。
事件の前日にはイギリスの喜劇俳優のチャールズ・チャップリンが来日し、事件当日に犬養首相と面会する予定であった。また「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者の間でチャップリンの暗殺も画策されていた。しかしチャップリンが当日、思いつきで相撲観戦に出掛けた為難を逃れた。

関係者 実行者

首相官邸襲撃隊

■三上卓 - 海軍中尉「妙高」乗組
 反乱罪で有罪(禁錮15年)
 昭和13年に出所後、右翼活動家と
 なり、三無事件に関与
■山岸宏 - 海軍中尉。禁固10年
■村山格之 - 海軍少尉。禁固10年
■黒岩勇 - 予備役海軍少尉
 反乱罪で有罪(禁錮13年)
■野村三郎 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■後藤映範 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■篠原市之助 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■石関栄 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■八木春男 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年

内大臣官邸襲撃隊

■古賀清志 - 海軍中尉
 反乱罪で有罪(禁錮15年)
■坂元兼一 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■菅勤 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■西川武敏 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■池松武志 - 元陸軍士官学校本科生
 禁固4年

立憲政友会本部襲撃隊

■中村義雄 - 海軍中尉。
 禁固10年
■中島忠秋 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■金清豊 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年
■吉原政巳 - 陸軍士官学校本科生
 禁固4年

民間人

■橘孝三郎 - 「愛郷塾」主宰。
 刑法犯(爆発物取締罰則違反,
 殺人及殺人未遂)で有罪
 (無期懲役)昭和15年に出所
■大川周明 - 反乱罪で有罪
 (禁錮5年)
■本間憲一郎 - 「柴山塾」主宰
 禁固4年
■頭山秀三 - 玄洋社社員
 頭山満の三男

反乱予備罪

■伊東亀城 - 海軍少尉
 禁固2年、執行猶予5年
■大庭春雄 - 海軍少尉
 禁固2年、執行猶予5年
■林正義 - 海軍中尉
 禁固2年、執行猶予5年
■塚野道雄 - 海軍大尉
  禁固1年、執行猶予2年

裁判関係

■高須四郎 - 海軍横須賀鎮守府
 軍法会議判士長・海軍大佐
■西村琢磨 - 陸軍第一師団
 軍法会議判士長・陸軍砲兵中佐
■神垣秀六 - 東京地方裁判所
 裁判長・判事
■木内曽益 - 検事
 東京地方裁判所に係属した被告
 事件の主任検事。
■清瀬一郎 - 弁護人
■林逸郎 - 弁護人
■花井忠 - 弁護人
天皇機関説
天皇機関説(てんのうきかんせつ)とは、大日本帝国憲法下で確立された憲法学説で、統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼(ほひつ)を得ながら統治権を行使すると説いたものである。ドイツの公法学者ゲオルグ・イェリネックに代表される国家法人説に基づき、憲法学者・美濃部達吉らが主張した学説で、天皇主権説(穂積八束・上杉慎吉らが主張)などと対立する。

概要

天皇機関説は、1900年代から1935年頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる。

国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。
この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。
これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である。
(太字は原文傍点)
— 宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、1970年。



1889年(明治22年)に公布された大日本帝国憲法では、天皇の位置付けに関して、次のように定められた。
第1条:大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス(天皇主権)
第4条:天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ(統治大権)
後述するように、天皇機関説においても、国家意思の最高決定権の意味での主権は天皇にあると考えられており、天皇の政治上の権限は否定されていない。
しかしながら、こういった立憲君主との考え方は大衆には浸透していなかったようで(美濃部の弁明を新聞で読んだ大衆の反応と、貴族院での反応には温度差があった)、
一連の騒動以後は天皇主権説が台頭し、それらの論者は往々にしてこの立憲君主の考えを「西洋由来の学説の無批判の受け入れである(『國體の本義』より要約)」と断じた。

主権概念との関係

「主権」という語は多義的に解釈できるため注意が必要である。
「統治権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、国家と答えるのが国家主権説である。
一方で、「国家意思の最高決定権としての主権を有するのは何か」という問いに対して、「君主である」と答えるのが君主主権説、「国民である」と答えるのが国民主権説である。 したがって、国家主権説は君主主権説とも国民主権説とも両立できる。
美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の意味では国家主権、国家意思最高決定権の意味では君主主権(天皇主権)を唱えるものである。
美濃部は主権概念について統治権の所有者という意味と国家の最高機関の地位としての意味を混同しないようにしなければならないと説いていた(美濃部達吉『憲法講話』)。

天皇主権説との対立点

主権の所在

天皇機関説 - 統治権は法人としての国家に属し、天皇はそのような国家の最高機関即ち主権者として、国家の最高意思決定権を行使する。
天皇主権説 - 天皇はすなわち国家であり、統治権はそのような天皇に属する。
これに対して美濃部達吉は統治権が天皇個人に属するとするならば、国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとした。

国務大臣の輔弼

天皇機関説 - 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼が不可欠である(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 - 天皇大権の行使には国務大臣の輔弼を要件とするものではない(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。

国務大臣の責任

天皇機関説 - 慣習上、国務大臣は議会の信任を失えば自らその職を辞しなければならない(美濃部達吉『憲法撮要』)。
天皇主権説 - 国務大臣は天皇に対してのみ責任を負うのであり(大権政治)、天皇は議会のかかわりなく自由に国務大臣を任免できる(穂積八束『憲法提要』)。議会の意思が介入することがあれば天皇の任命大権を危うくする(上杉慎吉『帝国憲法述義』)。

天皇機関説を主張した主な法学者等

■一木喜徳郎(男爵、枢密院議長)
■美濃部達吉(貴族院勅選議員、
 枢密顧問官)
■浅井清(貴族院勅選議員、
 慶應義塾大学教授)
■金森徳次郎(東京帝国大学法学部教授、初代国立国会図書館長)
■渡辺錠太郎 陸軍大将)
■中島重(関西学院法文学部教授、帝大法科卒、美濃部門下)
■田畑忍 同志社大学法学部教授)

歴史

天皇機関説の発展

大日本帝国憲法の解釈は、当初、東京帝国大学教授・穂積八束らによる天皇主権説が支配的で、藩閥政治家による専制的な支配構造(いわゆる超然内閣)を理論の面から支えた(天皇主権説とは統治権の意味での主権を天皇が有すると説く学説である)。
また、この天皇主権は究極のところ天皇の祖先である「皇祖皇宗」に主権があることを意味する「神勅主権」説とも捉えられた。
これに対し、東京帝大教授の一木喜徳郎は、統治権は法人たる国家に帰属するとした国家法人説に基づき、天皇は国家の諸機関のうち最高の地位を占めるものと規定する天皇機関説を唱え、天皇の神格的超越性を否定した。
もっとも、国家の最高機関である天皇の権限を尊重するものであり、日清戦争後、政党勢力との妥協を図りつつあった官僚勢力から重用された。

美濃部達吉

日露戦争後、天皇機関説は一木の弟子である東京帝大教授の美濃部達吉によって、議会の役割を高める方向で発展された。
すなわち、ビスマルク時代以後のドイツ君権強化に対する抵抗の理論として国家法人説を再生させたイェリネックの学説を導入し、国民の代表機関である議会は、内閣を通して天皇の意思を拘束しうると唱えた。美濃部の説は政党政治に理論的基礎を与えた。
美濃部の天皇機関説はおおよそ次のような理論構成をとる。

■国家は、一つの団体で法律上の人格を持つ。
■統治権は、法人たる国家に属する権利である。
■国家は機関によって行動し、日本の場合、その最高機関は天皇である。
■統治権を行う最高決定権たる主権は、天皇に属する。
■最高機関の組織の異同によって政体の区別が生れる。


辛亥革命直後には、穂積の弟子である東京帝大の上杉慎吉と美濃部との間で論争が起こる。共に天皇の王道的統治を説くものの、上杉は天皇と国家を同一視し、「天皇は、天皇自身のために統治する」「国務大臣の輔弼なしで、統治権を勝手に行使できる」とし、美濃部は「天皇は国家人民のために統治するのであって、天皇自身のためするのではない」と説いた。
この論争の後、京都帝国大学教授の佐々木惣一もほぼ同様の説を唱え、美濃部の天皇機関説は学界の通説となった。
民本主義と共に、議院内閣制の慣行・政党政治と大正デモクラシーを支え、また、美濃部の著書が高等文官試験受験者の必読書ともなり、1920年代から1930年代前半にかけては、天皇機関説が国家公認の憲法学説となった。この時期に摂政であり天皇であった昭和天皇は、天皇機関説を当然のものとして受け入れていた。

天皇機関説事件

詳細は「天皇機関説事件」を参照
憲法学の通説となった天皇機関説は、議会の役割を重視し、政党政治と憲政の常道を支えた。
しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部が台頭すると、軍国主義が主張され、天皇を絶対視する思想が広まった。
1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件で犬養毅首相が暗殺され、憲政の常道が崩壊すると、この傾向も強まっていった。
1935年(昭和10年)には、政党間の政争を絡めて、貴族院において天皇機関説が公然と排撃され、主唱者であり貴族院の勅選議員となっていた美濃部が弁明に立った。
結局、美濃部は不敬罪の疑いにより取り調べを受け(起訴猶予)、貴族院議員を辞職した。美濃部の著書である『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の3冊は、出版法違反として発禁処分となった。
当時の岡田内閣は、同年8月3日には「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりと為すがごときは、これ全く万邦無比なる我が国体の本義を愆るものなり。」とし、同年10月15日にはより進んで「所謂天皇機関説は、神聖なる我が国体に悖り、その本義を愆るの甚しきものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。」とする国体明徴声明を発表して、天皇機関説を公式に排除、その教授も禁じられた。
ゲルニカ
パブロ・ピカソの絵画
『ゲルニカ』(Guernica)は、スペインの画家パブロ・ピカソがスペイン内戦中の1937年に描いた絵画、およびそれと同じ絵柄で作られた壁画である。
ドイツ空軍のコンドル軍団によってビスカヤ県のゲルニカが受けた都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題としている。20世紀を象徴する絵画であるとされ、その準備と製作に関してもっとも完全に記録されている絵画であるとされることもある。

発表当初の評価は高くなかったが、やがて反戦や抵抗のシンボルとなり、ピカソの死後にも保管場所をめぐる論争が繰り広げられた。

経過 ゲルニカ爆撃

爆撃で廃墟と化したゲルニカ
「ゲルニカ爆撃」も参照
1936年7月には第二共和政期のスペインでスペイン内戦が勃発し、マヌエル・アサーニャ率いる共和国軍とフランシスコ・フランコを中心とした反乱軍が争った。

1934年にスペインを離れてフランス・パリに在住していたスペイン人画家パブロ・ピカソは共和国政府を支持しており、1937年1月にはフランコを風刺する内容の詩『フランコの夢と嘘』を著し、後には詩に添える銅版画を製作していた。この銅版画でフランコは怪物の姿として描かれており、売られた絵葉書の収益は共和国政府の救援資金となった。

スペイン内戦中の1937年1月、共和国政府は在フランスのスペイン大使館を経由してピカソにパリ万国博覧会のスペイン館を飾る壁画の製作依頼を行った。ピカソは依頼に対して明確な返事をしなかったが、スペイン内戦とは無関係のシュルレアリスム風の壁画を制作する予定だったとされている。

1980年頃にパリのピカソ美術館で発見されたスケッチによれば、この構想は画家やモデルが登場する個人的な世界の描写だったが、後の『ゲルニカ』に含まれる太陽や女のイメージは既に存在していた。4月半ばにはこの個人的世界の絵画に対して、鉛筆とインクによる素描を仕上げていた。

1937年4月26日にビスカヤ県のゲルニカがナチスドイツ軍によって都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を受けると、27日には数紙の夕刊にゲルニカ爆撃の短報が掲載された。28日朝にはジョージ・スティアによる長い記事が『タイムズ』に掲載され、この記事は世界各国の新聞に転載された。
ピカソはこれらの過程でゲルニカ爆撃を知り、パリ万博で展示する壁画の主題に選んだ。この絵画の製作に先立つ数年間、ピカソは女性関係に翻弄されてほとんど絵を描かなかったが、この絵画では熱心に作業を行った。
社会主義 インターナショナル
中道左派政党の国際組織
社会主義インターナショナル(しゃかいしゅぎインターナショナル、英語: Socialist International、SI)は、社会民主主義や民主社会主義を掲げる中道左派政党の国際組織。本部はロンドン。
欧州の加盟政党には、イギリスの労働党、ドイツの社会民主党、フランスの社会党などがある。
かつては日本から日本社会党と民社党が加盟し、現在は社会民主党が加盟している。
2012年現在、議長には元ギリシャ首相で全ギリシャ社会主義運動前党首のゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウが、副議長のひとりに社会民主党前党首の福島瑞穂がそれぞれ就いている。

概要

社会主義者の国際組織である第二インターナショナルが崩壊後、第三インターナショナル(コミンテルン)と社会主義インターナショナルがそれぞれ結成された。
1889年設立の第二インターナショナルは1914年の第一次世界大戦勃発によって崩壊し、1919年に共産主義者が第三インターナショナル(コミンテルン)を結成した。
社会民主主義者は1923年に労働社会主義インターナショナルを結成し、第二次世界大戦後の1951年6月に現在の社会主義インターナショナルに再結成された。
社会主義インターナショナルは、反共主義、反・新自由主義と、自由、人権、民主、平等、博愛などのフランス革命やアメリカ独立革命の精神、および複数政党制、市場経済、社会的連帯、働く者の権利(労働基本権)、富の再分配などを提唱している。
有名な行動には、5月1日を国際労働者の日(メーデー)とした1889年の宣言や、3月8日を国際婦人デーとした1910年の宣言があるが、これらは正確には第二インターナショナル時代のものである。
社会主義インターナショナルの関連組織には、1953年から段階的に創立された、ヨーロッパ各国の社民主義政党によって構成される欧州規模の政党の欧州社会党(PES:The Party of European Socialists)などがある。
第二次世界大戦後、スペインとポルトガルで独裁政治が民主主義に取ってかわった時、社会民主主義政党の再建を援助した。反共主義の立場をとっていたため、加盟政党と共産主義国との接触を長く禁じていたが、1974年には個別に接触をしてもよいこととなった。
社会主義インターナショナルは、加盟政党として新たに旧イタリア共産党が社民主義に転換した左翼民主主義者(PDS)やモザンビーク解放戦線(FRELIMO)などの旧共産主義政党も受け入れた。
南アフリカのアフリカ民族会議のような党内の執行委員会に共産党が存在する政党も例外的に加盟している。
2006年のスペインで開催された世界大会には、アメリカ民主党のリベラル派議員として知られ、2005年米国大統領選挙の候補者にもなったハワード・ディーン(民主党全国委員長)が来賓として招かれた。
 参考資料:Wikipediaほか

20世紀の思想家は何を考えていたのか

[参考資料]

「年表で読む二十世紀思想史」 矢代梓著 講談社
「現代思想のすべて - 人間の(知)と可能性と構想力を探る-」湯浅赳男著 日本文芸社
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
(写真)Wikipedia

20世紀 哲学・思想史 Philosophy of 20th

<はじめに>
 20世紀は、それまで限られた人々のためのものだった「文学」、「音楽」、「映画」などの「芸術」が大衆化され世界中に広まっていった時代でした。それは誰もが芸術家になれる時代の到来でもありました。そうした時代だからこそ、人々は「人生とは何か?」、「美とは何か?」、「愛とは、命とは何か?」など、数々の疑問に思い悩むようになっていったのでしょう。その意味で、20世紀は「哲学」もまた大衆化した時代だったといえるかもしれません。それではプロの哲学者たちはどんなことを考えていたのでしょうか?

 かつて思想家はあらゆる分野の普遍的な現象を研究対象としていました。アリストテレスやピタゴラスは、哲学者であると同時に科学者でもあったことは有名です。しかし、時代が進むにつれて、彼らが扱う分野はしだいに広くなり、専門化が進み始めました。今や、哲学は学問の中のほんの一部となりました。しかし、優れた哲学者は現代でも、数学から自然科学、文学まであらゆるジャンルの学問を把握する天才ばかりです。ただし、彼らが扱う分野は、かつてのように普遍的で抽象的な現象ではなく現在を生きる人々の生活に直接影響を与える現象へとしぼられてきているようです。

「結果的に、哲学者は、恒久的に存在するものとは何かについて語ることを望まなくなりました。しかし、哲学者は、現在起こっていることが何であるのかを語るという、もっとも困難な、もっともとらえにくい義務を持っているのです。・・・・・」 ミシェル・フーコー

 それぞれの時代、それぞれの場所で生きた思想家たちは、その時代、その場所で必要とされ、なおかつ自分が興味をもちうることに目を向け、それを取り扱ってきました。したがって、ほとんどの思想家は彼らが生きた時代を映し出す鏡のような存在だったといえるでしょう。

 ただ、その中でも時代の変化に左右されない革新的かつ普遍的な思想を残した者だけが未だに読み継がれているわけです。もちろん、過去のものとなった思想も、それがなぜ当時は信じられていたのかを知ることにより、その時代を知る重要な鍵となりうるということも忘れてはいけないでしょう。それは新しい思想を生み出す原動力となりうるのです。だからこそ、「歴史」は学ぶに値するのです。

 残念ながら「哲学」という「学問は難しすぎて僕たちには理解困難な部分も多々ありそうです。しかし、わかりやすい解説本(「現代思想のすべて」湯浅赳男著など)を参考にしながら20世紀の哲学史を追ってみようと思います。
 歴史に残る思想家たちは、それぞれが生きた時代にどんなことを考えていたのか。その変遷をなんとなくでも分かってもらえればと思います。

 もちろん、哲学をちゃんと学んだ方にはご不満もあると思いますが、これはあくまで入門編とお考え下さい。それにしても、優れた思想家たちが示した未来予測がもう少し社会、大衆に理解され受け入れられていたら、世界はもう少しましになっていたのかもしれません。現実には、どんなに優れた哲学者の思想も、一般大衆に直接伝わることはめったにありません。

 それでも、サルトルやフーコーなど一時代を築いた思想家たちは間違いなく多くのアーティストたちに影響を与えました。そして、彼らの多くはその印象から生まれた歌や映画、文学を生み出し、それが僕たちへと届けられることとなりました。だからこそ、「哲学」もまた間違いなく「ポップの世紀」の主役のひとりだったのです。
 そして、何により哲学もまた、かつてロック・ミュージックがそうだったように、既成概念を変えようという思想そのものなのです。

「・・・もし、哲学が、すでに知っていることを認めさせるかわりに、今とは違ったやり方で考えることが、どのように、どこまで可能なのか知ろうと企てないのなら、哲学とは何だろうか?」 ミシェル・フーコー

 パスカルのあまりに有名な言葉もご紹介しておきましょう。この言葉は、「人間論」であると同時に「宇宙論」にもなっています。もしかすると、彼の中では「人間の脳」の中の世界と「宇宙」は同じような存在に見えていたのかもしれません。だとしたら、パスカル恐るべし・・・。

「人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない」 ブレーズ・パスカル「パンセ」(1662年)

 哲学が生まれたのは紀元前500年頃のギリシャと考えていいと思います。「こういうものが哲学だ」という一種の決まりの中でものを考えて表現するという一つの型がその頃にできたわけです。他の世界には経由してヨーロッパに定着し、ヨーロッパの学問のもとになった、哲学とはヨーロッパの表現の型であって、イデアを表現するものです。・・・

 日本人が「思想家」という特殊な言い方を発明して、利用してきたのですけれども、それはヨーロッパで言う哲学とはちがうものです。ヨーロッパの人にとっては、ものを考えることが哲学とイコールになっています。しかし、アジア人、ことに日本人にとっては、そうではない。哲学と思想とは分けておかなければいけません。

・・・日本にはその意味ではアカデミズムの中に「哲学者」は大勢いらっしゃいますが、「思想家」はほんのわずかです。つまり哲学のゲームのルールに則って思考したり表現したりすることに長けている人たちはいる。 中沢新一「惑星の風景」より
 それでは、20世紀の哲学の道をまずは、1900年に亡くなった偉大な思想家ニーチェから歩み始めたいと思います。


1900年

フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ(1844年~1900年)が死去 フリードリヒ・ウィルヘルム・ニーチェ Friedrich Wilhelm Nietzscheは、キリスト教は奴隷の「生」に対するルサンチマン「恨み」を隠している奴隷道徳である、と嫌っていました。キリスト教が絶対的存在だったヨーロッパでこう言い切るだけでも、彼はすでに19世紀の人ではなかったのかもしれません。彼が信じたのは「永劫回帰」の実感であり、「超人」として生きる理想の生でした。彼は人が神に近づける瞬間を体感し、そこに向かう者だけが救われると信じる孤独な宗教指導者だったともいえます。
 こうして超人的な「力」を求め続けた彼は、皮肉なことに梅毒によって正気を失って死んでゆきました。そして、19世紀を生きた壮絶な彼の死から20世紀が始まることになります。
「誰にしろ、どこに住んでも構わないというものではあるまい。ことに全力を振りしぼることが必要である。大きな使命を果たせなければならない者は、この点できわめてわずかな選択しか許されていない」
 ニーチェという思想家は、リゾート地を季節にあわせて移動しながら、それぞれの場所、それぞれの場所、それぞれの季節の影響を受けつつ、哲学し続けた。常に病いに悩まされながらも、逆にそこから深い思想を生み出せたのは「自由」であり続けられたからなのでしょう。

「夢判断」ジークムント・フロイト(1856年~1939年)
 ジークムント・フロイト Sigmund Freudは、現在のチェコに位置するガリチアにユダヤ商人の子として生まれました。ウィーン大学の医学部を卒業して医者になり、その後神経の病を治療することを専門とするようになります。そこでの研究の中で、彼は心の奥深くに意識(倫理や常識)によって抑えられた深層=無意識があることに気づきました。そこから彼が創始した精神分析とは、これを探し出し本人に意識化させることで神経の病を治療するという手法です。そのバイブルとなったのが、1900年に発表された「夢判断」です。
 人格を形成する最も重要な部分は自己表現をするエネルギーの源となるリビドーである。リビドーは「性欲」とも呼べるが、幼少時それは異性の親に向けられる。それが無意識のうちに抑えつけられることで、エディプス・コンプレックスもしくはエレクトラ・コンプレックスが生まれます。人間はこうしたリビドーによる「エス」の段階と「自我」の段階、さらに社会性を身につけた「超自我」の段階3つからなると分析しました。
 さらに彼はこの考え方を社会、宗教、芸術などの分野にも拡張してゆき、その後多くの科学者、思想家、医学者たちが彼の考えをもとに自らの研究を展開してゆくことになります。
 哲学者ではないにも関わらず彼ほど20世紀の思想家たちに影響を与えた人物はいないかもしれません。もちろん、その影響は科学や思想だけには限りませんでした。20世紀が生んだ音楽、映画、文学、美術などへの影響の大きさも多大なものがあります。死してなお、彼が発見した「無意識の世界」は人々を捕らえてはなさずにいるのです。

「笑い」アンリ・ベルグソン
「論理学研究」エドムント・フッサール
夏目漱石が英国に留学
「武士道 Bushido The Soul of Japan」新渡戸稲造
<パリ万国博覧会とアール・ヌーヴォー>パリ万博を彩ったアール・ヌーヴォーの美学



1901年
エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲンがベルリンのアレクサンダー広場に「多彩劇場(超寄席)」を開設。
ベルリンにおける芸術キャバレーの先駆けとなる

「二十世紀之怪物」 帝国主義」幸徳秋水
「西洋哲学史要」波多野精一



1902年
ルドルフ・シュタイナーが神智学協会ドイツ支部長に就任


1903年
「論理学説研究」ジョン・デューイ(1859年~1952年)
 ジョン・デューイ John Deweyは、ニューイングランド生まれのアメリカ人哲学者です。哲学を学ぶため、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。カントやヘーゲルなどドイツ哲学の王道を研究した後、哲学の教授となりました。しかし、実践的で素朴な典型的なヤンキー・タイプの彼は、頭でっかちな観念論よりも人間性を育てる教育学を重んじました。20世紀初めに発表した「論理学説研究」(1903年)からはプラグマティスト(実用主義者、実際主義者)として活躍するようになります。彼は「概念」とは「道具」であり、実際の生活や仕事の役に立たなければ意味がないというアメリカ人的立場で哲学と教育学を結び付けました。
 時代的にソ連の社会主義にも関心をもつがスターリンの登場以降は、その独裁政治を批判する側に回りいち早くその矛盾を指摘してゆきます。最もアメリカ人らしい思想家のひとりであり、古き良きアメリカのイメージを生み出す原点となったともいえる存在。「パパは何でも知っている」のパパは、こうしたプラグマティズムの教育が生んだ理想のアメリカ人だったといえそうです。

社会民主労働党がボルシェビキ、メンシェビキに分裂(露)
内村鑑三が「聖書之研究」などを通じ、日露戦争の開戦に反対
幸徳秋水らが平民社を設立、「平民新聞」創刊へ



1904年
「営利企業の理論」ソースタイン・ヴェブレン(1857年~1929年) ソースタイン・ヴェブレン Thorstein Veblenは、ジョン・デューイと並ぶアメリカ人らしい思想家。ノルウェー移民の子としてウィスコンシン州の田舎街で生まれました。シカゴ大学、スタンフォーど大学などで教授を勤め、「生産者の立場に立った哲学」を基本とする著作を発表し続けました。
 最初のプロテスタント系移民がアメリカを開拓するために各地のフロンティアへと苦闘の旅を続けたのに対し、20世紀に入ってからやって来たアイルランド系、ユダヤ系、イタリア系移民たちの多くは都会に住みつき、彼らが新しいアメリカ人の都会的なライフ・スタイルを生み出すことになりました。そして、彼らはその後、アメリカ経済を左右することになる企業の理念を少しずつ変えてゆくことになります。

「営利企業の理念」(1904年)
 この著作の中で彼は、企業による経済活動は、ビジネス(金儲け)とインダストリー(産業)に分けることができるとしています。ビジネスにおいては、利益を得ることが目的なので消費をあおるためなら何でもやらざるを得なくなると指摘。それに対してインダストリーは、有効なものを効率的に作ることを目的としており、それは倫理的に正しい方向といえます。残念ながらアメリカだけでなく世界全体の経済活動において、前者(金儲け)の傾向がどんどん強まっているのは明らかです。彼は、だからこそ「インダストリーの社会改革」が必要であると主張していました。
 彼は、古き良きアメリカ、映画「素晴らしき哉、人生」における「愛のある経済学」の必要性をいち早く説いていたわけですが、残念ながらその意見に耳を傾ける者は、ごくわずかだったようです。

「共産党宣言」(幸徳秋水、堺利彦訳、平民新聞刊)が発禁となる


1905年
「認識と誤錨」エルンスト・マッハ(1838年~1916年)
 音速を示す「マッハ」でも知られる20世紀初頭を代表する天才マルチ思想家のエルンスト・マッハ Ernst Waldfried Joseph Wenzel Machは、当時オーストリア領だったモラヴィアのキルリッツで生まれました。ウィーン大学で学び、同大の教授に就任。専門は物理、数学だったが、研究対象は哲学、科学史、心理学、生理学など幅広かった。彼の重要な主張として「要素一元論」があります。
 カントなどによる理性によって世界を把握するという考え方ではなく、直接的体験をもとに世界を把握することを主張しました。物体や自我はどちらも実態ではない。しかし、感性的諸要素(色、熱、音、圧力など)からなる複合体として把握することは可能と考えました。
 「因果関係」もまたそれらの現象の間の関数関係としてとらえることができる。物理学と心理学は根本的に異なるわけではなく観点が異なるだけというわけです。彼の考え方は、ニュートン力学における絶対空間という考え方を否定することでアインシュタインの相対性理論が登場する可能性をいち早く示していたことでも重要です。
 20世紀の科学は、例えば物理なら量子力学、天文学、相対論など、それぞれの専門分野へとどんどん細分化されてゆくことになります。そう考えると、彼は人類史上最後のマルチ・サイエンティストであり思想家でもあったのかもしれません。
エドムント・フッサールがゲッティンゲン大学やミュンヘン大学の学生による研究会を開き、そこで初めて「現象学的還元」の考えを示した。

アルバート・アインシュタインが「特殊相対性理論」「光量子仮説」を発表
< 物理学が美学だった頃>アインシュタイン、ボーアら天才物理学者たちの時代



1906年
フェルディナン・ド・ソシュール(1857年~1913年)がジュネーブ大学で「一般言語学講義」を開始。(1911年まで行われる)
 フェルディナン・ド・ソシュールFerdinand de Saussureは、スイスの言語学者で初めて言語学を科学的に分析した学者です。それまで言語について行われていた研究は、その変化の歴史を時間軸にそって追跡・分類・比較・研究する歴史比較言語学でした。彼はその分野の優秀な研究者としてスタートしたが言語全体にわたり、時間軸を横切りして法則性を追求する新しい分野に挑戦しました。
 彼は言語とは、「ラング」と「パロール」とからなるとしました。「ラング」とは、「文法」という法則をもち、言語を使う人間の頭の中に存在する「制度的」なもの。それに対し、「パロール」とは、「ラング」をもつ人が実際に口を動かして発する「言葉」のことです。そして、「パロール」は一つのシステムに基づいて組み立てられた言葉の集合体によって「意味」を伝えます。彼はこの言葉を「単語」に分解、その「単語」の構造を分析しました。彼はすべての単語を「シニフィアン」(記号表現)と「シニフィエ」(記号内容)とに分けて分析しています。
 「シニフィアン」とは、「SINIFIAN」という発音の音であり、「S」や「I」など、さらに細かな音素の集合体です。「シニフィエ」とは、その言葉がさす「意味」のことです。「シニフィアン」と「シニフィエ」を結びつける法則は存在しません。しかし、他の言葉との区別をつけるための「差異」が必要ため、「シニフィアン」という「違った音」をもつ「名前」が必要なのです。
 人間はあらゆることを表現するため、このシニフィアンとシニフィエを用いているが、そのことを意識しているわけではありません。さらにこのことは、言語以外の社会ルール全般にもあてはまります。人間が行動している社会ルールにも意識している表面の制度の下に無意識の構造が隠れているのです。こうした考え方から、この後「構造主義」が生まれることになります。
 19世紀の時点でいち早く言語を科学として扱うという新しいジャンルを切り開いたという点で20世紀後半に登場する構造主義の元祖ともいえる存在でした。今では当たり前に思える言語の機能を明確化したことで言語学が「学問」として新たな段階に入ったのでした。

ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルがハンブルクで「一元論同盟」を結成。宇宙のすべての謎は「物質の原理」「エネルギーの原理」「進化論」、三つの原理によって解明可能とした。
マハトマ・ガンジーが南アフリカで非暴力の抵抗運動を組織
堺利彦らによって日本社会党設立



1907年
エドムント・フッサール(1895年~1938年)が「現象学の理念」の講義が行われ「現象学的還元」を解説。
 エドムント・グスタフ・アルブレヒト・フッサール Edmund Gustav Albrecht Husserlは1906年にゲッチンゲン大学の教授となり1916年からはフレイブルク大学の教授として活躍。フライブルク大学をドイツ哲学の中心都市にした人物です。優れた人物でありながらユダヤ人であったために教授の地位を奪われることになります。
 世界は意識によって構成されていると説明する「現象学」を生み出したドイツを代表する哲学者であり、サルトルらフランス人の哲学者にも多大な影響を与えた彼の考え方はざっくり書くとこんな感じでしょうか。
(1)世界を描き出すための論理を人間の心のあり方から考えるのは間違っている。そうした心理学的要素とは切り離した「超越した論理」。それ自体を記述しなけらばならない。
(2)人間は世界を認識する際、ある種の偏見を通して見ており、それは「幻想」である。(これを自然的態度と呼ぶ)
 世界をより正確に認識するためには、常に立ち止まり「判断中止」(エポケー)をしながら、思い込みを取り除きつつ、それでも残された究極の真実に近づく作業が必要である。この思考の手順を「現象学的還元」と呼ぶというわけです。
 ただし、こうした作業を行っても完璧な客観性は得られません。そこにはそうした思考を行う「能動的な意識」が存在しているからです。逆に考えると、「世界」とは意識によって構成されているということもできます。そして、この世界を構成し創造する純粋な自我を「超越論的主観性」と呼びます。「世界」を構成する無数の意識がもつ主観性はそれぞれが自覚的になり他者との共同を行う「間主観性」を生み出すことで、世界にとって有効な思想になりうる、というわけです。(ちょっと難しいかもしれませんが・・・)
 こうして生み出された「現象学」という考え方は、その後、20世紀の哲学の中心思想のひとつとしてもてはやされることになります。

「創造的進化」アンリ・ベルグソン
「プラグマティズム」ウィリアム・ジェームズ
小山内薫が「新思潮」を創刊



1908年
「新フランス評論」(NRF)第1号刊行(1909年の第二号にアンドレ・ジッドの「狭き門」が掲載され話題になる。


1909年
フィリッポ・トマーゾ・マリネッティが「未来派宣言」を発表。


1910年代

1910年 「数学原理」バートランド・ラッセル(1872年~1970年)共著アルフレッド・N・ホワイトヘッド
 バートランド・ラッセル Bertrand Arthur William Russellは、名門貴族出身の由緒正しいイギリス人思想家です。当初はヘーゲルらのドイツ哲学を学んでいたが、その曖昧さよりも数学の正確さに惹かれるようになり、論理学や数理学へと方向を転換。事物を分析するには、その事物を構成する最小単位(原子)にまで掘り下げる必要があると考えるようになります。論理学を数学的に分析、研究することにこだわり続けました。第二次世界大戦後、原子爆弾が広島、長崎に落とされて、その悲惨さが明らかになると核廃絶運動に力を注ぎ、生涯平和運動に尽力しました。
 科学、数学の分野から世界を把握しようと試みた量子力学が発達した時代、それは原子爆弾というあまりに危険な発明を生み出してしまいました。そのおかげで彼の人生は大きく変えられることになったわけです。科学者ではなかったものの、彼は量子力学の時代を象徴する存在となりました。

「意思と表象としての世界」ショーペンハウエル著、姉崎正治訳が日本で出版。
大逆事件(幸徳秋水ら12名に死刑判決、天皇暗殺計画の罪)



1911年
スヴァルト・シュペングラーは世界大戦を予知。1918年に出版されベストセラーになる「西洋の没落」の執筆開始。
「科学的管理法」フレデリック・ウィンスロー・テイラー
歴史研究家ハイラム・ビンガム(英)がマチュ・ピチュ遺跡を発見。
W・カンジンスキーが青騎士を結成。
アンデパンダン展にキュビズム派の追随者が登場(フェルナン・レジェ、マルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアなど)



1912年
「変容と象徴」カール・グスタフ・ユング(1875年~1961年)
 カール・G・ユング Carl Gustav Jungは、フロイトの弟子ながらユダヤ系ではなくゲルマン系のスイス人。少年時代から幻視体験をしていたせいもあり、超心理現象に興味をもつようになり、バーゼル大学で医学を学ぶと精神病について研究し始めました。その過程でフロイトの歴史的名著「夢判断」を読み、作者であるフロイトとも交流が始まりました。フロイトの弟子となった彼ですが、もともと超常現象に興味があった彼は神秘主義的傾向が強く、しだいに路線の違いが明らかになります。その影響もあってか、彼が1912年発表した名著「変容と象徴」をフロイトはあまり評価せず、ついに二人は別々の道を歩み始めることになりました。
 フロイトが「性欲」にすべてを還元しょうとすることにユングは反発。彼はリビドーの向かう方向こそが重要であるとして、「内向性」「外向性」を重視しました。さらに大きな二人の違いは、彼が「集合的無意識」の概念を非常に重要視した点です。ここでいう「集合的無意識」とは、個人の無意識の奥に潜む祖先たちが積み上げてきた膨大な記憶(元型)のことで、それが人間の感情などを形成し、神話や神秘思想の原点にもなっていると彼は考えました。
 あくまでも理論にこだわる学者であり続けたフロイトの弟子でありながらダークサイドへと導かれてしまったのがユングかもしれません。しかし、「性欲」にこだわり続けたフロイトより、「集合的無意識」という超現実的存在にこだわり続けたユングの方が魅力的に思える人はけっこう多いのではないでしょうか?(ちなみにロック界でいうと、フロイトがミック・ジャガーなら、ユングはキース・リチャーズいやブライアン・ジョーンズか?)
「人間にとって決定的な問いとは、自分が限りなきものとつながっているかどうか、ということである」
「私は理解されない芸術家だった」
「変身 Die Verwandlung」フランツ・カフカ
アルフレッド・ウェゲナーが大陸移動説を発表
「憲法講話」美濃部達吉



1913年
「精神病理学総論」カール・ヤスパース(1883年~1969年)
 カール・テオドール・ヤスパース Karl Theodor Jaspersは、ドイツの精神医学者であり、ハイデガーと並ぶ実存哲学者です。ここで用いている「実存」とは、人間がそこから行動したり思索したりする自己存在の根源。「実存」は主観的な存在であるがゆえに、他には存在しない超越的なものになりうると考えられます。そして、その超越的な自己に到達するためには、「世界」を超越し、超越者(はつて、人はそれを神もしくは預言者と呼びました)と関係する必要がある。ただし、それを実現させるためには、人は限界状況、もしくは危機的な状況に追い込まれなければならない。そしたう状況に置かれて初めて人は超越者と結びつく暗号を解読することができるのです。
 「誕生」や「死」のような非理性的なものと出会うことで初めて究極の理性が働きだすということは、それらの非理性的なものとれ性的なものを同時に世界に存在させる包括者が存在するということです。この包括者こそが真の超越者であり、神だというわけです。

「軸の時代」 彼は人類の歴史の中で非常に重要な時代として「軸の時代」をあげています。これは時代的には紀元前5~6世紀ごろにあたるもので、ほぼ同時期に世界の何箇所かで今日にまで影響を及ぼしている偉大な哲学者たちが現れているというのです。
 ソクラテスらのギリシャの哲学者たち、イザヤなど旧約聖書に登場するイスラエルの預言者たち、孔子など中国の思想家たち、それにガンジス川流域の都市国家に生まれたゾロアスター教の修行者たち。
 問題は、再び新たな「軸の時代」が到来することはあるのか?ということです。人類の生き方を根本的に変えるような革命的な思想家が現れなければ、我々に22世紀を向けるチャンスはないのではないか?僕はそんな気がしているのですが・・・。
「失われた時を求めて」第一部「スワンの恋」作者マルセル・プルーストによる自費出版として刊行される。この後の作品はガリマール社から10年以上の歳月をかけて発表されることになる。
アンリ・ベルグソンがロンドンの心霊研究協会で講演会開催し、心霊学の重要性を強調。この団体には詩人のテニソン、批評家ラスキン、心理学者のW・ジェームス、物理学者のJ・J・トムソンらが参加しており、心霊学を科学的に検証することができると考えていた。



1914年
アルバート・アインシュタインが「一般相対性理論」を発表
マハトマ・ガンジーらインド人知識人が対英協力声明を発表(将来の独立に向け)



1915年
「帝国主義論」ウラジミール・レーニン


1916年
「一般言語学講義」フェルディナン・ド・ソシュール(その後の人文諸科学に大きな影響を与えることになる著書)
スイスのチューリッヒにて、ドイツ人芸術家フーゴ・バルが開設した「キャバレー・ボルテール」で行われた夜会からチューリッヒ・ダダがスタート。新聞にはこう書かれた。
ウラジーミル・レーニン
(写真)Wikipedia


1917年
ロシア革命起きる(ニコライ2世が退位しロマノフ朝が終わる)
アメリカ人ジャーナリスト、ジャック・リードが「世界を揺るがした十日間」を発表(ロシア革命のルポ)
「泉」マルセル・デュシャン(20世紀のアートに、最も大きな影響を与えた作品とも言われる前衛アートの原点)
ワシーリー・カンディンスキーがモスクワ芸術文化研究所の館長に就任
[ダダの時代]
バーンホフシュトラーセのコレイ画廊で「第一回ダダ展」開催。その成功をうけて「ダダ画廊」が開業。ダダは世界各地のアバンギャルド芸術運動と交流しながら一大ブームとなり、時代の波となってゆきます。
「一般社会学概論」ヴィルフレード・パレート



1918年
ハサン・アル・バンナー(1906年~1949年)がイスラム同砲団結成 ハサン・アル・バンナー Hasan al-Bannaは、エジプトの敬虔なイスラム教徒の家庭に生まれました。時計修理の職人だった父親のもとで育ち、優秀な成績でカイロの高等師範学校に入学。中学校の教師となり、教師生活のかたわら、1918年に「イスラム同胞団」を結成します。そして、これがイスラム原理主義組織の原点になります。彼らの主張は、「イスラムの進行に基づく国家の建設と社会正義の実現」でした。
「アラーの神は、人間の方で自分の状態を変えないかぎり、決してある民族の有様を変えたりなされない」という教えに基づいて、彼らは社会体制の変革を進めようとしました。そして、彼らは、すぐに植民地支配を行うイギリスに対してテロ活動を行うようになります。そのため、1948年には非合法組織とされ、彼らは地下組織として密かに活動を続けることになります。しかし、彼らに対する徹底的な弾圧は、逆に彼らの存在を他のイスラム諸国にも知らせることになり、イスラム原理主義は世界中のイスラム圏の国々へ広まって行くことになりました。こうして、彼の思想は現在にまで続くイスラム原理主義者によるテロ活動の底流として21世紀へと続くことになるのです。
 今や、アメリカ、西欧の文明に対抗する最大の文明となったイスラム原理主義の誕生は、意外にに最近のことでした。それは初めから弾圧とそれに対抗する抵抗の歴史だったともいえます。そして、そんな彼らの存在を世界中に広めた最大の功労者は間違いなくその最大の弾圧者アメリカだったのです。

「狂人日記」魯迅
「西洋の没落」オスヴァルト・シュペングラー
「論理哲学論考」ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン



1919年
「職業としての政治」マックス・ヴェーバー(1864年~1920年)
 マックス・ヴェーバーMax Weberはマルクス主義の一大ブームによって忘れかけられたドイツの思想家です。しかし、地味ながら現在でも静かに影響を与え続けている孤高の存在でもあります。
「認識」とは何かについて、彼はこう考えました。
「何かを判断するとき、人間はある枠組み(理念型)を頭の中にもち、それを対象物と比べることで判断を下す」したがって、社会学とは人間行為の様々な「理念型」のカタログのことである。しかし、そうした判断には参考とするべき「価値」の存在が必要。さらにその判断下すためには、もうひとつ客観的に見比べることのできる判断者の「自由」も必要と考えました。
 彼は政治支配の3つの類型を示しました。
「合法的支配」・・・法律、ルールなどにのっとった支配(アメリカなどの民主主義国家の多くは一応これに当たる)
「伝統的支配」・・・伝統によって定められた支配(王や神官などによって支配される国、チベットなど)
「カリスマ的支配」・・・特別な人格的力をもつカリスマ性による支配(ヒトラーのような大衆煽動能力をもつ人物による支配もしくは独裁による。北朝鮮やキューバなど)

「精神分析入門」ジークムント・フロイト(無意識の発見)
「人類の薄明」クルト・ピントゥス(編)(ドイツ表現主義の詩的運動が生んだ作品のアンソロジー。第一次世界大戦がもたらした衝撃を反映した作品が多い)
ドイツ、ワイマールに国立美術工芸学校(バウハウス「建築の家」)(建築家ヴァルター・グロピウスらによる)



1920年代

1920年
[バウハウスの開校]
 ドイツのワイマールに開校したバウハウスが「バウハウスの夕べ」を開催。
工学建築とモダニズム・デザインの統合を模索していたヴァルター・グロピウスを中心にM・テディ、W・クレム、R・エンゲルマン、D・フレーリヒ、L・ファイニンガーらによって、芸術大学と工芸学校を統合した総合的造型芸術家の養成機関として設立された。1922年にはカンディンスキーも教授陣に参加。モダン・デザイン運動の中心として活躍。1925年デッサウに移転。1933年ナチス・ドイツが政権を掌握したため閉校となる。

「ダダ万歳」ラウール・ハウスマン(独)
「資本論」カール・マルクス著が高畠素之の翻訳で刊行される
「ロボット R.U.R」カレル・チャペック(チェコ)(ロボットの名前の由来となった作品)
「哲学の改造」ジョン・デューイ(プラグマティズムを代表する思想家)
日本初のメーデー、社会主義同盟設立(大杉栄、堺利彦らによる)



1921年
「論理哲学論考」ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)出版契約成立(1918年には完成していたが、出版社が見つからず、彼は自殺まで考えていた)
 ルートヴィッヒ・ヨーゼフ・ヨハン・ウィトゲンシュタイン Ludwig Josef Johann Wittgenstein は、オーストリアのウィーンに生まれました、。父親はユダヤ人で鉄鋼業界の大物でした。ベルリンの工科大学、マンチェスター大学工学部で学んだ後、数学や論理学の道へと進み、バートランド・ラッセルのもとで学びました。そこで言語学を本格的に研究するようになります。
 彼の考えでは、「言語」とはばらばらな独立した要素であり、他のものとは関係なしに成り立っている。「言語」単体では何も表さず、何かと結びついてはじめてそれは「意味」をもつということです。
 言語によって世界は把握されているのか?することは可能なのか?
 言語は世界を記述するためにだけ存在するのか?
 (非常に面白い問題ですが、ここから先は難しいので解説不能です。またいつか・・・)
 彼は、こうした言語やイメージによる足かせによって狭められている哲学を解放するため、数々の思考実験を展開しました。
 原子の段階にまで世界を分解することで世界を記述しようと考えたバートランド・ラッセル。その弟子でもあった彼は、世界を「原子」ではなく「言語」に還元しようとしました。そのため、彼は「言語」という存在の本質を徹底的に追求したのです。もちろん、それは「原子」の本質が未だにつかみきれていないのと同様、終わりのない挑戦といえるのかもしれません。

「私の言語の限界は、すなわち、私の世界の限界だ」 ウィトゲンシュタイン「阿Q正伝」魯迅
「われら」エフゲニー・イワーノヴィッチ・ザミャーチン



1922年
「教育と社会学」エミール・デュルケム(1858年~1917年)
 エミール・デュルケム Emile Durkheimは、フランスのロレーヌ地方エピナール生まれのユダヤ人です。ボルドー大学教授を経て1902年パリ大学の教授となったフランスにおける社会学の巨人です。
 彼の代表作「社会分業論」では、産業革命によってフランスの社会学が大きく変わりつつあることを指摘。「機械的連帯」の社会から「有機的連帯」の社会へと移り変わりつつあることが解説されています。ここでいう「機械的連帯」の社会とは、同じような村落共同体が集まっている社会のことで、その社会はどこを切り離しても同質なため、その影響を受けにくいと考えられます。それに対して、「有機的連帯」の社会とは、それを構成する単位がそれぞれ異なる存在で、それらが分業による相互依存関係を築いています。したがって、どこか一部が失われると、その影響は全体に及ぶ可能性があるわけです。
 21世紀、グローバリズムの世界的な拡大によって、世界は巨大な「有機的連帯」の社会となりました。アメリカで起きた金融破綻がその巨大な社会をいっきに恐慌へと追いやったのは当然のことでした。下り坂の大国アメリカでごく一部の人間たちの欲望を満たすために行われた詐欺的行為が、あっという間に世界を危機へと追い込んだのです。
 二つの社会の移行期におきる急激な変化は、人間たちに大きな混乱をもたらすことになりました。そうした問題に対応するためには、学校教育による人間改革が不可欠であると彼は考えていたようです。やはり最後は人間の心の本質が問われるということなのでしょう。

「世界史概観」H・G・ウェルズ
「夜の太鼓」ベルトルト・ブレヒト


1923年
「歴史と階級意識」ジョルジ・ルカーチ(ヨーロッパ・マルクス主義の古典的名作)
「日本改造法案大綱」北一輝
憲兵大尉甘粕正彦が大杉栄ら共産主義者を殺害



1924年
「魔の山」トーマス・マン
長編第二作となったこの作品は、第一次世界大戦中、ドイツの戦争を肯定していた彼が間違っていたことを反省して書いたとも言われる。しかし、この本にこめられた警告にも関わらず、ドイツはその後ナチズムへと突き進んでいった。
ウラジミール・レーニンが「新国家論」(「国家と革命」)発表
イタリアの総選挙でファシスト党が勝利
<シュルレアリストとファシスト>「わが闘争」アドルフ・ヒトラー、「シュルレアリスム宣言」アンドレ・ブルトン



1925年
「レーニン以後」マックス・イーストマン(いち早くソ連の党内闘争を暴露したルポ)
雑誌「民族」創刊(編、著)柳田國男
ルドルフ・シュタイナー(独)死去
<アールデコと大衆文化の時代>ジョセフィン・べーカーとアール・ヌーヴォーのアーティストのアーティストたち



1926年
ロマーン・ヤコブソン(1896年~1982年)が「プラハ言語学派」を創立 ロマーン・ヤコブソン Roman Osipovich Jakobsonは、ロシアのモスクワに生まれ、革命の翌年(1918年)にモスクワ大学を卒業しています。1920年ソ連からチェコに脱出し、プラハで言語学の研究を行い1926年「プラハ言語学派」を創立します。その後、ナチス・ドイツに追われながらデンマーク、ノルウェーへと移住した後、アメリカにたどり着きます。そこで彼は、同じようにヨーロッパから亡命して来たレヴィ=ストロースと出会い、互いに影響を与え合いながら構造主義の中心的思想家として活躍してゆくことになります。
「音韻論」
 彼は言語を分析して、その単位となる音素の体系化を行いながら、音素はどうやって結びつくのか?などについて研究しました。こうした、音の対立の型は、様々な言語において共通する部分が多く、地球上の言語は十数種類に分類できることを彼は明らかにしました。さらに彼は、動詞の形態や名詞の「格」の意味の分析などから「構造言語学」の方法を組み立てる先駆者ともなりました。
 19世紀の天才言語学者ソシュールの理論をもとに、彼は「プラハ言語学派」の理論を組み上げました。そして、その理論を受け継いでさらに発展させたのが「構造主義の父」と呼ばれるレヴィ=ストロースだったわけです。


1927年
「存在と時間」マルティン・ハイデガー(1889年~1986年)
 マルティン・ハイデガー Martin Heideggerは、ドイツのフライブルク大学で「現象学の父」フッサールから直接学び教授となった実存主義を代表する哲学者です。彼は第二次世界大戦前ナチ党員だったこともあり、ユダヤ人だったために職を奪われたフッサールの後継者となったことでも知られます。ただ、そうしたことがあったにも関わらず、彼の普遍的な思想は誰からも高く評価され、左派の思想家からも認められる骨太の哲学者でした。彼は名著「存在と時間」(1927年)の中心課題でもある「存在」と「時間」について徹底的に考察を行ったことでも知られています。それでは彼の代名詞ともいえる「実存」という言葉の意味するところは何でしょうか?
 「あるものがある(存在する)」とは何か?それは「あるもの」が何なのか、ということではありません。あくまでも「ある」ということの意味を問いかけているのです。
彼はそれを現象学的還元によって明らかにしようとしました。
 例えば、「人」がいる(ある)ということは、どういうことなのでしょうか?それはある時間軸の上、ある状況・条件のもとに「人」が生きているということです。当然、それは「死」までの「時間」と切り離せません。ということは、その終わりにある「死」の存在を受け入れることで、初めて人間は「生きる」ことができるということでもあるのです。さらに「人」が生きているということは、その「人」の所属する民族や家族の歴史がその裏に刻み込まれているということでもあります。こうした、数々の事実があって初めて「人」はそこに「存在」しうるということなのです。

ヴァルター・ベンヤミンがアラゴンの「パリの農夫」を読み、「パサージュ論」の構想を思いつく
ニールス・ボーアが「量子論の確立」を発表
「失われた時を求めて」マルセル・プルースト著(仏)
「荒野の狼」へルマン・ヘッセ著
「解放された大地と人間によて支配される自然力」ディエゴ・リヴェラ作(メキシコ壁画運動の代表作)



1928年
「ペルーの現実解釈のための七試論」ホセ・カルロス・マリアテギ(1894年~1930年)
 ホセ・カルロス・マリアテギ Jose Carlos Mariateguiは、ペルー社会党の創立者となったが、元々は学校にも通えずに新聞社の植字工見習いから出発した苦労人。彼は校正係から記者へ、その後は新聞、雑誌の編集者から評論家、小説家、詩人となり、幅広いアーティストとして活躍しました。
 1918年頃から労働運動に力を入れるようになり、「ラ・ラソン(理性)」紙を創刊。反体制運動を支持する記事を発表しました。しかし、政府によって国外追放となり、ヨーロッパ各地を旅しながらマルクス主義やシュルレアリスムを吸収しました。1923年に帰国後、1928年にペルー社会党を結成。現実に根ざした彼の共産主義思想は、ソ連の中央集権的なものではありませんでした。元々が小さな自立する農家の集合体であるペルーの農家は、ソ連の農奴とは異なる条件にあり、同じ理論が通用しないのは当然のことでした。そのため、彼は「ペルーの現実解釈のための七試論」(1928年)においてソ連の社会主義とは異なる思想を展開しています。
 20世紀の初めにいち早く民族主義と社会主義を融合させるという離れ業に挑んだ早すぎる英雄でもあった彼は、1930年、35歳の若さでこの世を去りました。彼はまた、ペルー国民にとって伝説的な英雄でもあります。

「三文オペラ」ベルトルト・ブレヒト(独)
治安維持法が改正、適用され共産党員、社会主義者への弾圧開始



1929年
ウォール街(ニューヨーク証券所)での株価大暴落から世界恐慌始る
ベルリンで共産主義者の暴動発生
トロッキーが国外追放される、スターリンの独裁体制スタート
エルサレムでアラブ人、ユダヤ人が衝突し流血騒ぎとなる。(嘆きの壁事件)
「過程と実在(コスモロジーへの試論)」アルフレッド・N・ホワイトヘッド
「蟹工船」小林多喜二



1930年代

1930年
「大衆の反逆」ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883年~1955年) ホセ・オルテガ・イ・ガセット Jose Ortega y Gassetは、スペインのマドリッドに生まれました。ドイツに留学した後、マドリッド大学の教授になりました。1914年第一次世界大戦直前に「スペイン政治教育連盟」を創設。1931年には王制が倒れ共和国へ以降し自らも国会議員となります。しかし、その後国内は混乱し内乱とともに彼は亡命を余儀なくされました。1945年の終戦後、やっと帰国することができました。彼はそうした激動の人生の中、名著「大衆の反逆」(1930年)を発表。その中でこんな内容のことが書かれていました。
「大衆」とは、「自分ではものを考えず、皆と同じであると感じることによって安心する人間類型」である。
 ただし、彼は大衆がそうなってしまうのには「知識人」にも責任があると考えていました。それは大衆を導くべき「知識人」の多くは専門知識はあっても知恵をもたない専門馬鹿になってしまい、「大衆」はそれを真似ているにすぎないというのです。こうしたオルテガの考え方は、ヒトラーやスターリンの登場によって証明され、その後も中国の文化大革命、カンボジアにおけるポルポト派による大虐殺など、思考停止状態の大衆による恐るべき事件が起きることになります。。
 彼はスペインでの内戦を生きながら、その実体験から「大衆」という恐るべき存在を理解し、それを著作にまとめました。こうして彼はこの後数多く登場することになるファシズムによる大衆煽動の歴史をいち早く指摘することになりました。

ドイツの総選挙でナチスが大躍進
不服従運動の開始、ガンジーが逮捕される



1931年
「中国の経済と社会」カール・アウグスト・ウィットフォーゲル(1896年~1988年)
 カール・アウグスト・ウィットフォーゲル Karl August Wittfogel1930年代にドイツから亡命し中国で始まりつつあった革命を調査した左派の社会経済学者です。社会主義国について研究した彼は、ソ連と中国の共産主義体制はどちらも東洋的専制主義による国家体制だとしました。この東洋的専制主義の社会とは、・・・
(1)社会や国民の権利よりも国家の権力が上回る。
(2)恐怖政治が民衆を抑圧する社会である。
(3)国家の支配者は国民ではなく国王でもなく官僚階級である。
 したがって、権力を有するかどうかで階級が決まる社会でもある。その原点は、かつてモンゴルによって支配された国々であるところから始まったのではないか?そう考えています。(日本はかろうじて例外にあたるということです)
 彼は文明には、「中心」、「周辺」、「亜周辺」という3つの区分が可能とし、「中心」とは文明を生んだところ、「周辺」とは「中心」にいた国によって支配されたその文明を受け入れることになったところ、さらにその外にあり自由に文明を選択できる位置にあるのが「亜周辺」としました。
 彼はさらに国家や社会を「単一中心社会」と「多数中心社会」に分けました。
「単一中心社会」とは、アジアの多くの国、もしくは共産主義の国で、そこでは政治、経済、芸術などすべての市民生活に国家が指示を発しています。
「多数中心社会」とは、都市国家から生まれたヨーロッパの国々、アメリカのような多民族国家などのこと。そうした国々は社会をまとめるため、民主的なシステムを発展させざるをえませんでした。


1932年
ナチスの議席が38%を上回る(ドイツの第一党となる)
五・一五事件(犬養総理大臣が暗殺される)


1933年
ここから「二十世紀の文化大移動」といわれるドイツ語圏からの頭脳流出が始まる。K・レヴィンらのトポロジー社会学、L・シュピッツァー、R・ヤコブソンらの言語学、人文科学、多数の精神分析医たちによる心理学、精神医学の研究、J・シュペンターらによる経済学の改革、そのほか数学、化学、物理、生物学などの分野でも優秀な人材がアメリカにわたり、そのおかげでアメリカは第二次世界大戦後、20世紀後半の世界をリードしてゆくことになります。
[エラノス会議]
ドイツの宗教史研究家ルドルフ・オットーの提案により、イギリスのオルガ・フレーベ・カプテインが創設した会。スイスのマッジョーレ湖畔アスコーナにて第一回が開催された。最初のゲストはC・G・ユングで、心理学、神話学、生物学、宗教学などを統合し、生命=有機的なるものの発生の原初へとさかのぼろうとする研究会。その後の参加者としては、M・エリアーデ、J・キャンベル、鈴木大拙、河合隼雄などもいる。

フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策
ナチスによりバウハウスが閉校に追い込まれる
小林多喜二が治安維持法で逮捕され拷問により虐殺される



1934年
「新しい科学的精神」ガストン・バシュラール(1884年~1962年) ガストン・バシュラール Gaston Bachelardは、パリ近郊の農村に生まれ、恵まれた家庭の出身ではありませんでした。中学卒業後、郵便局で働きながら数学の学士号を取得した彼は中学で物理と科学を教えながら自学自習で哲学を研究し始めます。こうして彼は、科学の分野から哲学の分野へと視線を広げることで大きな仕事を成し遂げる思想家となります。
 1930年にディジョン大学に就職。その後、実績を積んだ彼は見事名門ソルボンヌ大学の教授となりました。この頃彼が発表した著作「科学認識論」で彼は、科学の歴史は連続的な理論の進化から成立するのではないと指摘。妨害や障害にぶつかり、それを乗り越える「切断」の後にこそ新しい科学が誕生すると指摘しています。この考え方は、トーマス・クーン1962年に発表する「科学革命の構造」の先駆となるものでした。
 彼は、人間を取り巻く存在である「イメージ」についての考察にも挑んでいます。ここでいう「イメージ」とは、「意識」と「下部意識」の接点に位置づけられており、意識下にあって、うごめきながら意識に影響を与えるものとされていますが、彼は特に我々の生きている宇宙を構成している「水」、「空」、「大地」、「火」の「イメージ」について深く考察しています。
 物事を認識する際、その「障害」となるコンプレックスのもととなるのが「イメージ」でもある。彼はそうも考えていました。これは科学が進化の歴史を進める際に乗り越えなければならない「障害」とも見事に共通しているといえます。

「精神、自我、社会」ジョージ・H・ミード(C・W・モリスがミードの講義録をもとに編集したもの)


1935年
クロード・レヴィ=ストロース(仏)がサンパウロ大の社会学教授として赴任。大学の休暇を利用してアマゾンの原始部族を調査。民俗学研究の道を歩み始める

アドルフ・ヒトラーがヴェルサイユ条約を破棄、再軍備開始
反ユダヤの法律化(ニュールンベルグ法)(独)
美濃部達吉の天皇機関説により不敬罪で告発される
「私小説論」 小林秀雄


ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル
(写真)Wikipedia

1936年
「想像力」ジャン=ポール・サルトル(1905年~1980年)
 ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル Jean-Paul Charles Aymard Sartre 20世紀後半、激動の1950年代、60年代を代表するフランスの哲学者。一歳の時に父親を亡くしたが、天才少年として育った彼は、フランス最高の超名門校である高等師範学校に入学。卒業後は高校教師となるがフッサールの現象学と出会い、1930年ベルリンに行きフッサールに学びます。1936年「想像力」、1938年小説という表現形式を用いて「実存」とは何かを描いた「嘔吐」を発表し、一躍その名を知られるようになります。
 ここでいう「実存」とは、ある対象の存在から、その対象の本質的な部分を取り去ってなお残る部分のこと。その「実存」を彼は「行動」と結びつけました。人間は実存しているがゆえに自由である。この自由に基づいて自ら行動することで「歴史」をつくることができるというわけです。(1943年「存在と無」)
 第二次世界大戦後、彼は共産党と協力関係をもつようになります。「弁証法的理性批判」(1960年)では、マルクス主義による社会学を実存主義、現象学の概念によって裏付けようとしました。当時の反体制運動の流行とともにこの本は大ヒットすることになり、彼は一躍「時の人」となります。
 しかし、1960年代に入ると彼はレヴィ=ストロースら構造主義の思想家たちから批判されるようになります。それに対抗するように彼は1960年代さらに急進的な左派の支持者となり、毛沢東主義者の過激派の活動を支援するようになりますが、その行動は反体制運動の後退にともないしだいに時代錯誤ととられるようになります。こうして1970年代に入ると、彼の存在は急激に過去のものとなりました。
 僕自身、現代の哲学者として最初に知った名前はサルトルだった気がします。ヌーヴェルバーグの監督たちとの関係も深く、政治だけでなく映画にも大きな影響を与えたポップ・カルチャーの英雄でもありました。しかし、カルト・ヒーローには必ず、その反動がくるものです。早死にしていれば永遠の存在になれたのかもしれませんが、・・・。しかし、実存主義の英雄は確かに自らの人生によって、その思想を体現して見せてくれました。
「いかなる人間でも、生きながら神話化されるには値しない」

「存在の大いなる連鎖」アーサー・O・ラブジョイ(学問のジャンルを超えた議論から生まれた西洋思想史)
「想像力」ジャン・ポール・サルトル
「雇用・利子および貨幣の一般理論」ジョン・メイナード・ケインズ
ソ連で新憲法(スターリン憲法)制定
スペイン内乱始まる
二・二六事件(高橋是清らを軍内部右派が暗殺)
天皇機関説を発表した美濃部達吉が右翼に襲撃される



1937年
「開かれた社会とその敵」カール・R・ポパー(ナチスに追われ亡命したこの時期に執筆された)(1902年~1994年)
 カール・ライモンド・ポパー Karl Raimund Popperはウィーンで生まれ、ウィーン大学で数学や物理を学んだ後、科学哲学、社会哲学の方向へと進んだ思想家です。一時期はマルクス主義へと傾いたものの、革命を成功させるためには命の犠牲もやむなしとする姿勢に幻滅し、そこから離れました。その後は、マルクス主義のもつ「科学性」の疑わしさを徹底的に追求するようになります。
 彼の重視した点として上げられるのは、「科学的な主張は反証可能なものでなければならない」です。真偽の判定が初めから不可能な理論は化学的とはいえないということです。さらに、彼は「科学の方法は帰納法では不十分であり、仮説を立ててそれによって演繹する方法でなければならない」とも言っています。
(ここでいう帰納法とは、ある問題を解く際、その問題に対する個別の答えから推測することで普遍的な答えを導き出そうというものです。それはある意味推定でしかないともいえます。逆に普遍的な法則を先に見つけ出し、そこから個別の答えを導き出すのが演繹法です)
 左派の哲学者が活躍していた20世紀の後半、マルクス主義は確かに暴走してしまったが、それはスターリンのような異常なファシスト的人物のせいでありマルクスの理論が間違っていたわけではない。それが左派系の学者たちの考え方でした。それに対し、彼はマルクスの考え方は本質的な部分で間違っていると指摘。彼はソ連を中心とする共産圏の国々が近い将来崩壊することをいち早く予見していました。
<北一輝の処刑>
二・ニ六事件を起こした皇道派を統制派が粛清。皇道派を恐れた政府は統制派の言いなりになり、戦争への道を突き進むことになります。この時、処刑された中に唯一、兵士ではない思想家、北一輝がいました。
「日本改造法案大綱」
3年間の憲法停止、戒厳令の発布、私有財産の制限、銀行・貿易・興行の国有化、華族制の廃止、普通選挙の実施、義務教育の延長、エスペラント語教育の推進、男女同権の徹底・・・
 マルクス主義から極右へと進んだ思想家。しかし、その本質はけっして単純な極右ではなかく、処刑の際も「天皇万歳」と叫ぶことを拒否したといわれます。

アレクサンドル・オパーリン(ソ連)が「生命の起源」を発表
「ゲルニカ」パブロ・ピカソ



1938年
「嘔吐」ジャン・ポール・サルトル
「経験と教育」ジョン・デューイ(米)
「歴史の研究」アーノルド・トインビー(英)
「太平洋地政学」カール・ハウスホーファー(「地政学」とは地理学と政治学の造語。「国家が地上に生活空間を得るために敢行する生存競争における政治活動の科学的基礎)
「ヒトラーは語る」ヘルマン・ラウシュニング
ナチス・ドイツがオーストリアを占領(第二次世界大戦の実質的始まり)
ナチス党員と突撃隊によりユダヤ人への襲撃始まる「水晶の夜」(独)
ドイツ・デュッセッルドルフにて「退廃音楽展」開催



1939年
「経済人の終焉」ピーター・ドラッカー
「怒りの葡萄 The Grapes of Wrath」ジョン・スタインベック John Steinbeck
「音韻論の原理」ニコラス・S・トゥルベツコイ
ドイツ軍がチェコ、ポーランドに侵攻。ドイツに英仏が宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる



1940年代

1940年
[スターリンによる粛清] ロシア・アバンギャルド演劇の演出家、フセヴォロド・メイエルホリドがモスクワで銃殺される。
ソ連からメキシコへ亡命していたトロッキーが暗殺される。
ナチス・ドイツのユダヤ人狩りを逃れアインシュタインがアメリカへ亡命する。
「経営者革命」ジェームス・バーナム
「民族の祭典 オリンピア第一部」(監)レニ・リーフェンシュタール〈撮)ハンス・エルトル、ワルター・フレンツ他
「美の祭典 オリンピア第二部」(監)レニ・リーフェンシュタール〈撮)ハンス・エルトル、ワルター・フレンツ他



1941年
「自由からの逃走」エーリヒ・フロム(ナチ体制成立の秘密を社会的な精神分析で解き明かした最初の書)
「生物の世界」今西錦司(生物の棲み分け理論を展開した著作)
真珠湾攻撃から太平洋戦争始まる。



1942年
「行動の構造」モーリス・メルロ=ポンティ
「異邦人」アルベール・カミュ



1943年
「存在と無」ジャン=ポール・サルトル
「星の王子さま」サン=テグジュペリ



1944年
「大転換」カール・ポランニー(1886年~1964年)
 カール・ポランニー Karl Polanyiは、オーストリアのウィーンで生まれたユダヤ人の経済学者です。第一次世界大戦後、ハンガリー革命に参加して、オーストリアに亡命。その後、イギリスを経由してアメリカに渡り、さらにはカナダへと移住したという放浪の研究者でもありました。
 従来の経済学においては、「経済行為とは最小コストで最大収益を狙う行為」とされていましたが、それは誤りである。そう彼は指摘しました。さらに、彼は経済についてこう定義しています。
「経済とは、人への贈り物とそのお返しである「互酬」から始まり、そこから生まれた社会的な絆に基づいてその中心となった人物(王や村長)からの「再分配」として行われるようになった行為のこと」
 さらにその行為において、より便利な貨幣という存在が登場し、「市場交換」が始まったわけです。誕生当初の貨幣は一部の人々がそれぞれの目的で使用する特殊な存在でしたが、それが歴史と共により使用目的が拡大され、カードのような特殊な貨幣も登場してきました。
 彼は、経済行為というものを、人類の歴史の中ではるかな昔からとらえ直し、その原点を定義しました。それにしても、人間の生き方は昔も今も大して変わらないものです。ただちょっとだけ便利になり、そのおかげで「まごころ」を失ってしまったということのようです。(経済の原点は、「お歳暮」、「お中元」にありということのようです)
代表的な著作としては、「大転換」(1944年)、「経済と文明」(1966年)があります。

「アメリカのディレンマ」カール・G・ミュルダール
「ゲームの理論」フォン・ノイマン、オスカー・モルゲンシュテルン
連合国軍ノルマンディーに上陸、パリ解放の後ローマを解放
「中央公論」、「改造」編集者が検挙され言論弾圧が進む



1945年
「知覚の現象学」モーリス・メルロ=ポンティ(1908年~1961年) モーリス・メルロ=ポンティ Maurice Merleau-Pontyは、フッサールの「現象学」をさらに推し進めつつ左傾化するサルトルと袂を分かち、いち早くソ連を批判する側に回った時代の変遷を象徴する思想家です。
 彼はサルトル、ボーヴォワールと高等師範学校の同級生で、卒業後も活動を共にしました。情熱的で行動を重視するサルトルに対し、それと好対照の冷静な人物としても知られていました。1930年に教授資格を取得後、高校の教師を務めながら博士論文を執筆、戦争によって中断を余儀なくされながら1942年に「行動の構造」として発表。さらに1945年「知覚の現象学」を発表し、一躍哲学界での注目を集めるようになります。彼はその中で、人間の行動を発達論の視点からとらえ直そうと試み、「知覚」という言葉に注目しています。ここでいう「知覚」とは、人間が世界や他者とを取り結ぶ基本的関係の総体のこと。
 第二次世界大戦後、彼はサルトルらとグループを結成し雑誌「現代」を編集、創刊しました。その中で彼は、当初共産党支持の立場を表明します。しかし、その後、スターリンのファシスト的政治に幻滅し、政治活動から離れ、1955年に発表した「弁証法の冒険」では、なおも共産党支持の立場を取り過激な政治活動を続けるかつての仲間サルトルを批判しています。

「開かれた社会とその敵」カール・R・ポパー
「動物農場」ジョージ・オーウェル
原子爆弾が日本に投下される(広島、長崎)、東京大空襲、沖縄に米軍上陸
ドイツ、日本が無条件降伏



1946年
「サイバネティックス会議」(第一回)
(ニューヨークのベックマン・ホテルにて開催。コンピューター、人口頭脳研究の先駆となった会議で、参加者としては、生態学者グレゴリー・ベイトソン、生理学者A・ローゼンブルース、人工頭脳の権威ノーバート・ウィーナー、人類学者マーガレット・ミード、ゲシュタルト心理学者クルト・レヴィン、数学者のクルト・ゲーデル、科学史家のG・サンティラナらとそうそうたる顔ぶれがそろった)

「ミメーシス」エーリッヒ・アウエルバッハ(2000年にわたるヨーロッパ文学における現実描写を分析した大著)
「ドイツの悲劇」フリードリヒ・マイネッケ(ドイツ民族反省の書)
「堕落論」坂口安吾
ジョン・モークリーとプレスパー・エックハートがコンピューターENIACを開発。
チャーチルの対ソ連演説の中で「鉄のカーテン」発言
社会主義インターナショナル結成(20ヵ国参加)



1947年
<ハリウッドを追われた人々の物語>非米活動委員会による赤狩り激化
「啓蒙の弁証法」テオドール・W・アドルノ、マックス・ホルクハイマー
なぜ人類は互いに人間的な状態に踏み入る代わりに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んで行くのか?
ヒトラーのナチズムとアメリカの大衆文化を批判したこの本は、1960年代末アメリカで再評価されました。
「カリガリからヒトラーへ」ジーク・フリート・クラカウアー(映画の進化からプロパガンダ映画までを分析した作品)
「サイバネティックス - 動物と機械における通信と制御」ノーバート・ウィーナー
「ブレティン・オブ・ジ・アトミック・サイエンティスツ」の表紙に核兵器による人類の終末を予測する時計が登場する。



1948年
「通信の数学的理論」クロード・シャノン
通信路・符号化と複合化・ノイズと信頼性・サンプリングという文脈でコミュニケーションをモデル化した情報科学の古典的著作
「サイバネティックス - 動物と機械における通信と制御」ノーバート・ウィーナー
性についての衝撃的調査、キンゼー報告発表される。



1949年
「第二の性」シモーヌ・ド・ボーヴォワール(1908年~1986年)
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoirhaは、ジャン・ポール・サルトルと高等師範学校の同級生で、その後は結婚こそしないものの晩年まで愛人関係を続けた女性哲学者です。
 1949年、彼女は「第二の性」を発表。そこで彼女は女性解放運動における新しい理論を展開してみせました。
「女性は絶対的な他者であって主体となることが妨げられている」
「人間性とは男性のことであり、男が女をそれ自体としてではなく、彼との関係において定義する。つまり、女性は独立した存在として見なさいのだ」
「女性の解放とは、これまで男がひとりじめにしてきた人間的価値を女が取り戻すことなのである」
「女性の解放とは、実存としての人間として、自由をめざすために投企(前進)することが必要」
 さらに彼女はこうも書いています。
「農耕が始まる以前、人間は男性中心の社会を構成していた。しかし、人類文化の進化にともない女性の社会における位置は変化している。将来必ず、女性は主体性を手に入れることができるはず」
 1970年代アメリカなどで盛り上がった過激なウーマンリブ運動とは一線を画し、彼女はフェミニズムを単なる男女同権の主張から哲学にまで深めたとも言われています。その根底には、彼女がサルトルを生涯愛し続けていたという事実があるのかもしれません。

「1984年」ジョージ・オーウェル George Orwell
「菊と刀」ルース・ベネディクト
毛沢東が主席となり中華人民共和国成立
ソ連が核兵器保有を宣言



1950年代

1950年
「発生的認識論序説」ジャン・ピアジェ(児童の世界観の形成の秘密を解明)
「新しい社会と新しい経営」ピーター・ドラッカー
小説「ライ麦畑でつかまえて」(J・D・サリンジャー著)出版
警察予備隊発足(後の自衛隊)
共産党幹部の追放、レッドパージの嵐が吹き荒れる



1951年
「孤独な群衆」デイヴィッド・リースマン(アメリカにおける新しい産業社会の構成員となった膨大な新中間層の社会的性格を描き出し話題となる
「ホワイト・カラー - 中産階級の生活の研究」チャールズ・W・ミルズ
「哲学探究」ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン
ジャック・ケルアックが「路上」を書き上げる(発表は1957年)



1952年
「ゴドーを待ちながら」サミュエル・ベケット
「モロイ」「マロウンは死ぬ」「名づけられぬもの」と続いた小説3部作完成後、息抜きとして書かれた作品
黒人作家ラルフ・エリソンの「見えない人間」が発表される
作家ウイリアム・バロウズ William S. Burroughsが「ジャンキー」を発表
(ビート・ジェネレーションの中心の一人)
ジャクソン・ポロックの抽象表現主義絵画をハロルド・ローゼンバーグが「アクション・ペインティング」と名づける。それは、カンヴァス上の絵(Picture)ではなく事件(Event)であるといった。
最新型コンピューターUNIVACがアメリカの大統領選挙で大活躍(コンピューター時代始まる)



1953年
「零度のエクリチュール」ロラン・バルト(1915年~1980年)
 ロラン・バルト Roland Barthesは、長い期間にわたりサナトリウムで過ごすなど病と闘いながらの青春時代を送りました。その後、健康を回復すると大学で古代演劇を研究するグループに所属して上演活動を行い、卒論ではギリシャ悲劇と呪術を研究しています。その後も彼は演劇的なものにこだわり続けながら哲学を研究。1953年「零度のエクリチュール」を発表。
 ここでいう「零度」とは、記号としての意味をもたない文章の一部のことです。例えば、言葉や句の省略、コロン、セミコロンなどもそれにあたります。それ自体に意味はなくても、エクリチュールとしては意味をもつ。「エクリチュール」とは、「音声言語」を意味する「パロール」と対をなす言葉ということで、「文字言語」という意味にあたります。彼はこうした考え方に基づく記号論を用いて文学論を展開しました。

「自分自身によるミシュレ」(1954年)
 フランスの歴史家ミシュレについて、文章(エクリチュール)から記号論、構造主義に基づいて、その人物像を描き出そうという試み。この手法は、この後のフランス思想界に大きな影響を与えました。
 彼は元々が芸術畑出身の思想家なだけに構造主義を芸術の楽しみ方に適用することで、その楽しみ方の幅を広げてくれた最高の評論家でもありました。

「終末時計」が20世紀で最も危険な位置2分前となる(核戦争の危機迫る)
米国、マッカーシー旋風吹き荒れる(いわゆる赤狩りにより多数の共産党支持者が人生を奪われる)
ジェームス・ワトソン、フランシス・クリックがDNA(遺伝子)の二重螺旋構造を発見。



1954年
「歴史の研究」第十巻発刊(第一巻は1934年発刊)アーノルド・J・トインビー(1889年~1975年)
 アーノルド・J・トインビー Arnold Joseph Toynbeeは、イギリスの外交官だったが歴史研究に興味を持ち、文明学の建設者となった異色の思想家です。彼は歴史研究に有効な単位として「国家」ではなく「文明」という概念を提案しました。
[文明の誕生]
 いくつかの未開社会が文明を生み出すことができたのは、・・・「創造的少数者」が存在し、「適度の刺激」からの挑戦、障害に対抗する中で少しずつビルドアップされたからである。
[文明の成長]
 「前進的で累積的な文明の内面的な自己決定ないし自己分節化」によるものである。地理的拡大とは異なるので要注意。それは刺激に対抗するカリスマ的指導者が出現、引退、復帰を繰り返すことで可能になる。
[文明の挫折]
 創造的少数者が勝利に溺れて偶像化。同じ型の繰り返ししかできなくなる中で離反者が現れ、挫折にへの道が始まる。
[文明の解体]
 離反者に対し力で対抗するようになった指導者に対し、その「世界国家」内に「内的プロレタリアート」が生まれる。そして、彼らの苦しみを解決するため「世界教会」が生まれる。その頃、その国家の外側にが「外的プロレタリアート」が接近。三者の対立、衝突によって文明は解体へと向かう。
 文明という単位で歴史を見るという彼の考え方は、その後の歴史研究に大きな影響を与えることになりました。彼のそうした発想の元には、外交官として彼の海外体験があったのかもしれません。

「希望の原理」エルンスト・ブロッホ
「自分自身によるミシュレ」ロラン・バルト
「悲しみよ、こんにちわ」フランソワーズ・サガン著(仏)
「蝿の王」ウィリアム・ゴールディング著(英)
「ブリキの太鼓」ギュンター・グラス著(独)
アメリカの最高裁でブラウン判決が下される。(教育の現場における人種隔離を違法とする判決)
リチャード・ライト著「ブラック・パワー」出版



1955年
「悲しき熱帯」レヴィ=ストロース(1908年~)
 クロード・レヴィ=ストロース Claude Levi-Straussは、「構造主義の父」といわれるフランスの文化人類学者です。サルトルほどもてはやされなかったものの、21世紀に入りその知名度、影響力はサルトルをも超えているといえます。彼は当初は哲学を研究していましたが、人類学に転向。第二次世界大戦が始まる直前、彼はブラジルのサンパウロ大学で教えることになり、その休暇を用いてアマゾン流域に住むインディオのボロロ族の生活を調査、研究。この体験をもとに発表した「悲しき熱帯」(1955年)が一躍注目を集めました。
 戦争が始まると、ユダヤ人だった彼はアメリカに亡命し、そこでロマーン・ヤコブソンと出会います。ヤコブソンから構造主義につながるヒントを得た彼はその理論化を進め、1949年構造主義の理論を民族学の分野にあてはめた著書「親族の基本構造」を発表します。

「親族の基本構造」
 原始的な部族社会において行われている婚姻は、「近親相姦はタブーである」という暗黙の決まりごとの上に成立している。これと同じように社会における人間関係だけではなく思考、行動パターンを決める裏には無意識ではあっても確固たる深層構造が存在している。さらにこの理論的構造をもとに書かれたのが、彼の代表的著作「野生の思考」(1962年)です。この著作は文化人類学というジャンルの壁を越えて、多くの学問に影響を与える20世紀を代表する名著と呼ばれることになります。

(実存主義と構造主義)
 サルトルの実存主義においては、社会や歴史を作るのは人間の意志と行動であるとされていました。しかし、構造主義においては、人間が意識していない構造によって規定されていることになり、ヒューマニズムは過去のものと考えられます。ポスト構造主義は、この考えを否定することになります。

<構造主義を生み出した野生思考の思想家>レヴィ=ストロース
「知識人の阿片」レーモン・アロン
ビート詩人アレン・ギンズバーグが「吠える」を発表



1956年
「怒りをこめてふりかえれ」ジェームス・オズボーン初演(この劇から「怒れる若者」という呼び名が生まれた)
「パワー・エリート」チャールズ・W・ミルズ(支配の構図が政治、経済、軍部3分野のエリートたちの癒着から生まれていることを明らかにした著作。21世紀にアメリカを暴走させる軍産複合体の正体をいち早く暴露)
「もはや戦後ではない」中野好夫(文芸春秋)
バスの人種差別に対して違憲判決が言い渡される。
スエズ動乱(エジプトによるスエズ運河の国有化宣言、イスラエル軍のエジプト侵入)
ハンガリー動乱(反ソ運動に対するソ連軍侵攻、ブタペストの惨劇)



1957年
「エロティシズム」ジョルジュ・バタイユ(1897年~1962年)
 ジョルジュ・バタイユ Georges Albert Maurice Victor Batailleは、多くの哲学者が初めから天才として名門学校を出ているのに対し、自学自習で多くのことを学びながら思想家となった叩き上げの人物です。さらに彼は家庭的にも恵まれず、崩壊した状況の中で自らカトリックの信者になったという苦労した子供時代を過ごしていました。彼は国立古文書学校を卒業後、国立図書館に勤務し、そこですべての学問を身につけてゆきました。当初は小説家として作品を発表、ロジェ・カイヨワらと交流しながら人類学、社会学の分野に進出。その後、ドイツの哲学者ヘーゲルやニーチェ、マルクスなどの影響を受けながら哲学者の道を歩み始めました。
 彼は「人間性」には二つの側面があると指摘してます。
(1)生を保存し、維持するための生命活動の諸部分としての人間性
(2)呪われるべき死との関わりを求め、腐敗、汚職、不吉な領域に恐怖しながらも入り込もうとする部分(この「呪われた部分」は、悪の存在とも呼べる)
 「呪われた部分」は、地球上に「過剰」を常にもたらし、それによって社会、文明、人間は「破壊」、「消費」、「戦争」、「遊び」などにより、「死」、「崩壊」、「衰退」へと必然的に向かうと指摘。成長曲線を描く経済学は「特殊経済学」であり、「一般経済学」は崩壊へと向かう必然を見すえたものであるとも指摘しています。この指摘は、地球温暖化を止められない21世紀の地球にそのまま現れているといえそうです。

「統語構造」ノーム・チョムスキー(「言語理論の論理的構造」を書き改めコンパクトにしたもの。言語界に大きな衝撃を与えた)
ジャック・ケルアックの「路上 On The Road」発売される(書かれたのは1951年)
「ドクトル・ジバゴ」B・パステルナーク
(1958年にノーベル文学賞受賞、しかし、作家同盟からの圧力により受賞辞退に追い込まれます。原因はスターリンへの批判が描かれていたから!)
リトルロック暴動(アーカンソー州リトルロック・セントラル高校に9人の黒人学生が入学。連邦軍の護衛で登校)
公民権法成立(黒人の投票権を保証する法律)



1958年
「電子計算機と頭脳」ジョン・F・ノイマン
ワシントンで公民権運動のための大規模デモ開催



1959年
「裸のランチ」ウイリアム・バローズ
キューバ革命(カストロ首相に就任)
チベットで反乱、ダライ・ラマ氏インドに亡命



1960年代

1960年
「イデオロギーの終焉」ダニエル・ベル(1919年~)
 ダニエル・ベル Daniel Bellは、アメリカ、ニューヨークのスラム街で生まれ、図書館で本を読みながら勉強する中で社会主義者となり、ジャーナリストとなった異色の人物です。ジャーナリスト時代の体験を生かした著作「イデオロギーの終焉」(1960年)が大ヒットし、世界的な存在となりました。その中で彼はこう指摘しています。
「イデオロギーが人間を動かす時代は完全に終わった。これからは予測や計画といった技術が重要視される時代が来ようとしている」
さらに「脱工業化社会の到来」(1973年)において、彼はこう指摘しています。
「これからの社会は、政治家というよりは技術者であるテクノクラートを中心とするシビル・ポリティクスの時代である。工業化は重要な課題ではなくなり、経済は第三次産業が中心となり、知識層による管理部門が大きな役割を担うであろう」
 脱工業から情報化の時代へという未来予測は見事に21世紀を予見していたといえます。ネオコン大国アメリカの未来を見事に当てたその先見性は見事!でも、それが本当に人類のために役に立ったのか?9・11の同時多発テロ事件と2008年のアメリカの経済破綻、この二つの事件が起きてしまった後では、どんな理論にも価値が感じられないのです。
 どんな素晴らしい理論も、結局はそれを用いる人間の心の問題にかかってくるのでしょう。やはり経済学よりも教育学を優先すべきなのでしょう。やはりジョン・デューイは正しかった。

「弁証法的理性批判」ジャン=ポール・サルトル
雑誌「テル・ケル」創刊
(P・ソレルス、J・ディボードーらの編集により1960年代フランス文学をリードする)
「第一機械時代の理論とデザイン」レイナー・バンハム(デザイン評論の先駆け)
南ヴェトナム民族解放戦線設立(ヴェエトコン)
安保阻止国民運動(6・15事件)全国で580万人が参加。この際デモ隊と右翼団体が衝突し樺美智子さんが死亡。



1961年
「狂気の歴史」ミシェル・フーコー(1926年~1984年)
「狂気の歴史」(1961年)「言葉と物」(1966年)
「知の考古学」(1970年)「監視と処罰(監獄の誕生)」(1975年)
「性の歴史」(1976年~未完)
「ベルリンの壁誕生」東ドイツが東西ベルリンの境界を封鎖



1962年
「公共性の構造転換」ユルゲン・ハーバーマス(1929年~)
 ユルゲン・ハーバーマス Jurgen Habermasは、ドイツのデュッセルドルフに生まれ、ボン大学で博士号を取得しています。哲学の分野で最先端を走っていたドイツは、第二次世界大戦中、多くのユダヤ人とともに優秀な思想家をほとんど失ってしまいました。そんな中、大戦後の社会の変化を詳しく分析し続けてドイツの
哲学界をリードし続けた貴重な存在。それがハーバーマスといわれています。 彼はその代表作である「公共性の構造転換」(1982年)において、こんな内容のことを書いています。
「民主主義はかつての輝きを失いつつある。それはなぜか?」
(1)マスコミの発達や政治不信により、世論が政治に関心をもたなくなり、政治に対する影響力をもたなくなってきた。
(2)資本主義体制が進化する中、国際市場で経済を安定させるために国家が経済活動に干渉するようになってきた。
 他国に先んじるため、研究・技術開発に対し国家行政が援助する傾向が強まり、日本のようにそれに成功した国も現れます。ただし、自国の利益追求を優先する中で、社会全体、国家全体、国民全体が拝金主義へと進むようになり、自由経済とは名ばかりの民主主義とはほど遠い社会へと変質しつつあるのではないか。彼はそう警鐘を鳴らし続けました。
 確かに21世紀の世界経済はそうした利益優先の果てに大恐慌を迎えることになったといえるでしょう。

「科学革命の構造」トーマス・クーン(1922年~1996年)
 トーマス・クーン Thomas Samuel Kuhnは、ハーバード大学物理学科を卒業したアメリカの科学思想家です。もともとは量子力学の形成史を研究。20世紀前半の物理学における量子力学の誕生と発展を調査する研究者でした。しかし、その歴史的な転換期には科学全般に通じる新理論誕生のドラマがあったことに気づき、それを「科学革命の構造」(1962年)として発表します。その中で彼が指摘していたのは、下記のような内容でした。
「ものの考え方の基本的な枠組み(パラダイム)が大きく変わる時(科学革命)、人間の頭の中の枠組みもまた一新されなければならない」そして、彼はこれを「パラダイム・シフト」と呼びました。革命とは、科学的事実が積み重ねられることで少しずつ起きるのではなく、アインシュタインやパウリのような天才たちの頭の中などにおいて一気に起きるもので、その証明や実験による確認は、その後で着いてくるものにすぎないというわけです。
 当然、この考え方は科学者だけに限ったことではなかったため、彼の著作は科学界の枠を超え、世界中で読まれることになりました。この著作自体が人類の考え方に革命をもたらしたともいえるでしょう。
 「科学革命の構造」は物理を勉強していた僕が科学史に興味をもつようになってから出会った思い出の本でもあります。古本屋で見つけ、元の値段より高い金額を支払った記憶があります。それは僕が大学4年になって、科学の面白さにやっと気がついた頃のことでした。

「パラダイム」とは?
「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」
「パラダイム・シフト」がもたらすのは・・・?
「パラダイム変革が起きる時は世界自体もそれと共に変革を受ける・・・新しいパラダイムに導かれて、科学者は新しい装置を採用し、新しい土地を発見する。さらに重要なことは、革命によって科学者たちは、これまでの装置で今まで見なれてきた場所を見ながら、新しい全く違ったものを見るということである。・・・」
トーマス・クーン

「野生の思考」レヴィ=ストロース
「沈黙の春」レイチェル・カーソン(ニューヨーカーに連載開始後、単行本として発売される)
アメリカがキューバに対して海上封鎖を実施。
「キューバ危機」へと発展する。



1963年
「いわゆる悪 - 攻撃の自然誌」(邦題は「攻撃」)コンラート・ローレンツ(動物行動学の父)
「アメリカにおける人種間対立激化」
米国アラバマ州バーミンガムで人種暴動が起き、連邦軍が出動。
人種差別反対を訴えるワシントン大行進が行われ20万人が参加(マヘリア・ジャクソン、オデッタ、ハリー・ベラフォンテ、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリーらも参加)この時、キング牧師のあの有名な「アイ・ハブ・ア・ドリーム…」の演説が行われた。


人工衛星による世界同時テレビ中継開始(ケネディー暗殺事件が世界中に同時発信される)
南アフリカで、ネルソン・マンデーラ氏ら黒人指導者が逮捕される(この逮捕にはCIAが関与)



1964年
「メディアの理解 - 人間の拡張」マーシャル・マクルーハン
「社会学的思考の主要な流れ」レーモン・アロン
「されどわれらが日々」柴田翔


民主党全国大会開催
(民主党内の公民権法反対派(ミシシッピー州民主党)について、党内、白人黒人間に亀裂が生じる。黒人側の過激派誕生のきっかけとなった事件)
カリフォルニア大バークリー校で「フリー・スピーチ運動」が始まる。これはヴェトナム反戦運動など、学内での政治活動禁止に対する反発で、ここから学生運動が世界中に広まって行くことになります。


1965年
「マルクスのために」「資本論を読む」ルイ・アルチュセール(1918年~1990年)
 ルイ・アルチュセール Louis Althusserは、1918年当時フランスの植民地だったフランスで生まれています。1939年高等師範学校に合格するものの第二次世界大戦により学業を中断し、戦場へと向かいました。しかし、戦闘中にドイツ軍の捕虜となり、収容所で精神病となってしまいます。そして、この精神病は彼の人生をその後再び大きく狂わせることになります。
 1947年、彼はパシュラールの指導のもとで哲学の教授となりました。熱心なカトリック教徒だった彼は、マルクス主義との両立を目指していたのですが、再び精神病に苦しむ中で共産党に入党し、教会から離れる道を選択します。
 1965年、彼は「マルクスのために」、「資本論を読む」を発表。これらの著作は左翼が勢いをもっていた当時、多くの人に読まれ、世界中の知識人に影響を与えることになりました。彼は思想とは連続的に進展するのではなく、あるところで急激に切り替わる時期があると考えていました。(これを「認識論的切断」と呼びます)
 フーコーら多くの思想家を育てた優れた指導者でもありましたが再び精神病が悪化し、1980年自分の妻を絞殺してしまい、その後は生涯精神病院に閉じ込められる生活を送ることになってしまいます。
 熱心なカトリック教徒から共産主義者へ、そして妻殺しの精神障害者へ、振れ幅の異常に大きな人生を送ったにも関わらず、多くの行進を育てる面倒見の良さがあったのは、彼の優しさゆえのこと。しかし、その優しさが彼の精神を壊す原因となったのかもしれません。
(ふと、戦争の混乱の中で街に出てきた精神病患者たちのつかの間の物語を描いたフランス映画幻の名作「まぼろしの市街戦」のことを思い出しました)


1966年
「エクリ」ジャック・マリー・ラカン(1901年~1981年)
 ジャック・マリー・ラカン Jacques-Marie-Emile Lacanは、ポスト構造主義の哲学者であると同時にフロイトの精神分析を再評価、応用することで精神医学だけでなく哲学、人類学、文学、芸術など多方面から評価された。学位論文では犯罪性の精神病患者と面会を重ねてその病歴を分析。「人格との関係から見たパラノイア性精神病」
 彼はフロイトについての研究を進める中で「鏡像段階の理論」を発表。そこで書かれていることは、というと・・・。
 人間は、感覚器官の発達途上にある幼児期においては、手足の感覚を統一することが困難である。しかし、鏡に映る自分を見ることで、その感覚を身につけることが可能になる。このことから、自己の存在を発見することで客観的に自己を分析、認識することが可能になるのだと考えられます。それは、「現実界」から「想像界」へと人間の意識が変化、移行したと考えるとわかりやすいかもしれません。さらにもうひとつ、人間には「象徴界」という言語によって生み出すことのできる架空の世界もあると考えられます。
 彼のフロイトへのこだわりは非常に強く、最後には国際精神分析学界と対立してしまい、自らパり・フロイト派を結成しています。
 ちなみに彼の論文集「エクリ」(1966年)は超難解なことで有名だとのことです。眠れない夜には最適かもしれません。
 フロイトの影響は戦後の哲学者ほとんどに及んでいたといえますが、元々医師だった彼はより大きな影響を受けていたといえます。「遅れてきたフロイトの後継者」と呼ぶべき存在なのかもしれません。

「批評と真実」ロラン・バルト
「否定の弁証法」テオドール・アドルノ
「インダストリアリズムに関する三つのテーゼ」レーモン・アロン
「経済と文明」カール・ポランニー
「黒人解放運動の過激化」
ストークリー・カーマイケルらにより、ブラック・パンサー党設立
キング牧師に次ぐ黒人解放運動の指導者ジェームス・メレディスが狙撃される「フラワームーブメントの盛り上がり」
サンフランシスコに数千人のヒッピーが集合し、「ラブ・イン」開催
「共同幻想論」吉本隆明
中国で文化大革命始まる



1967年
「声と現象」ジャック・デリダ(1930年~2004年)
 ジャック・デリダ Jacques Derridaは、当時フランスの植民地だったアルジェリアに生まれたユダヤ人です。植民地アルジェリアで育ち、ユダヤ人であることは、当時大きなハンディーとなっていました。しかし、そうしたアウトサイダー的存在だったからこそ、西洋の哲学を客観的に分析することが可能だったのかもしれません。第二次世界大戦が終わり1949年にパリに出てきた彼は1952年、見事フランスの最高峰である高等師範学校に合格します。よほどの天才だったのでしょう。幸いにして、フランスではこの学校に入学できた者は人種の差別などなしに認められます。そこで彼は自由に哲学について研究できるようになります。
 彼が主張したのは、西ヨーロッパの哲学は、ロゴス中心主義(言葉、理性、合理性、論理性中心の考え方)に陥っていて、人間本来の「生」から離れてしまっている、ということでした。言語を論理によって説明しようとした構造主義の言語学者ソシュールの考え方もまた、ロゴス中心主義に陥っていると彼は指摘しています。こうした考え方から脱却するために、彼は「脱構築」(ディスコンストラクション)を主張しました。それは、対象物を既存の方法で分析しながらも、そこからまったく新しい手法によって抜け出そうという考え方です。
 しかし、このあたりの説明は難しすぎます・・・。ギブ・アップ!

「新しい産業国家」ジョン・K・ガルブレイス(軍産複合体として成長するアメリカの国家独占資本主義体制の告発)

「ヴェトナム戦争反戦運動激化」
 キング牧師がヴェトナム反戦を初めて主張する(それまでは、黒人は国家の防衛に参加することで平等を勝ち取ろうという意識が強かったため、反戦を支持してはいなかった)
 アメリカでヴェトナム反戦週間、ワシントンでの集会は10万人規模となる。
デトロイトなどアメリカ国内で黒人による暴動が多発、過去最大規模に発展。この後3年間で101の都市で暴動が起き、130人が死亡することになります。(この年は「長く熱い夏」と言われるようになる)

アメリカを中心とするフラワー・ムーブメントが世界中でピークを迎える。
モハメッド・アリが徴兵を拒否し、ヘビー級の世界タイトルを剥奪される。
キューバ革命の英雄チェ・ゲバラ、ボリビアで死亡。



1968年
[五月革命] ダニエル・コーンバンディを指導者とする学生と大学当局が対立。 5月3日パリ大学を学生が占拠したため学校が閉鎖され、警官隊が動員され学生600人が逮捕される。11日解放区を作るため学生たちがカルチェラタンに侵入し警官隊と衝突。ドゴール政権を揺るがす大事件となる。

<1968年という年>
「1968年がどんな年だったかを、一言で言うのは難しい。そして、1968年とは、その説明の”ややこしさ”がとても重要な意味をもつ年なのである」
「・・・1968年の大学闘争の多発は、実のところ、「70年安保の接近」とはあまり関係がない。そうであってもしかるべきところに、「様々な問題」が日本の大学には起こった。~これが、1968年の日本に大学闘争が多発した最大の理由である。・・・」
 学生達は、戦前の古い体質のままの大学の管理体制や学費の値上げ、人事の不正など、具体的な大学の姿勢に対して反抗したのであって、けっして革命が目的だったわけではなかったのだということを忘れてはならないでしょう。そうでなければ、あれだけ多くの学生を動員することは不可能だったはずです。「(東大と日大)両方の闘争に共通するものは、大学当局の”欺瞞”である。それ以上の理屈はない。だからこそ、この闘争は、多くの学生達の支持を集める。この闘争に参加した学生達にとって、すべては明確でわかりやすいのだ。・・・」 橋本治著「二十世紀」より

「アジアのドラマ」カール・G・ミュルダール
「ナット・ターナーの告白」ウィリアム・スタイロン
マーチン・ルーサー・キング牧師暗殺される。
ロバート・ケネディー暗殺される。
メキシコオリンピックで米国の黒人選手が表彰台で人種問題をアピール
「プラハの春」に対し、ソヴィエトがチェコへ侵攻し民主化の動きにストップをかける。



1969年
「差異と反復」ジル・ドゥルーズ(1925年~1995年)
 ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuzeは、フランス、パリ生まれの哲学者です。彼は、自身の代表作「差異と反復」(1969年)の中で、ジャック・デリダと同じように西ヨーロッパの哲学的思考のもつロゴス中心主義を「同一性の原理」として否定しています。ここでいう「同一性の原理」というのは、ひとつの原理から枝分かれして樹木の枝葉と幹のような形を作っている思想体系のことです。しかし、彼は、実際の人間の振る舞いや制度はそうではなく、リゾーム型を成していると指摘しています。それは、ある種の植物のように地下茎が長く張り巡らされ、絡み合っている状態のことをいいます。彼はこの理論モデルを拡張し、人間の思考だけでなく国家や企業など社会構造全般の背後にも存在しているとしています。
 フェリックス・ガタリとの共著「アンティ=オイディアス」(1972年)、「エル・プラトー」(1972年9からなる「資本主義と精神分析」によれば、近代資本主義社会は、根本のところで誤りがあるため精神的に引き裂かれ妄想にかられていると分析されています。
 要するに、西洋社会が生んだ資本主義社会は根本的なことろに誤りがあるということです。問題は、じゃあどうすれば良いのか?ということです。

「アメリカン・パワーと新官僚」ノーム・チョムスキー(アメリカの外交政策に対する批判の書)
東大安田講堂に立てこもっていた左翼の学生たちが退去させられる。
全米各地でヴェトナム反戦行動(ピース・ナウ)が高まりを見せる。
インディアンによるアルカトラス島占拠事件発生(米)
ブラック・パンサーによるシカゴ警察襲撃事件発生。
チャールズ・マンソンによるシャロン・テート殺害事件発生。
NYのゲイ・バー「ストーン・ウォール」でゲイによる暴動が勃発。
(70年代に始まるゲイ革命のきっかけとなる)
アポロ11号、月面着陸に成功。
「<意識>と<自然>」柄谷行人



1970年代

1970年
「世界の貧困からの挑戦」カール・グンナール・ミュルダール(1898年~1987年) カール・グンナー・ミュルダール Karl Gunnar Myrdalは、世界の貧困と差別の問題に本格的に取り組んだ最初の経済学者といわれています。(え!じゃあ、それまで誰もやっていなかったんですか!)
 スウェーデン出身の彼は経済学を現場の視点から見つめ直そうと、1960年代に東南アジアでフィールドワークを行い、発展途上国の現状を自分の目と耳で確認。そこから彼は、東南アジアの貧困問題は、地域社会に伝統的に根付いている非合理的な社会構造によるものであると考えるに至ります。その研究をもとに「アジアのドラマ」(1968年)、「世界の貧困からの挑戦」(1970年)を発表。
 その後、彼は先進国における差別の問題にも視線を向け、アメリカにおける黒人差別の現状を調査し、「アメリカのディレンマ - 黒人問題と近代民主主義」(1944年)を発表。その後、第三世界の現状を調査した後、再び公民権運動で盛り上がるアメリカを取材し「アメリカのディレンマ 再見」(1973年)を発表しています。彼はこうして現地を実地調査しながら研究を行いながら、卓上の空論作りにはげむ経済学者たちを批判。
「経済学に道徳的性格を取り戻さなければならない」と主張しました。そして、それまでの経済学を批判した書「反主流の経済学」(1973年)を発表しました。
 経済学は、社会のためにどうすれば役に立てるのか?彼は具体的にそのことを研究。第三世界の国々が経済的に苦しむ原因を正しく分析することは、問題解決のために最も重要なこととして「現状把握」に力を尽くしました。しかし、こうした取り組みは社会が日々変化している現在、常に更新され続けなければならないことです。(残念ながら、金儲けの研究が経済学じゃないことを証明した数少ない経済学者ということなのでしょう)

「社会学の再生をもとめ」アルヴィン・グールドナー
「知の考古学」ミシェル・フーコー
アメリカを中心にウーマン・リブ運動活発化
ナイジェリアにおけるビアフラ内戦が終結
「今もし、ビアフラが人類史の小さな脚注になるのなら、その脚注にはこう書くがよい・・・<彼らは世界に対して、アフリカで最初の近代的な政府を与えようと試みた。彼らの試みは失敗に終わった>」
ビアフラ共和国 エフィオング将軍 カート・ヴォネガット著「ヴォネガット、大いに語る」より



1971年
「構造・安定性・ゆらぎ - その熱力学的理論」P・グランスドルフ、イリヤ・プリゴジン
「生きのびるためのデザイン」ヴィクター・パバネック
「自由の国にて」V・S・ナイポール(ブッカー賞受賞)
「甘えの構造」土居健郎
ドル・ショックにより、国際通貨不安が高まる



1972年
「精神の構造学」グレゴリー・ベイトソン(人類学、精神分析学、進化論、エコロジーなど、多彩な内容を持つ大著)
「アンティ・オイディプス」「ミル・プラトー」ジル・ドゥルーズ
ウォーターゲート事件発覚
ミュンヘン・オリンピックでアラブ・ゲリラによるテロ事件発生
ローマクラブ報告書が「成長の限界」を発表
ストックホルムで開催された国連人間環境会議で人間環境宣言発表
日本赤軍による浅間山荘事件発生



1973年
「脱工業社会の到来」ダニエル・ベル
「反主流の経済学」「アメリカのディレンマ再見」カール・G・ミュルダール「メタヒストリー - 十九世紀ヨーロッパにおける歴史的想像力」ハイデン・ホワイト

<1973年という年>
 
1973年はオイルショックの年である。「10月6日エジプトとシリアの軍隊はイスラエルに対する攻撃を開始した。第四次中東戦争の勃発である。1967年の第三次中東戦争で負けたアラブ側は、自分たちが輸出する石油を武器として、イスラエルを支援する国の首を締め上げてやろうという作戦に出た。・・・」 橋本治著「二十世紀」より


1974年
「マルクスその可能性の中心」柄谷行人
ウォーターゲート事件により、ニクソン米国大統領辞任
ノーベル文学賞作家ソルジェニーツィン氏、ソ連追放


<1974年という年>
「1974年は、立花隆の『田中角栄研究 - その金脈と人脈』という文章によって、田中角栄が総理大臣を辞任した年である。アメリカでは、ウォーターゲイト事件によって、リチャード・ニクソン大統領が辞任に追い込まれている・・・」
「日本の政治記者と政治家は、それまで"仲間内"同然のようなものだったから、政治記者達には、政治家の不明朗を国民という”外部”に伝える気がなかったのかもしれない。そしてまた、立花隆のレポートも、「政治家の資産形成の不明朗」という、それまで”常識”として見逃されてきたことを詳細に伝えてしまったという点において、前例がないようなものだった。・・・」橋本治著「二十世紀」より


1975年
「タオ自然学 - 現代物理学と東洋神秘主義の間の並行関係の探究」フリッチョフ・カプラ(ニューエイジ・サイエンスの代表作)
「監視と処罰 - 監獄の誕生」ミシェル・フーコー
「道化の民俗学」山口昌男
ハンナ・アーレント(思想家)死去
サイゴン陥落、ヴェトナム戦争が終結



1976年
「見えざる革命」ピーター・ドラッカー(1909年~2005年)
 ピーター・ドラッカーPeter Ferdinand Druckerは、オーストリア政府の高官だった父親とフロイトの講義を聞いて医学を学んだ母親のもと、ウィーンで生まれました。1933年に発表したユダヤ人哲学者ユリウス・シュタールについての論文「フリードリッヒ・ユリウス・シュタール - 保守政治理論と歴史的展開」がナチスににらまれたことから、ヒトラーの政権掌握を機にロンドンに移住。その後、アメリカに渡った彼は、1939年「経済人の終焉」を発表。ナチス・ドイツによるホロコーストを予告したこの著作はヨーロッパに衝撃を与えました。

「産業人の未来」(1942年)より
 「かつて、商行為を行うことで経済活動を行っていたヨーロッパ経済の時代は終わった。これからは産業社会の時代である」(「商行為」とはヨーロッパがかつて黄金時代を築くきっかけとなった貿易活動のこと。「産業活動」とは、物を動かすのではなく、それを作り販売すること)

「新しい社会 - 産業秩序の解剖」(邦訳「新しい社会と新しい経営」)(1950年)より
 「産業社会」の基本単位となる大企業は、単なる経済機能の担い手であるだけでなく、統治機能・社会機能をもつ単位でもある。そこでは企業の利潤は新しい意味をもち、経営者と労働組合の関係も対立するだけのものではない。

「見えざる革命 - いかにして年金基金社会主義はアメリカにやってきたか」(邦訳「来るべき高齢化社会の衝撃」)より
 アメリカにおいて被雇用者による年金制度が量的にも、質的にも発展し、その基金がアメリカの全産業の3分の1を所有し、なお増大しつつあることを指摘。これは年金基金社会主義と呼ぶべき状況である。年金の運用することで成り立つ社会は、生産活動を行うわけではない。その運用を間違えば一気に社会は破綻する。これが2008年に起きることになります。
 「年金社会主義」という言葉は、年金システムが崩壊しそうな現在のアメリカの状況をみるとよくわかります。あのGMが国営になった21世紀のアメリカと社会主義諸国、中国やロシアの差はほとんどなくなったように思えます。

リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」(邦題「生物=生存機械論」)を発表
周恩来、毛沢東死亡、四人組追放事件
天安門事件発生
ロッキード事件発生、日本の政界を揺るがす(田中角栄逮捕)



1977年
「不確定性の時代」ジョン・ケネス・ガルブレイス(1908年~2006年) ジョン・ケネス・ガルブレイス John Kenneth Galbraithは、20世紀後半を代表するアメリカの経済学者です。彼は代表作「新しい産業国家」(1967年)の中で、アメリカの経済は、産業の高度化にともない新しい局面に入ったと指摘しました。

(1)企業間の競争は、かつては価格競争とイコールだった。しかし、現在では科学、技術の競争に移行している。科学技術による革新は、価格の価値以上に商品の価値をかえしてしまいます。(アナログTVから地デジTVへの変化は価格的に高くなる方向ですから、まさに好例といえるでしょう)

(2)かつて市場は不確定なものという前提に基づいて経済活動が行われていた。しかし、現在はそれを予測するだけでなく管理することも可能になり、「需要の計画化」や「価格管理」が常識になっている。(流行色の選定はまさにその象徴的な例です)

(3)企業における意志決定は、一人のトップにゆだねられるのではなく、テクノストラクチャーと呼ばれる専門家集団が担うことになりつつある。このことは、国家レベルの意思決定にもあてはまる。(アメリカは軍産複合企業のトップと高級官僚、それにネオコンなどのコンサルタントたちによって運営されるようになった。21世紀オバマさん、どうか?)

 近代の経済学は、「消費者主権」を自明のこととして成立しています。しかし、消費者の購買意識は、今や宣伝や販促のテクニックによって操ることができるのです。「作り出された消費欲望」=「依存効果」、これは自明の存在となりました。さらに経済学において、自明のものとされている「自由市場においては社会的バランスが機能する」という考え方も、「資源」が公的部門ではなく、依存効果の影響を受けやすい私的部門に集中してしまい、アンバランスが生じるはずと、彼は指摘しています。(実際、世界の南北格差を見れば、そうなっているのは明らかです)
 彼はこうしていち早く自由市場経済の不備を指摘しましたが、結局アメリカは自国の利益(いや正確には経営者個人個人の利益というべきでしょう)のみを優先してその方向性を変えず、21世紀に入り自ら破綻してしまうことになります。(聖書にあるとおり、欲深きものは必ずや滅びるのです)
 彼は、同じアメリカの経済学者ヴェブレンの考え方をさらに時代に合わせて具体的に展開しました。しかし、こうした優れた理論も、結局それを使う人間によっては大きな利益を生む手段にしかならないわけです。

「散逸構造 - 自己秩序形成の物理的基礎」G・ニコリス、イリヤ・プリゴジン
「個体発生と系統発生 - 進化の観念史と発生学の最前線」スティーブン・J・グールド(発生学、生態学、形態学、進化思想史の専門書)
「ダーウィン以来」スティーブン・J・グールド(進化論の入門書として大ヒットした一般向けエッセイ集)
「ポスト・モダニズムの建築言語」チャールズ・ジェンクス(ポスト・モダン・ブームの先駆となった著書)
「ルーツ」(奴隷の歴史からのアメリカの黒人史を描いた大河ドラマミニ・シリーズ)



1978年
「オリエンタリズム」エドワード・W・サイード(1935年~2003年) エドワード・サイード Edward Wadie Saidは、1935年イスラエルの首都エルサレムに生まれたアラブ系の思想家です。しかし、彼の父親は国際的に活躍する銀行マンだったため、14歳までは英語を使用する学校に通っており、西欧文明で成長しました。そのうえ、彼はイスラム教徒ではなく、イギリス国教会の信者(キリスト教徒)であったため、非常に特殊な人生を歩む運命を背負っていたといえます。
 1978年、彼は時代を象徴する著書「オリエンタリズム」を発表します。そこで彼が指摘したのは、・・・。
「欧米人は、主観的には中立かつ客観的であると考えているけれども、彼らは気付かぬ間にヨーロッパ的偏見にとらわれている」
 そして、彼はこうした偏見を「オリエンタリズム」と名づけました。西欧に住むアラブ人としての立場から欧米批判を展開する貴重な存在となりました。こうして、西欧人がもつ偏見を指摘でき、それが説得力を持ちえたのは、彼がキリスト教徒のアラブ人だったからでしょう。そう考えると、2009年アメリカ大統領に就任したバラク・オバマ大統領もまた子供時代はイスラムの国インドネシアで育っており、キリスト教徒ではあってもイスラム教徒を知る初めてのアメリカ大統領となりました。もしかすると、100年後の世界は彼が黒人だあったことよりも、イスラム教徒を知る人物であったことに感謝することになるのかもしれません。是非、そうなってほしいものです。

東和平キャンプ・デービッド会談開催(米、エジプト、イスラエル)
毛沢東批判の壁新聞現れ、近代化路線へ
イギリスで世界初の体外受精児(試験管ベビー)誕生



1979年
「ポスト・モダンの条件 - 知・社会・言語ゲーム」ジャン=フランソワ・リオタール(ポスト・モダニズム思想の招来を告知した書)

「地球生命圏」ジェイムズ・E・ラブロック
地球の全生命圏、すべての生き物は、大気や海、土壌となって、生命圏を存続させるための巨大なシステムを形成している。地球という惑星は、ひとつの巨大な生命体と考えるべきである。

エズラ・ヴォーゲル「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」発表される
小説「風の歌を聴け」で村上春樹デビュー
フランスの哲学者ジャンポール・サルトル死去
スリーマイル島放射能漏洩事故発生
イラン革命、ホメイニ氏によるイスラム教主導の政権へ



1980年代

1980年
「パンダの親指」スティーブン・J・グールド
「自己組織化する宇宙」エリッヒ・ヤンツ
「主体性の進化論」今西錦司
「薔薇の名前」ウンベルト・エーコ(記号学の大家が生み出した娯楽推理小説)
「ガープの世界」ジョン・アーヴィング
24時間ニュースを配信する衛星放送CNN放送開始
イランのアメリカ大使館占拠事件とソ連のアフガニスタン侵攻
イスラム過激派の指導者ホメイニ氏の登場
イラン・イラク戦争
モスクワ・オリンピックのボイコット問題



1981年
アメリカにおいて、初のエイズによる死者が確認される(ニューヨーク・タイムスがエイズ問題を初めて大々的に報道)
「全東洋街道」藤原新也



1982年
「フラクタル幾何学」ブノワ・マンデルブロ(「フラクタル」とは「不規則な断片」のこと。自然界に存在する不規則な現象と定量的かつ厳密に考えるために考察された手法)
「公共性の構造転換」ユルゲン・ハーバーマス
ガルシア・マルケス、「百年の孤独」でノーベル文学賞受賞
アメリカ、西ドイツなどで、反核運動が本格化する
米ソ戦略兵器削減交渉(SALT)開始



1983年
西ドイツで「緑の党」が27議席を獲得(反核、環境保護運動から生まれた政治団体)
「構造と力 - 記号論を超えて」浅田彰
「チベットのモーツァルト」中沢新一
「メメントモリ」藤原新也



1984年
「混沌からの秩序」I・スタンジュール、イリヤ・プリゴジン
「複雑性の科学」としての熱力学がゆらぎから生まれる秩序としての自己組織化を生む。これが生物と無生物の境界線である。
「性的差異のエチカ」リュス・エチカライ(フランス・フェミニズムを代表する女性の代表作)
「存在の耐えられない軽さ」ミラン・クンデラ
「愛人(ラ・マン)」マルグリット・デュラス
宮崎駿「風の谷のナウシカ」がヒットし、宮崎駿時代が始まる。
大友克洋「アキラ」コミック発売日本から海外へブームが広がる。



1985年
映画「ショアー Shoah」クロード・ランズマン監督作品(ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を記録した約9時間のドキュメンタリー)
映画「未来世紀ブラジル」(監)テリー・ギリアム(ブラック・ユーモアを超えた反体制SF悲劇)
ゴルバチョフによるペレストロイカ、グラスノスチ政策が始まる。



1986年
「探究Ⅰ」柄谷行人
フランスの女流作家、シモーヌ・ド・ボーヴォワール死去

チェルノブイリ発電所で爆発事故発生
 1986年の4月26日、ソ連のテルノブイリ原子力発電所が爆発事故を起こした。「チェルノブイリの原発事故は、その深刻さゆえに、保守派の介入を一時的に抑えた。ゴルバチョフはペレストロイカ(再建)を公然と推し進め、そして”終わり”もやって来るのである」

「二十世紀最大のどんでん返しは、その初めに『進むべき正しい道』と信じられていた社会主義が『進歩を阻む保守派』となってしまったのである」
円相場が高騰、バブルがピークを向かえる。



1987年
「ハイデガーとナチズム」ヴィクトル・ファリアス
ロスアラモス研究所で第一回人工生命会議開催
アメリカの株式が86年に続き大暴落(ブラック・マンデー)
ソ連でペレストロイカ(改革)が本格化
国連人口白書、世界の人口が50億人を越えたことを発表



1988年
「フーコーの振り子」ウンベルト・エーコ
 1980年に始まったイラン・イラク戦争が停戦となる。(犠牲者は100万人以上に達した)

「サダム・フセインは社会主義者ではない。彼にとって重要なのは、支配者として自分の地位を守ることであり、近隣アラブ諸国の中における自国の優位を達成することだった。自分の支配体制を危うくするようなシーア派原理主義も、社会主義も、彼には必要がない。彼に必要なものは、自分=自国の優位を飾る「民族主義」という言葉だけなのだ。・・・」
こうして「1988年にイランは負け、翌年ホメイニ師は死ぬ。支持されて勝ったフセインは、1990年にクウェートへと侵攻し、翌年の湾岸戦争へと至る。・・・」 橋本治著「二十世紀」より


1989年
「同世代人の見た中世ヨーロッパ」アロン・グレーヴィチ
ベルリンの壁撤去が始まる(東、西ドイツ)
学生による民主化要求デモ多発、天安門事件発生
ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞
オゾン層を保護するためのロンドン国際会議開催(フロンガス全廃へ世界が動き出す)
ブラジル「われわれの大自然計画」発表



1990年代

1990年
「遅ればせの革命」ユルゲン・ハーバーマス
「サムライたち」ジュリア・クリステヴァ(バルト、デリダ、ソレルス、フーコー、アルチュセールなどフランスの文芸人たちをフィクション形式で描写)「ニューメディアの理論」ノルベルト・ボルツ
ドイツが東西統一を達成する(西ドイツによる東ドイツの吸収)
ポーランド大統領にワレサ氏が就任
ロシア大統領にゴルバチョフ就任、市場経済への移行を宣言
同ゴルバチョフ大統領がノーベル平和賞を受賞



1991年
「ライティング・スペース - 電子テキスト時代のエクリチュール」ジェイ・D・ボルター
イラク・米国の「湾岸戦争」勃発、多国籍軍による「砂漠の嵐作戦」開始
南アフリカのアパルトヘイト体制が終結
ミャンマーの民主運動家、アウンサン・スーチー女史がノーベル平和賞を受賞リーナス・トーバルズがLinuxカーネルをリリース



1992年
「歴史の終わり」フランシス・フクヤマ
ロス・アンジェルスで黒人暴動発生
国連平和維持活動(PKO)法案成立


<1992年という年>
 1992年という年は「バブルがはじけた」と言われることになる年である。「・・・多くの平均的日本人は、『そもそも自分はバブル経済なんかとは関係がなかったんだ。自分は、バブルなどという下品なものとは無関係に、自分の豊かさを確保したのだ』と思うようにもなった。そうして、『バブルがはじけた』という言葉の意味が自分たちの上にのしかかってくることを回避しようとした。だからこそ、1990年代の日本の惨状はあり、1992年の日本の『相変わらずさ』もあるのである」
「・・・その以前は別として、1972年に総理大臣に就任した田中角栄以来、この日本にまともな総理大臣は、何人いたのだろうか?彼らが日本経済をバブルへと導き、その破綻の以後もまた、政権を掌握し続けるのである。この相変わらずさに対して、日本人は、ただうんざりだけだった。もちろん、うんざりする人間以上に、『それでかまわない』と、政治のあり方を肯定する人間達が多いから、日本の政治は『相変わらず』のままなのである。・・・」 橋本治著「二十世紀」より


1993年
「グーテンベルク銀河系の終焉」ノルベルト・ボルツ
「文化と帝国主義」エドワード・W・サイード



1994年
アイルランド共和国軍、停戦宣言発表でアイルランド紛争休止(1995年まで)
ネルソン・マンデーラ氏、南アフリカ大統領に就任
「もの食う人々」辺見庸



1995年
ジル・ドゥルーズが投身自殺
<1995年という年>
 1995年の日本を語るものは、阪神淡路大震災とオウム真理教である。
「1980年代には、宗教ビジネスとしての順調な発展を遂げ、それがバブル経済の終焉と共に壁にぶつかり、自身の手で『破滅への道』を秘かに選択していたということ。サリン製造や武器の密造は、『世界は滅んでも自分たちは生き残るーそのことを実証するために、強引にでも世界を滅ぼす』という無茶苦茶な構想の中から登場してきたものだということが、人にようやく理解される。がしかし、その構図が分かっても、『なぜそんなバカげたことを?』の根本は分からない。・・・」
「・・・1960年代末の『大学闘争』を経過して、大学は平静になった。豊かさへ向かう『日本株式会社』の一員となるためのパスポート発行所となった大学に、もう”思想”はなかった。・・・大学生は『バカ』と言われるようなものとなり、そこで『生きる』ということを考えようとする者に残されていたのは、新興宗教だけだった。『生きる』ということを考えること自体が、『新興宗教』と言われるような事態がやってくる。・・・」
「・・・事件が発生した時、『オウム信者の大半は三十代の人間で、高学歴を誇る優秀な人間達だ』と言われた。それはつまり、1980年代に大学生であった人間達の不幸を語るものでもある。
 彼らは、時代の被害者でもあった。そして、被害者であることを前提にして、彼らは不穏な加害者となった。そうであることを自覚できないまま、彼は時代の被害者、破綻は訪れた。・・・」 橋本治著「二十世紀」より


1996年
「文明の衝突」サミュエル・P・ハンティントン(1928年~2008年) サミュエル・P・ハンティントン Samuel Phillips Huntingtonは、ニューヨーク生まれの国際経済学者。ハーバード大学の教授を経て、アメリカ政府の国家安全保障会議で安全保障政策担当のコーディネーターもつとめた実地派の文明学の専門家。
 1990年、ロシア、共産圏の崩壊について、彼はこう述べています。
「イデオロギーの対立は終わったが、人類の対立、紛争が終わったわけではない・・・・・世界にいくつか存在する文明、多くの領域が絡み合った<文明>というものが正面に出てきて、これからは地球上の文明間で紛争が起こる」
「イスラム文明と儒教(中国文明)は内心では決して欧米文明の優位を承認しておらず、いつかイスラム=儒教の両文明の同盟が欧米文明に正面から突っかかってきたとき、世界は大変な危機に見舞われるだろう」
 この予見は見事、2001年9月11日に現実化することになりましたが、彼は日本文明に両文明の融和役を勤めるよう期待しています。彼の働きを考えると、ある意味、哲学もまた国際政治の道具になってきたといえます。それが人類の平和の役に立てばよいのですが、・・・。結局、どの大統領がどんな目的のために使うかによって、学者が変わってしまうだけなのかもしれません。


1997年
地球温暖化防止京都会議開催
<1997年という年>
 1997年8月、タイの通貨バーツが暴落。その後香港の株式市場、ニューヨークの株式市場へと飛び火し、日本、韓国も含め、アジア全体が経済恐慌にみまわれる。
「二十世紀最末葉の地球上には、『金貸し』と『金を借りる必要のない人』と『金がなくて困っている人』の三種類がいて、しかも『金がなくて困っている人達』は、金を借りたくても返すあてがないから、借りることができない。そうなったらどうなるのか?つまりは、金貸しの失業である・・・」
「借りる能力のある人間は、もうそんなにいない。しかい、貸す側には、莫大な資金がある。その資金はどこから来たのか?それは、19世紀帝国主義から続く、二十世紀資本主義の”遺産”なのである」
「世界には資金の需要があって、そこに貸した金は必ず大きな利潤を得て戻ってくるーそれが帝国主義の19世紀から20世紀まで続いた世界経済である。そうして、世界は豊かになった。・・・しかし、二十世紀の最後になって、もう投資の先はなくなってしまった。だからこそ、あまりにも巨額な資金が、『損だけはしないように』という計算式に基づいて、世界中をうろつき回り、経済そのものを混乱させるのである。それが、1990年代に歴然としてしまった経済の形なら、もう我々には、「経済」というものを考える必要がないのだ。そこで考えられるべきことはただ一つ。『まじめに働いている人間の生活を脅かす経済不安を作り出すような、ヘッジファンドを取り締まれ』だけである」 橋本治著「二十世紀」より


1998年
エルニーニョ現象により異常気象発生、世界の気温が観測史上最高となる。
地球温暖化防止ブエノスアイレス会議



1999年
NY株初の1万ドル突破、アメリカの好景気が本格化
コロラド州の高校で武装した生徒による無差別殺戮
「日の丸」「君が代」法制化、国旗国家法成立


<1999年という年>
 1999年は「民族問題の年」でもあった。
 ユーゴスラビアのコソボ自治州では、セルビア人によるアルバニア系住民の虐殺が行われていて、1999年には「NATO空軍による爆撃」という事態になった。この年のもうひとつの「民族紛争」は、インドネシアからの東ティモールの独立である。
「二十世紀は、19世紀以来の帝国主義の影を曳いていた。帝国主義はまた、それ以前の長い人類の歴史から生み出された歪みだった。それを克服するために、「二十世紀一杯」という時間が必要だったーそれを教えるのが、東ティモールとユーゴスラビアの『民族問題』でもあろう。その問題が起こるということは、『長い間の歪みが、やっと解決の方向へ進み始める』ということでもあるのだ。既に『解決済み』と思われていた問題を、改めて『正式なる解決』へ導くには、やはり血が流されなければならないのかもしれない。・・・」 橋本治著「二十世紀」より


2004年
「抵抗論 国家からの自由へ」辺見庸
「街場の現代史」内田樹



2009年
「今、ここからすべての場所へ」茂木健一郎


2012年
「社会を変えるには」小熊英二


2014年
「歴史家が見る現代世界」入江昭
「人類が永遠に続くのではないとしたら」加藤典洋



2015年
「21世紀の資本」トマ・ピケティ


<最後に:マルクスと柳谷先生>

 マルクスは19世紀の人間です。しかし、彼の書き上げた「資本論」と共産主義の思想ほど20世紀の社会に影響を与えた思想はないでしょう。特に、1917年、革命によってマルクス主義を理想とするソビエト連邦が成立すると、世界中の思想家はその影響を受けることになりました。さらに1960年代、世界中の若者たちが既成概念の破壊を求めていた時代、マルクス主義はその中心的思想だったといえます。
 1980年代のソ連崩壊により、その考え方の根本的矛盾が明らかになりますが、それでもなお、ソ連とは別の路線を選んだ中国やキューバは21世紀もなお元気です。映画「未来世紀ザルドス」の未来世界にマルクス型?乗り物が登場していますが、けっしてありえないことではないかもしれません。

 僕が小学生の時、新任の先生から習ったソ連という国の社会主義体制は素晴らしいものでした。それは1960年代の終わりのことでした。後に先生はその頃の授業について、「悪かった」と後悔していたといいますが、確かに僕らはすっかり社会主義の理想にはまっていました。しかし、僕は当時班での活動を重視する先生の授業がきゅうくつでしかたがありませんでした。そのため、僕は卒業式の日、全然寂しくなくて、やっと自由になれると喜んでいたことを今でも憶えています。

 そう思っていた生徒は他にもいたようです。小学生ですら、東大の安田講堂でおきていた大学生と機動隊の闘いを見ながら手に汗握っていた時代、1960年代は誰もが熱く燃えていました。しかし、それは一方では自由が狭められた窮屈な時代でもありました。
 ただし、そんな窮屈な思いとは別に、僕はその先生が大好きでした。先生が授業中に、映画「バニシング・ポイント」面白かったぞ!と熱く語っていたことは今でも覚えています。その後、僕は「バニシング・ポイント」をテレビで見て感動。ニューシネマの映画たちを深夜テレビの映画劇場で次々に見たものです。
 考えてみると、このサイトが生まれたのも、そんな先生の口癖だった「何でも見てみろ!でも疑うことは忘れるな!」から始まったのかもしれません。小学生の頃から、僕はそうやって何でも見て聞いて体験してやろうと思いながら生きてきました。そうでなければ、ここまで多くの映画や音楽や本、芸術作品の数々と出会うことはなかったでしょう。

 改めて、僕の小学校時代の担任だった今は亡き柳谷先生に感謝したいと思います。ありがとうございました!


(出典)ポップの世紀

出典 社会科学者の随想
防衛費(軍事費:国防予算)が「人を殺す予算」でないなどと,理屈で説明できる者はどこにもいない, 奇妙奇天烈なやりとりがなされる日本の政界の奇怪さ (PDF保存版)

広島の神話 責任を負わない戦争犯罪とアメリカ軍の歴史の嘘 医学博士 ゲーリー・G・コールズ

Global Research 2013年7月31日

広島
 来る2013年8月6日、火曜日は広島爆撃68周年だ、戦争に疲弊したアメリカ人が、10日後に戦勝を祝って以来ずっと、その全ての真実は、厳しく検閲され、神話化されてきた。

 創造性のない/退屈な歴史の先生方(大半、スポーツだけは得意な連中に思えた)に教えられたつまらない歴史の授業、戦時に、イギリスとアメリカ軍がしたこと全て高潔で献身的で、敵がするあらゆることは残忍だという愛国的で、しっかり検閲された教科書のおかげだった。26人の同級生全員が、アメリカ歴史教科書の戦後プロパガンダを鵜呑みにした。我々が対日戦争“名誉の”終結を学んだのはこうした教科書からだ。

 もちろん、今の私は、ダグラス・マッカーサー将軍を先頭に、戦争を正当化する軍国主義者連中(そして雑多な愛国心過剰の歴史家達)が練り上げた、偽りの情報を与えられていたことを知っている。マッカーサーは、原爆爆発の真下の地面で実際一体何が起きたのかについて、見事に完全な検閲を課した。日本総督の地位についた後、彼の最初の行動の一つは、広島と長崎の原爆の恐ろしさを記録する全ての写真証拠没収し、および/または、破壊することだった。

 かつて1995年、スミソニアン博物館は、原爆投下に関する率直で、歴史的に正確な展示を見せることで、約50年間の似非愛国神話を修正する準備をしていた。(スミソニアン博物館に対する連邦の財政援助を止めると脅したニュート・ギングリッチの共和党が支配する議会を含め)右翼の退役軍人団体や、他の愛国団体から発せられる猛烈な、組織化された、反動的な激しい怒りを受けて、スミソニアンは、文脈上重要だが、不快な部分を全て削除することを強いられた。

 かくして、またもや我々は、国家指導者に対する、一般的アメリカ人の信頼を揺るがせる可能性がある“愛国的でない”歴史的真実が暴露されるのを恐れたがゆえに、政治的動機に基づく団体が、本当の歴史を大きく書き換えるというもう一つの例を得ることになった。

 何千人もの無辜の人々が亡くなった、2001/9/11のワールド・トレード・センター・ビル三棟の制御解体や、アフガニスタンの無辜の国民に対して、戦端が開かれたことに対する、ある種ほぼ完全なマスコミ報道管制のようなものだ。
(これを主張する文書は以下を検索されたい。 www.ae911truth.org)

1945年8月9日の長崎


 もちろん、スミソニアンの歴史家達は頭に銃を突きつけられていたのだが、大混乱の中で、大企業が支配する大手マスコミも、それゆえ一般大衆も、重要な歴史的観点を学び損ねた。

 それは、こういうことだ。戦争は、夏の原子爆弾無しに、1945年春に終わっていた可能性があり、それゆえ沖縄での何千人ものアメリカ海兵隊員や兵士達の大量戦死者もなかった可能性がある。
 国際戦争犯罪と、人類に対する犯罪の定義に合致する、無防備の民間人に対する原子爆弾投下を正当化した、それに続いた宣伝攻勢の根拠である、アメリカの日本本土侵攻も必要性など無かったのだ。

 アメリカ諜報機関は、トルーマン大統領政権もそれを全て把握していたのだが、トルーマンが、広島を焼却するという運命的な命令を下す何ヶ月も前に、日本が名誉ある降伏の方法を必死に探し求めていたことを知っていた。

 1980年代に明らかにされた諜報データは、アメリカの大規上陸という緊急対応策(1945年11月1日より後の時期に予定されていた)が不要だったことを示している。日本は、1945年4月という早い時期から、駐モスクワ日本大使経由で和平交渉工作をしていた。
 アメリカは、日本の暗号を何年も前から解読しており、日本の全ての軍・外交メッセージは傍受されていたので、トルーマンは、こうした進展を承知していた。
 1945年7月13日、東郷外務大臣はこう述べていた。“無条件降伏(あらゆる主権の放棄、特に天皇退位)が唯一の和平への障害である。”

 トルーマンと顧問連中は、こうした取り組みを知っており、日本では神と見なされていた天皇裕仁に、戦後、単純に、名目上の首長の地位を認めるだけで、戦争は外交によって終わらせられたはずなのだ。
 この妥当な譲歩は、見たところ、不合理にも、 ルーズベルトとチャーチルとの1943年のカサブランカ会談で最初に要求され、トルーマン、チャーチルとスターリン三人のポツダム会談でも繰り返された、無条件降伏の為の要求の中で、アメリカに拒否された。それでも、日本は交渉による名誉ある平和を求め続けていた。

 ヘンリー・スティチムソン陸軍長官はこう述べている。“本当の疑問は、原爆を使用せずとも降伏が実現できたか否かではなく、別の外交的・軍事的な進路が、より早期の降伏をもたらしたか否かだ。
 日本閣僚の大半は、1945年春に、最終的に合意したものと実質的に同じ条件を受け入れる用意があった。”言い換えれば、スティチムソンは、アメリカは不必要に戦争を長引かせたと感じていたのだ。

 日本が降伏した後、マッカーサーは、屈辱的な“無条件降伏”の条件受け入れを拒否させるよう日本指導部に強要したまさにその条件、日本の精神的な象徴として、天皇の在位を認めたのだ。

 そこで下記が、舞台裏で起きていたこと理解する為に、解答が必要な重要な二つの疑問だ。
 一体なぜアメリカは、日本の降伏(天皇の維持)に関する、日本の唯一の要求を受け入れることを拒否したのか
そして
 太平洋における勝利は既に確実だったのに、一体なぜ原子爆弾が使用されたのか?
 第二次世界大戦後直ぐに、軍事アナリストのハンソン・ボールドウィンは書いている。
“ポツダム宣言(日本の無条件降伏を主張する)が出された1945年7月26日頃には、日本は、軍事的な意味で、戦略的に絶望的な立場にあった。”

 トルーマン大統領の最高軍事顧問ウイリアム・リーヒー海軍大将は、その戦争回顧録、「I Was There」(私はそこにいた)でこう書いている。

“この残忍な兵器を広島と長崎で使用することは、対日戦争における物質的支援にならないというのが私の意見だった。効果的な海上封鎖と、通常兵器による爆撃の成功のおかげで、日本は既に敗北し、降伏する構えだった。私自身の感覚は、最初の使用者となることにより、暗黒時代の野蛮人と共通の倫理規範を採用してしまったとというものだ”

 ドワイト・D・アイゼンハワー将軍も、爆撃の数週間前の個人的なトルーマン大統領訪問で、原子爆弾は使わぬよう勧めていた。アイゼンハワーはこう語っている。(1963年のニューズウイーク・インタビュー):

“連中をあの恐ろしいもので攻撃する必要はなかった... [交渉]しようともせずに、民間人を殺害し、おびえさせる為、原子爆弾を使用するのは二重の犯罪だ。”

 原爆を使用するというトルーマン政権の決断に貢献した多数の要素があった。
1) アメリカは、三発の爆弾製造に、膨大な時間と人力と資金(1940年のドル価格で20億という途方もない額)を投入しており、勢いを止めようという気持ちも根性も皆無だった。

2) アメリカの軍・政治指導部は、多数の一般のアメリカ人同様、真珠湾のおかげで、復讐の意欲に燃えていた。アメリカ軍と、戦争に疲れた国民の頭の中に、慈悲は存在せず、対広島・長崎作戦は、出来事の、好ましくない部分が削除された、国家安全保障版の説明しか知らない人々の大半によって、何の疑問も出されること無しに容認された。

3) 広島原爆の核分裂物質はウランだった。長崎原爆はプルトニウム爆弾だった。科学的好奇心は、計画を完了まで押し進めた極めて大きな要素だった。マンハッタン計画の科学者達(そして、アメリカ陸軍の計画指揮者レズリー・グローヴス将軍)は“もし都市が丸ごと一発のウラン爆弾で破壊されたら一体何がおきるだろうか?”“プルトニウム爆弾ではどうだろう?”ということに好奇心を持っていた。
 二発の原爆を使用するという判断は1945年8月よりずっと前になされていた。科学実験を推進するためには、日本の降伏を受け入れるという選択肢はありえなかった。
 もちろん、もし広島への原爆投下が即時降伏を強制することを狙ったものだったのであれば、三日という二発の爆弾の間隔は良心のかけらもないほど短い。
 日本の通信・運輸能力は壊滅状態にあり、誰も、アメリカ軍すら、まして日本最高司令部は、広島で起きたこと十分理解できていなかった。(マンハッタン計画は余りに極秘だった為、太平洋戦域全体の司令官ダグラス・マッカーサーでさえ、広島の5日前まで、蚊帳の外に置かれていた。)

4) ロシア人はV-E Day(ヨーロッパ戦勝記念日、5月8日)の90日後に日本との戦争に突入する意図を表明しており、それは広島が爆撃された二日後の8月8日にあたる。
 実際、ロシアは8月8日に日本に戦争を宣告し、長崎が焼かれて灰と化した時には、満州を東に向かって進撃していた。アメリカは日本がロシアに降伏したり、戦利品を分け合ったりするのがいやだったのだ。

 ロシアは、間もなく唯一のもう一つの超大国、そして将来の敵になるところだったので、冷戦最初の核戦争の脅威“メッセージ”が送られたのだ。 ロシアは実際、期待していたものよりはるかに僅かな戦利品しか得られず、二超大国は、まかないきれない核軍拡競争と、人類絶滅の可能性をもたらす、冷戦という膠着状態に即座に陥ってしまった 。そこで起きたのは、数世代の軍事的狂気を経た、両国の道徳的・財政的破綻だった。

 広島爆撃では、推計80,000人の無辜の民間人と、20,000人の武器を持たない若い日本人徴集兵が即死した。
 更に何十万人もが、短くされた余命の間、極めてつらい火傷、放射能による病、白血病、貧血症や治療不能の感染症による緩慢な死に苦しめられた。生き残った人々の何世代もの子孫までもが、放射能で引き起こされる恐ろしい病気、癌や早死に苦しめられる状態が、まさにこの瞬間も続いている。
 隠蔽されてきた、もう一つの恥ずべき現実は、その存在をアメリカ軍司令部が十分承知していた12人のアメリカ人パイロット達が、運命の日に、広島刑務所内で瞬時に焼き殺された事実だ。

 そこで陸軍省公認の太平洋戦争終結説明には、アメリカ人が、アメリカ大企業、軍、政治、マスコミのオピニオンリーダーによって絶えず吹き込まれている長たらしい神話の中に、しっかり位置を占めた新たな一連の神話が含まれており、その過程で、戦争の身の毛もよだつ恐ろしさは、讃美へと置き換えられた。

 北朝鮮、イラン、ベトナム、ラオス、カンボジア、レバノン、グラナダ、パナマ、フィリピン、チリ、エルサルバドル、ニカラグア、グアテマラ、ホンジュラス、ハイチ、コロンビア、クウェート、イラク、アフガニスタン、等々の国々でのアメリカ軍侵略と占領で、実際に何が起きたのかということも、検閲で削除されてしまった他の実相だ。
 このリストにはcoverそれ以外の国々での、無数の秘密のペンタゴン/CIA隠密作戦や、暗殺計画、150もの国々にアメリカ軍基地(基地を承認すれば、たっぷり賄賂が支払われ、さもなくば、経済制裁で脅された)。

 しかし、どういうわけか、私達の多くは、依然“正しかろうが、間違っていようが、我が祖国”という、あやふやな愛国心にしがみついて、戦争で金儲けをする超億万長者の大企業エリート連中(そして連中お雇いの政治家、軍首脳やマスコミ解説者連中)は、平和、正義、平等、自由と、略奪的資本主義の為“世界を安全にする”為にのみ尽力しているのだと言う、巧妙に練り上げられた神話を必死に信じようとしている。

 アメリカ軍が、たまの専制君主と対決し、死者や(肉体的、精神的に)瀕死の重傷を負ったアメリカ兵士達という、必要な犠牲者達を生みだしたのは事実だが、戦争に赴くことの合理化は、往々にして、我々ヤンキー達に自分の国に帰れと説得しようとしている“神なき共産主義者”や、反米“武装反抗勢力”や“自由の戦士”達のそれとそっくりだ。

 1945年8月6日と9日は、婉曲に“巻き添え被害”や“誤爆”と表現される、不可避の大量殺りくを常に伴う、あらゆる“総力戦”という政治課題の中で行われる洗脳の二つの好例にすぎない。

 我々がかつて知っていて、愛していた、人道的な平和をもたらすアメリカを救い出し、復活させるには、もはや遅すぎるのかも知れない。大企業によるアメリカ・リベラル民主主義乗っ取りに、効果的に対決するには、もはや遅すぎるのかも知れない。
 利己的に世界を破滅への道へと引きずりこんでいる傲慢で強欲な支配層エリートを、首尾よく打倒するには、もはや遅すぎるのかも知れない。私が「愛想の良いアメリカ・ファシズム」と呼ぶ、継続中のクーデターは、既に目標を達成してしまったのかも知れない。

 だが、依然、多少の望みはあるかも知れない。戦争を挑発する連中が(ペンタゴン、軍需産業や、議会内の連中のイヌどもによる極めて意欲的な支援を得て)世界中で引き起こしている戦争に対して、沈黙し続けるのでなく、真実をこれ以上無視することが不可能な今、良識のある人々は、我々が感じるであろう不快さ(認知的不協和)にもかかわらず、歴史の真実全体を学び始める必要があるのだ。

 我々の名において仕立てあげられてきた、アメリカの数えきれない戦争犯罪を素直に認める必要がある。そして、我々は街路に出て、犯罪的ならずもの国家へとアメリカを転換している連中に、公に抗議し、ナチス・ドイツとファシスト日本に起きたのと同様に、究極的に、アメリカ国境の外で、苦しんでいる何十億人もの犠牲者達によって、崩壊の標的とされることになる、連中への協力を勇敢に拒否する必要がある。

 儲かることや、過度に特権を持った、過剰消費で、持続不可能なアメリカ風生活様式にとって有利なことだけをするのではなく、人類全体にとっての変化の為に正しい事をすることが、本当の名誉、本当の愛国心であり、本当の平和に向けた重要な出発点だろう。


記事原文
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ネオコンの戦争挑発 広島爆撃を賛美するフリー・ビーコン 2019年8月7日 ケイトリン・ジョンストン CaitlinJohnstone.com


 アメリカによる残虐行為について毎日情報を発表する卓越したツイッター・アカウントのアメリカン・バリューが広島原爆攻撃記念日の新しいスレッドをたてたところだが、私は全員今日それを一目見るべきだと思う。そこには次のように書いてある。

「1945年のこの日、日本の都市広島に核兵器を投下して、140,000人の人々を殺した時、アメリカは人類史上最悪な[残虐行為]の責任を負った。広島は爆弾の致死力を増大する谷地形であるために選ばれた。

「爆弾は直接島病院の真上で爆発し、2.6平方キロを破壊し、12.2平方キロを火事にした。70,000人の人々が即死し、70,000が負傷した。爆撃は広島の全医療関係者の90%を死亡させた。負傷者は皮が剥離する中、倒れて死ぬまで、ぼんやりと、あてもなくさまよい、生存者に、生きた木炭のかけらと描写された。生存者の多くが放射線中毒の犠牲者になり、一部の人々は吐きながら暴力的に亡くなった。

「驚くべきことに、広島に爆弾を投下した三日後、アメリカは長崎にもう一つの原子爆弾を投下した。爆撃は本質的に実験で、プルトニウム爆縮爆弾が戦時環境で適切に爆発するかどうか見ようとする試みで、80,000人の日本人を殺害した。

「戦中に使われたアメリカ宣伝の多くが日本人を下等人間として描写したが、この態度が、アメリカ政府が自身と国民にこれらの残虐行為を正当化するのを助けた。

「爆撃を取り巻く最も非難されるべき神話の一つは、生命を救うため、それらが「必要だった」という考えだ。本格的歴史研究が、それが誤りであることを証明している。ここで見る->ここでも - > にもかかわらず、そうでなければ、アメリカ人が人類の最も法外な戦争犯罪の一つを犯した自国政府に対して感じるはずの罪悪感を軽減するがゆえに、この神話は残っているのだ。」

戦中に使われたアメリカ宣伝の多くが日本人を下等人間として描写したが、この態度が、アメリカ政府が、自身と国民にこれらの残虐行為を正当化するのを助けた。
pic.twitter.com/220krapn3I
- American Values (@Americas_Crimes) 2019年8月6日

 日本に対して核の恐怖を解き放つというアメリカの決定が、完全に戦争に勝つためには不必要な、理由のない野蛮な行為だったということの、歴史的に明白な事実についてのより多くの読みものは、オリバー・ストーンとピート・カズニックによる、このLAタイムズ記事と、ミーゼス研究所によるこれをご覧願いたい。

 当時の将官や意志決定者連中によれば、日本に対する核使用の本当の理由は、わずか4年後の1949年に自身の核兵器を続いて獲得したソ連を威嚇するためだった。
 そうなのだ。広島と長崎の人々に加えられた恐怖や、それらを作るために費やされた、あらゆる頭脳集団と資金は、合計四年続いた軍事的優位以外の何も与えなかったのだ。四年間の軍事的優位性と引き換えに、地球の表面から全ての生命をぬぐい去ることができる核のこう着状態が何世代も続いている。

 そして、もちろん我々はネオコンのワシントン・フリー・ビーコンが今日ツイッターで、この恐怖を慶賀しているのを目にしている。
 「74年前の今日、アメリカの最も素晴らしい世代が自由の敵に対し決定打を与えた。フリー・ビーコンは我々の退役軍人に敬意を表する。#Hiroshima」とキノコ雲の画像とともに、このメディアはツイートした。

 Antiwar.com創設者故ジャスティン・レイモンドが、かつて「ウイークリー・スタンダードの大衆市場版」と描写したワシントン・フリー・ビーコンは、その創立からネオコン戦争宣伝屋のための基盤として機能してきた。
 それはPNAC同窓生のマイケル・ゴールドファーブが会長を務めるシンクタンクが出版しており、編集長のマシュー・コンティネッティは超ネオコン、ビル・クリストルの義理の息子だ。

 ネオコンのこのしっかりまとまった、大いに影響力を持ったアメリカ至上主義価値体系の徒党は、アメリカ政策当局とマスコミ言説管理者の超党派的合意世界観になるほど深く押し込んでいるので、今もし主流言論界で、アメリカ永久戦争に疑問を呈するトゥルシー・ギャバード下院議員のような意見を言えば、即座にその意見は「反アメリカ的で」「孤立主義」で、クレムリンと提携していると酷評されてしまうのだ。

74年前の今日、アメリカの最も素晴らしい世代が自由の敵に対し決定打を与えた。フリー・ビーコンはアメリカ退役軍人に敬意を表する。#Hiroshima
pic.twitter.com/2WIWQ5jVX8
- Free Beacon (@FreeBeacon) 2019年8月6日

 この影響力を持った徒党の機関が国家テロの比類ない行為を称賛している事実は、ワシントン・フリー・ビーコンが、インチキなスティール調査書類の初期推進役として、ロシアとアメリカ間で世界を脅かす核の緊張をエスカレートさせる上で直接の役割を果たした事実によって一層不快になる。

 その扇情主義的主張が、それを裏付ける証拠を発見できなかったロバート・マラー報告によって無効にされたロシアゲート陰謀理論形成の上で基礎的役割を果たしたスティール調査書類は、トランプ政権がロシアに対して実施した実に多くの新冷戦エスカレーションに対する支持を生み出した。緊張緩和に反対して、ロシアに対し、アメリカを一層タカ派にすることは、その発端からネオコンの主要目的だった。

 「ネオコンの屑連中が、世界史上、国家テロの最も極悪な一つの行為を祝賀する」とフリー・ビーコンの投稿に応えてジャーナリストのダン・コーエンがツイートした。「彼らはナチと同じぐらい多くのちょう笑に値する。」

 コーエンは絶対に正しい。健全な世界なら、軍事大虐殺の果てしない行為を促進し、無辜の人間の核による無意味な焼却に栄光を与えるイデオロギーのメンバーは、どこにでもいるナチや、児童レイプ犯や連続殺人犯と同様、社会的な嫌われ者同様に扱われるはずだ。

 彼らは同じぐらい邪悪で、今日の世界で、彼らは実際に遥かに大きな脅威だ。我々は、ネオコンや連中の関係団体が他のあらゆる種類の殺人怪物と全く同じように扱われた時、我々は健全な社会に住んでいることになるだろう。


記事原文
東電「第3者」調査委員会の胡散臭ささ (保存版PDF)
(出典)社会科学者の随想
高市総務相も逃げた国連「表現の自由」特別報告者の舌峰
日刊ゲンダイ 2016年4月20日
閣僚を名指しで批判(中央がデビッド・ケイ氏)/(C)日刊ゲンダイ

 安倍政権にしたら「厄介者がやっと帰ってくれた」というところじゃないか――。日本における「表現の自由」を調査するため、国連人権理事会から“特別報告者”に任命されたデビッド・ケイ氏(47=米カリフォルニア大アーバイン校教授)が、1週間の滞在を終え、19日米国に帰国した。

 本来は昨年12月に来日するはずだったが、直前に日本政府が「来秋への延期」を要求。これに対し、「国連の調査を妨害するのか」という批判が世界中で高まり、今回、予定が前倒しされたという。

 ケイ氏は、19日帰国直前に外国特派員協会で会見。政府の“ドタキャン”の経緯について質問されると、こう説明した。
「昨年11月、日本の外務省から『予算編成作業があり十分な受け入れ態勢が取れない』と説明があった。本当の理由はそちら(日本のマスコミ)で政府に聞いて欲しい」

 ケイ氏は特定秘密保護法、放送法、記者クラブ制度の弊害などにも言及。
「事前調査した上で来日したが、実際にジャーナリストや官僚にヒアリングして、日本メディアの独立性についてむしろ懸念が強まった。特定秘密保護法は秘密の範囲が広過ぎる。情報を制限するとしても、もっと透明性の高い形ですべきだ。記者クラブ制度は、調査ジャーナリズムとメディアの独立性を制限しようとしている」

 ケイ氏の批判の矛先は安倍政権の閣僚にも向く。菅官房長官を名指しし、「自分の放送法の解釈に従わない番組があることを、オフレコ懇談で批判したと聞いた」と暴露。電波停止の可能性をチラつかせてテレビ局をドーカツしようとした高市総務相についても、「何度も会いたいと申し入れたが、国会会期中などを理由に断られた」と批判した。


■「報道の自由度」は72位に下落

 会見を取材したジャーナリストの志葉玲氏はこう言う。
「ケイ氏が予定を前倒しして来日したのは、日本メディアの危機的現状を強く危惧しているからでしょう。どうしても参院選前に調査したかったのだと思います。『ジャーナリストのパスポートを没収しないように』と、外務省に提案したと言っていましたが、安倍政権になってからのメディア規制はひど過ぎます。ケイ氏から逃げ回り、説明責任を果たさなかった高市総務相はサイテーだと思いました」

 くしくも今日、非営利のジャーナリスト組織「国境なき記者団」の「報道の自由度」ランキングが発表された。

 2010年、日本は過去最高の11位まで順位を上げたが、安倍政権になった途端に急落し、昨年は過去最低の61位。そして今年は72位と、さらに順位を下げた。当然か。

【出典】日刊ゲンダイ 2016年4月20日
事件と世相 本館
Abe capriccio  安倍奇想曲
音楽を楽しみ「世界の安倍首相風刺画」を見ながら、英気を養いましょう Music by Eiichi Ishikawa

Music by Eiichi Ishikawa
事件と世相 本館

 2016年1月15日午前1時55分頃、長野県・軽井沢町の国道18号、碓氷バイパスの入山峠付近(群馬県・長野県境付近)で、定員45人の大型観光バスが、ガードレールをなぎ倒して道路脇に転落した交通事故があり、乗員(運転手2人)乗客41人中、15人が死亡(運転手2人死亡)、生存者も全員が負傷、バス事故としては1985年の犀川スキーバス転落事故以来の過去30年で最多の死者が出る事故となりました。


事故の原因は、テレビ等で解説されていいますが、まず、一般論として『輪禍の三要因』について述べておきます。


輪禍の三要因

 今回の事故に限らず、毎日のように、悲惨な交通事故が多発しております。
しかし毎度の事ながら、警察の原因調査によって、ドライバーの「わき見運転」、「スピードの出し過ぎ」、「ハンドル操作の誤り」などの理由で処理されてしまい、しかも総てドライバーの責任にされてしまう場合が多いのが現実です。

 しかし、それでは、国道や道道、市町村道の各所に設置している事故多発地帯の看板に矛盾があると思います。つまり「交通システム」にも事故の原因があるのは当然です。例えば、スピードを出し過ぎても事故を起こさないドライバーと、スピードを出さなくとも事故を起こすドライバーが存在するのは何故でしょう。

 事実、時速40km以下での交通事故が最も多いのをどう説明するのでしょうか。警察は、交通事故をドライバーだけの責任として簡単に処理してはいないのか。これでは、いつまで経っても輪禍は減らないし、逆に輪禍が増え続けるのは間違いないでしょう。


 かつて、NHKの交通事故防止キャンペーンにおいても「危険なのは、クルマではなく、運転するドライバーである」と印象づける放送をしていました。
 また、「時速40kmではカーブを曲がり切れても、時速50kmでは曲がり切れない」などと「速度のみを基準」として事故を起こす確率を判断しているから呆れてしまいます。
 クルマというのは、1人乗車と4人乗車、車高や形状、路面や気候など、あらゆる条件で、ドライバーの運転操作とその結果(速度や方向など)に至るクルマの特性が大きく変わってしまうのです。
 つまり、速度だけではなく、「クルマの重量」によって、1人乗車ではカーブを曲がり切れても、4人乗車では曲がり切れない場合もあります。

 北海道では、冬季になるとスリップ事故が多発します。いわゆる冬型事故です。そして、いつも犠牲になるのは、老人や子供などの交通弱者なのです。
 国や道(県)の道路管理者は、それが分かっているにも関わらず、何故スリップ事故対策をしないのか、非常に疑問です。
 たとえば、事故多発地帯を融雪剤やロードヒーティングなどで整備すれば、スリップ事故が減少するのは当然です。
 スタッドレス化による「ツルツル路面」や「アイスバーン」は、いくらタイヤの性能が良くても、タイヤの形状自体がその原因になっているため「交通システム」の改善をしない限り絶対に解決できません。

 以上のように、交通事故は「ドライバーの技量」と「クルマの構造」そして「交通システム」の三要因が重なり合って起こるのです。更に冬期においては、夏場以上の「予見運転ドライバーの技量に含まれる)」が要求されるというわけです。


若年ドライバーと高齢ドライバーの運転能力の違い

 一般的に、若年ドライバーは、無謀運転によるスピードの出しすぎで、ハンドル操作を誤り事故を起こしやすく、高齢ドライバーは、ノロノロ運転で判断力が鈍いため事故を起こしやすい、などと認識されている方が多いようですが、これは若年と高齢ドライバーの対称的な特徴ではなく、実は共通点なのです。
 スピードの出し過ぎと、ノロノロ運転で判断力が鈍いのが、なぜ共通点なのかと言いますと、若年ドライバーと高齢ドライバーの共通点として挙げた、次の 【事故を起こしやすいドライバーの特徴】3点の中の「1.過渡特性(定常状態から別の定常状態に至る過程)や定常特性(安定に保たれている状態)が劣る」に該当するからです。

事故を起こしやすいドライバーの特徴
1.過渡特性や定常特性が劣る。2.予見能力が低い。 3.協調性が低い。  


 過渡特性や定常特性が悪ければ、クルマは不安定になり、危険な状態に陥るか、
 あるいは、即応性が非常に悪いために、危険回避が不能になるわけです。

 前者は若年ドライバーの無謀運転、後者は高齢ドライバーのノロノロ運転と判断力の鈍さに該当します。
 スピードを出さない高齢ドライバーが事故を起こすのは、1、2、3全てに該当するわけですが、1については、過渡特性が劣るため、危険回避のための敏速な操作が出来ずに事故を起こすのです。


 たとえば、乾燥路面において時速40Kmで走行しているクルマを、危険回避のために停止させる場合、普通であれば15メートル前後(夏場)で停止できます。
 しかし高齢ドライバーの場合は、この距離が非常に長いのです。

 高齢ドライバーは、危険を認識してブレーキ操作を行うまでの時間が長くかかるため空走距離が長く、更に足腰の力が弱いため、十分なブレーキ操作ができません。そのために制動距離が長くなります。他車が追い越しをかけてきて、すぐ割り込まれた場合、過渡特性が優れていれば、敏速に危険回避ができる場合が多いのです。
 更に高齢ドライバーは、2の[予見能力が低い]ことも原因になっているのです。追い越された場合、割り込まれるかどうか[予見]できなければ、非常に危険です。


「死角」 目だけに頼るのは事故の元
運転席から見えない外界の範囲を死角」といいます。 しかし「目で見える物だけが存在するとは限りません」。逆に、「目では見えないからといって存在しないとも限りません」。 例えば、目で見える蜃気楼は、その場には存在しません。あるいは、何らかの原因で、幻覚状態に陥ると、存在しないものまで見えてしまうといいます。

 ここで、目では見えない、又は見え難い例を挙げます。
 例えば、”薄暮”では、歩行者や対向車が見え難くなります。また、対向車のヘッドライトが歩行者を照らすと、自分のクルマからは、その歩行者の影しか見えなくなることがあります。つまり視覚というものは如何に、いい加減なものかを考えなければなりません。
 次に、「死角」を見ようとする場合にも「予見能力」と「的確な状況判断」が必要なのです。もちろん視覚や聴覚、臭覚、触覚も必要です。
 発車寸前のクルマの前後左右の「死角」は、乗る前にクルマの周りを一巡すれば、安全かどうか大体の見当がつくものです。
 もしクルマの周りで子供が遊んでいれば。一言注意をすればよいのです。更に、クルマを安全に発車するための初期速度は、時速2~3Km(ほぼ子供の歩行速度)とします。この状態で、クルマが2~3メートル動いてから本格的に 加速します。

 見通しの悪い交差点では、できる限り減速したうえ、センターライン側に寄ります。交差点に差し掛かったときには、クラクションを軽く鳴らすのも一つの方法です。夜間走行の場合は、ヘッドライトをパッシングなどで、一時的に明るくするなどで「死角」があっても安全確認の方法があるはずです。

 ドライバーが適切な「予見能力」を備えれば「車の陰から歩行者がでてくる」、「親子が道路を挟んで会話をしていたら子供が飛び出す」、「犬や猫が走ってきたり、サッカーボールが転がってきたら、子供が追っかけてくる」などの予見は誰にでも簡単に出来るものです。

 次に、「協調性」とは、「お互いに調和すること」であり、相手があるからこそ「協調性」という言葉が成り立つのです。
 安全走行やクルマの流れを乱すような「無理な割り込みをしない」、「暴走運転や低速運転をしない」などという基本的なマナーが「協調性」なのです。



悲惨なバス事故を無くすには

 何回も述べますが、交通事故は「ドライバーの技量」と「クルマの構造」そして「交通システム」の三要因が重なり合って起こるのです。
 しかし、今回の軽井沢スキーバス転落事故では、これらのことは、あまり議論も説明もされておりません。
 もっぱら、「格安ツアー」が大きな原因で、運転手の健康管理もおろそかにされていたなどと報じられています。

 それでは、低い運航費用を実現し、低価格かつサービスが簡素化された航空輸送サービスを提供する「格安航空会社」は、パイロットや客室乗務員の健康管理を、おろそかにしているのでしょうか。
 「格安ツアー」の旅行会社やバス会社を批判している評論家の多くは、大手の旅行代理店やバス会社の利益を守るために発言していると思いたくもなります。

 従って、悲惨なバス事故を無くすには、運転手の運転技術の向上と健康管理は当然として、バスの全座席には「三点式シートベルト」と「エアバッグの装着」を義務づけるべきと思います。
2016年2月13日 元・文部科学技官 石川栄一
 
事件と世相 本館

冷静な識者はどう見たか 「北朝鮮ミサイル」列島大騒動
2016年2月8日 日刊ゲンダイ



このバカ騒ぎはいったい何だったのか。
 7日午前9時半ごろ、北朝鮮が「地球観測衛星『光明星』を打ち上げる」との通告通り、「人工衛星」を発射。すぐさま緊急情報ネットワーク「エムネット」や全国瞬時警報システム(Jアラート)を通じて全国にミサイル発射情報が配信されるなど、各自治体は対応に大わらわだった。お茶の間も朝からこのニュースに席巻された。

 日曜の朝に打ち上げるなんて、まったく人騒がせな国だが、北の核実験やミサイル発射は、常に米国の譲歩を引き出すのが狙いだとされる。今回は中国も大きなターゲットだ。

「国連安保理では、北朝鮮が先月行った核実験の制裁決議案についての折衝が続いています。米国は制裁強化を主張して、中国に対し『北朝鮮への石油の供給を止めろ』と言っている。しかし中国は『追いつめすぎるとかえって暴発を招く』と消極的です。北朝鮮は、米中両国に揺さぶりをかけている。折しも米国は大統領選の真っただ中です。北朝鮮のミサイル発射は、共和党側からの『民主党の姿勢が北の増長を招いた』という批判材料には使われるでしょうが、すぐに有効な手を打ち出せる状況ではない。今回の発射を受けて、安保理は緊急会合を開きましたが、中国としては非常に難しい対応を迫られています」(国際ジャーナリストで早大客員教授の春名幹男氏)

 北の3代目は、どうせ今の中国には何もできやしないと足元を見ている。それは今月、北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議で議長を務める中国の武大偉朝鮮半島問題特別代表が平壌を訪問した最中に、発射を通告したことでも分かる。これで中国のメンツは丸つぶれになった。もちろん、中国を挑発するのは、その先に米国との対話を見据えているからだ。


■米国はミサイルではなく人口衛星と認定

 一連の核実験も今回の発射も、示威行動には違いない。破れかぶれというのはちょっと違うが、狙い通りに物事が進むとも思えず、悪あがきの類いでしかない。北朝鮮にとっては、「この道しかない」というところだろう。
 だが、それが本当に日本にとって脅威かというと疑問だ。

 日本政府もメディアも「北朝鮮が事実上の弾道ミサイルを発射」と言って脅威を煽るのだが、発射直後に、アメリカ国防総省が「長距離ロケットは宇宙空間に到達した」と発表。米戦略軍統合宇宙運用センターは「ロケットから分離された2つの物体が地球周回軌道に乗り、うちひとつは衛星とみられる」としている。ということは、これはミサイルではなく、本当に人工衛星ということではないか。

 軍事評論家の田岡俊次氏が言う。
「国連安保理の決議2087(13年1月23日)などが何度も北朝鮮に対し、『弾道ミサイル技術を使用したいかなる発射、核実験もこれ以上は実施しない』ことを求めている以上、今回の人工衛星打ち上げがそれに違反していることは明白です。ただ、日本で『人工衛星打ち上げと称する弾道ミサイル発射』と報道されているのは政府のミスリードだと思う。北朝鮮は地球観測衛星、すなわち偵察衛星を上げようとしたのです。『弾道ミサイルと衛星打ち上げロケットは技術的に同じ』といわれますが、それは旅客機と爆撃機が基本的には同じというレベルの話です。今日ではロケットも分化が進み、目的による違いも大きい。今回の『テポドン2』型のように、高さ67メートルもの塔のそばで、2週間以上もかけて衆人環視の中で組み立て、燃料注入に3日もかかる代物は、弾道ミサイルに適していません」

 日本のH2Aロケットを思い浮かべれば分かるが、戦時や緊張が高まった際、即時発射も移動も不可能なミサイルは、発射準備をしている間に、航空攻撃などで簡単に破壊されてしまう。


ありもしない危機を軍拡や改憲の根拠に政治利用

 今回発射されたのは人工衛星なのに、日本政府は「ミサイル発射」と称して破壊措置命令を発令し、東シナ海と日本海に迎撃ミサイルを搭載したイージス艦を展開。都内とその周辺や沖縄県内に地上配備型迎撃ミサイル「パトリオット」(PAC3)を配備するなど厳戒態勢を敷いた。いたずらに北の脅威を煽り、“ミサイル”発射を好機として対応しているように見える。

「防衛省はPAC3を沖縄の先島諸島にも配備しましたが、テポドン2が順調に飛行すれば日本領域には落ちないから、迎撃の必要はない。逆に故障した場合も撃ち落としようがないのです。超高速の弾道ミサイルに対する防衛では、相手の放物線を計算し、『未来位置』に向け発射するのですが、故障して不規則な飛翔をする目標の未来位置は予測不能だからです。いずれにせよ役に立たないものを、はるばる運び込んだのは、沖縄県民に“自衛隊が守ります”と宣伝し、辺野古の飛行場建設や宮古島、石垣島への自衛隊配備の地ならし工作なのか。あるいは、すでに1兆3000億円も投じた弾道ミサイル防衛が役に立っているような印象を国民に与えるための“展示訓練”かと苦笑せざるを得ません」(田岡俊次氏=前出)

 今回のような状況ではPAC3なんて何の役にも立たないし、配備はただのデモンストレーションでしかない。本当の危険は別にあると田岡氏は言う。北朝鮮は旧ソ連の潜水艦発射ミサイルを基礎にした弾道ミサイル「ムスダン」を持っている。これは12輪の自走発射機に乗せ、山岳地帯のトンネルに隠して、10分ほどで発射できるようにして待機しているという。射程は3000キロ以上だから、日本を確実に捉えている。これこそが本当の危険だというのだ。


■破壊措置命令を継続の悪ノリ

「PAC3なんて、現実の戦闘になれば、まったく使い物になりません。本気で北朝鮮が日本を攻撃する気になれば、ミサイル発射時刻を事前に教えるはずがない。いつ撃ってくるか分からないのに、発射からわずか10分ほどで日本本土に到達するミサイルをどうやって迎撃するのか。迎撃システムを配備する前に着弾してしまいます。今回は、日本への攻撃ではないことがあらかじめ分かっていたから、いざとなれば迎撃するフリができただけです。しかも、打ち上げの脅威は去ったのに、破壊措置命令を継続するという。悪ノリでしかありません」(元外交官の天木直人氏)

 安倍首相は北の発射に対して「断じて容認できない。日本独自の措置を行う」とイキリ立ってみせた。国連安保理の緊急会合でも、強力な制裁決議の採択に向けて米韓と連携し、仏ロ英にも協力を要請するという。国内向けには強硬姿勢を示し、国際的には北をダシにして中国を孤立させる狙いがミエミエだ。

「北朝鮮にしてみれば、今回のターゲットは米中であり、日本は眼中にないのに、攻撃対象になったかのように騒いでみせる。どのみち日本は米国の意向に従うだけで、独自の外交なんてできやしないのに、バカバカしくて言葉もありません。有事を利用するのは政権の常套手段ですが、特に安倍政権では顕著です。それも、あまりに底が浅い。北のミサイル発射は、集団的自衛権行使の必要性をアピールするチャンスだと張り切っているようにしか見えません。起こりもしない危機を煽り立てて、国民を改憲に向かわせようとしているだけなのです」(天木直人氏=前出)

 北朝鮮が制御不能なのは確かだ。今後も何をしでかすか分からない得体の知れなさはある。だが、脅威を煽って国民を攪乱する手法は危うい。“ミサイル発射”にも必要以上に踊らされることなく、政権の狙いを見極める必要がある。
【出典】 日刊ゲンダイ 2016年2月8日
 事件と世相 本館
病人から布団を剥ぎ取るような医療制度
追加負担の受診患者は大病院のカモ!
正月早々、こんなニュースが飛び込んできました。

紹介状なしの大病院受診、最低5000円の追加負担へ

 厚生労働省は、今年4月から紹介状なしで大病院を受診した患者に、初診料とは別に最低5000円の追加負担を求める方針です。
 対象となるのは、大学病院や公立病院など全国およそ250の大病院です。厚労省は、今年4月から紹介状なしでこれらの大病院を受診した場合、患者に初診料とは別に追加負担を求めることにしていて、負担額は最低5000円とする方向で調整しています。
 対象となる病院は、5000円以上を請求できることになり、これは軽症の患者は中小規模の病院や診療所を受診するようにしてもらい、大病院が重症の患者を中心に、より高度な医療を提供できるようにするのが狙いです。
ただ、救急の患者や近くに診療所などがない場合は、追加負担を求めない方針です。
 厚労省は今後、中医協=中央社会保険医療協議会で正式に決めることにしています。(05日11:12)TBS系(JNN) 1月5日(火)12時36分配信



厚労省の目論み通りにはならない

 現在でも、北大病院など独立行政法人や国家公務員共済組合などが経営する大病院では、紹介状なしで受診した患者に、初診料とは別に3000円以上請求しています。
 それを5000円に上げたところで、狙い通りに「軽症の患者は中小規模の病院や診療所を受診するようにしてもらい、大病院が重症の患者を中心に、より高度な医療を提供できるようにする」ことになるのかどうか、疑問です。
3000円に上げたときも、同じ事を謳っていました。ある大病院の職員によると「追加負担の受診患者は大病院のカモ」だといいます。

 そもそも、「軽症」かどうかは、医者にかかってみなければ分からない(医者でも分からないときもある)わけで、中小規模の病院や診療所で長期間、診てもらった結果、手遅れになることがあり得るわけです。

 そして、大病院にまわされても、専門医から「どうして早く来なかったのか、もう手遅れです」と引導を渡されかねません。
 また、中小規模の病院や診療所が、紹介状を書いてくれるかどうかも疑問です。医療は「早期発見・早期治療」が原則です。患者からしてみれば、はじめから高度な医療を受けたいので、大病院にかかるわけです。
 したがって、現在の3000円から5000円に引き上げても、厚労省の目論み通りにはならないでしょう。


病人からお金を取ること自体、間違い
 予期せぬ病気や病弱で通院している方、そして入院されている方には、医療費の値上げは本当に堪えると思います。好き好んで病気になる人間などどこにもいません。病人からお金を取ること自体、間違いだと思います。


世界の医療制度

 我が国では、現在でも、毎年のように医療費の値上げが実施されており、多額のお金がなければ病院にかかれないという事態に陥る恐れがあります。
 20年ほど前、娘が交通事故に遭い、頭部を打ったので、札幌医大付属病院の「外来受付」に行きますと「交通事故の場合、医療費の支払い者が分からなければ診察できません」といわれ、応急処置どころか、何も診療してもらえなかった事があります。


家庭では節減できない医療費

 税金は上がる、医療費が上がる、公共料金も上がる、上がらないのは給料くらいでしょう。しかし税金や公共料金の値上げの場合、家計の支出を抑制することで、ある程度の対策が可能ですが、病気を抑えることはできないので、医療費の値上げの対策はできません。
特に心臓病や高血圧症などの慢性病を抱えている方には深刻な問題です。

 この際、各病院で「医療費の超特価キャンペーンでもやったら」と思うこともあります。また薬品会社は「薬品のバーゲンセール」を実施するのです。市販薬の場合「薬のツルハドラッグ」などでも安売りしています。
 私のかかりつけの病院では、患者に中元や歳暮を配ったりしています。そこまでしなければお客(患者)が他の病院に離れていくからかも知れません。
 ところで、病院に行くと、女性の患者が多くて「ここは婦人科ではないかな」と勘違いすることもあります。
 私の母も、札幌市西区の医院を中心に、診察券を何と30枚以上持っていました。いやあ驚きました。整形外科の診察券が多かったですね。最初から大病院にかかってさえいれば、このようなハシゴ受診をしなくてもよかったと思います。
 平均寿命が、男性よりも女性の方が長寿であるのは、女性は日常的に、健康に気をつけているからでしょう。


高い手術代

 高齢者の場合、手術代も高いですね。母が「背骨の手術」をした時には、444万円もかかりましたが、高齢者であるので「自己負担はゼロ円」だったので助かりました。
 更に高額医療費として、亡き父のような「透析患者」の例があります。透析病院では、1回の透析に3万円くらいの経費(30年前)かかったようですから、父のように週3回の透析の場合、1ヶ月で36万円、1年で432万円になります。
 父は、透析を始めてから10年目で亡くなりましたので、透析だけで、4,320万円もかかった事になります。
 他に、人工透析のシャント手術が数回、心筋梗塞の治療そして長期の入院費などを含めると、父の10年間の治療費の合計は、5,000万円~6,000万円もかかっていたと思われます。しかし当時は透析患者の自己負担はゼロ円で、全て健康保険から支出されていたわけです。


米国の桁違いな高額医療費
 ここで、参考までに「米国の桁違いな高額医療費」を紹介します。なお米国の医療費は各州により異なります。(以下、参考資料)カラパイヤ

1.背中の手術を終えた後に受け取った初回の請求書 1200万円
 ※なおこの請求書に手術代は含まれていない。


2.腹痛が6時間も続いたので、急患として病院に行った時の請求書 149万円


3.救急車で救急医療室に運ばれ、2日間入院した際の請求書 141万392円


4.虫垂切除(盲腸手術)の請求書 441万2550円


5.アレルギー反応がでて45分間病院にいた時の請求書 8万2530円

 (保険に加入している場合)

 米国では保険料の支払いが困難な中・低所得者を中心に、国民の6人に1人は医療保険に加入しておらず、病状が悪化するまで医療を受けられない人も多い。結果として国の医療支出がふくらむという弊害も起きている。
(ここまで)


 米国は、1%の富裕層が99%の国民を支配する国とも言われています。
日本も国民皆保険が崩壊したら、医療費は米国並みになりそうです。
例えば、アメリカの出産費用14,000ドル(168万円)。
虫歯の治療 2本で1200ドル 14万4千円。
盲腸手術入院(州によって異なる) 441万円と超高額な医療費。

 また、高収入の中産階級であっても、突然の医療措置によって、貧困階級に落ちることもありえます。
病人から布団を剥ぎ取るような医療制度はやめてほしいものです。

2016/01/05 石川栄一
事件と世相 本館
 

野坂昭如が死の4ヵ月前に綴った、安保法制と戦争への危機感「安倍政権は戦前にそっくり」「国民よ、騙されるな」 【出典】LITERA(リテラ) 2015.12.10

 12月9日、作家の野坂昭如が心不全のため都内病院で亡くなった。85歳だった。
 野坂昭如といえば、大島渚・小山明子夫妻の結婚30周年を祝うパーティーで大島渚と大乱闘を繰り広げたり、ブルーフィルム製作を営む青年たちを主人公にした小説『エロ事師たち』(新潮社)を出版したり、編集長を務めていた月刊誌「面白半分」(株式会社面白半分)に永井荷風『四畳半襖の下張』を全文掲載してわいせつ文書販売の罪で起訴されたりと、マルチな分野で才能を発揮しながら、つねに冗談とも本気ともつかぬ、軽妙かつ過激な言動で世間をアジテートしてきた。
 そんな野坂が人生を懸けて表現し続けてきたものがある、それは「平和」への願いだ。
 自身が体験した悲惨な戦争体験から、戦争の恐ろしさ・平和の大切さを発信し続ける姿勢は、最晩年になっても変わることはなかった。本稿では、そんな野坂昭如が最期に残した言葉を紹介したいと思う。
 野坂昭如、最期の平和へのメッセージ。それは、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)2015年8月23日号に寄稿された文章「二度と戦争をしないことが死者への礼儀だ」であった。
 野坂昭如の代表作といえば、1967年に発表され直木賞を受賞し、88年に高畑勲によってアニメ映画化された『火垂るの墓』があげられる。この物語が彼の実体験をベースに書かれていることはよく知られている話だが、まず彼は『火垂るの墓』についてこのように綴っている。

ぼくは焼け野原の上をさまよった。地獄を見た。空襲ですべて失い、幼い妹を連れ逃げた先が福井、戦後すぐから福井で妹が亡くなるまでの明け暮れについてを、「火垂るの墓」という30枚ほどの小説にした。空襲で家を焼かれ一家離散、生きのびた妹は、やがてぼくの腕の中で死んだ。小説はぼくの体験を下敷きにしてはいるが、自己弁護が強く、うしろめたさが残る。自分では読み返すことが出来ない。それでも戦争の悲惨さを少しでも伝えられればと思い、ぼくは書き続けてきた。文字なり喋ることだけで、何かを伝えるのは難しい。それでもやっぱりぼくは今も戦争にこだわっている

 戦争とはどれだけ酷く、悲しいものなのか。野坂は次のように言葉を重ねる。実際に戦争を体験し、その悲しみを身体に刻み込んできた彼から放たれるメッセージには並々ならぬ重みがある。

戦争は人間を無茶苦茶にしてしまう。人間を残酷にする。人間が狂う。だが人間は戦争をする。出刃包丁で殺そうが、核兵器で殺そうが同じことである。戦場で殺し合いをする兵士が、家では良き父であり、夫である。これがあたり前なのだ
戦争は人間を人間でなくす。では獣になるのか。これは獣に失礼。獣は意味のない無駄な殺し合いをしない。人間だけが戦争をするのだ。今を生きる日本人は、かつて戦争へと突き進んでいった人間たちと、どこがどう違うのか。何も変わりはしない。だからこそ戦争の虚しさを伝え続ける必要がある

「かつて戦争へと突き進んでいった人間たちと今を生きる日本人は何も変わらない」。この夏、我が国が「戦争のできる国」へと大きく舵を切った後に読むと、より考えさせられる言葉だ。この一文が象徴しているように、強硬なプロセスで採決された安保法制と安倍政権のやり方に対し、野坂は怒りを隠さない。

安保法案は衆院で強行採決された。じゅうぶんに審議は尽くされたという。審議尽くされたはずが、国民の大多数は説明不十分だと受けとめている。国民、学者、専門家から批判の声があがるが、お上はこれを無視。安倍首相をはじめ、政権側は、衆院に送り、今後国民にしっかり説明していくとのたまう。だが国会は説明の場ではない
 続けて野坂は、表現・マスコミに関わる者として、今のメディアを取り巻く環境を戦前のそれと重ね合わせる。

安保法がこのまま成立すれば、やがて看板はともかく、軍法会議設立も不思議じゃない。これは両輪の如きものとも言える。すでに特定秘密保護法が施行され、さっそくの言論弾圧。そのうち再びの徴兵制へと続くだろう。
 言論弾圧が進めば、反戦的言辞を弄する者は処罰される。すでにマスコミにも大本営発表的傾向がみられる。これがこのまま続けば国民の国防意識を急速に高めることも可能。たちまち軍事体制が世間の暮らしの仕組みの上に及んでくる。戦争ならば覚悟しなければならない。往年の国民精神総動員令がよみがえる


 彼が主張する戦前と今の類似点は、報道に対する圧力だけではない。国民の声は無視、まるで独裁者のように振る舞う政府の姿勢も戦前そっくりだと野坂は語る。

かつて軍国主義は軍隊が専横をほしいままにし、頂点に立つ何人かが協議。制度を整え、戦争を準備した。強力な指導者の登場は挙国一致体制が前提。今は軍国主義の世の中ではない。だが、世間が反対しようと無謀であろうと、無理のごり押しを平気でする。決めたらひたすら突き進む。この政府の姿勢は、かつてとそっくり

 戦後70年の節目にして、戦前のような状況に戻ろうとしている日本。無論、このことは国民の我々にとって絵空事ではない。彼は次のように警鐘を鳴らす。

日本が戦争出来る国になる以上、戦争を想定した上での都市のあり方、疎開や備蓄、あらゆることを考えておかなければならない。積極的平和主義など姑息な言い方はやめて、安倍首相は国民にとって戦争というものが、どういうものかを、論理的に説明すべきだろう。本質を語らずうわべばかり

 死のわずか4ヵ月前、安倍政権による“戦争のできる国”づくりに対する危機感を訴えていた野坂。先の戦争を知っているからこその危機感だろう。11月30日に亡くなった水木しげるもそうだが、先の戦争を体験し、その悲しみを伝え続けた世代が次々と鬼籍に入っている。それにつれて、この国は戦争の恐ろしさ・悲しさを忘れつつある。
 戦争の犠牲となった人々、また、その悲しみを戦後70年間抱え続けた人々、そんな先人たちのためにも、いま一度「平和」への誓いを新たにしなければならない、と野坂は綴る。そんな野坂昭如の最期のメッセージをあらためて噛み締めたい。

戦争で多くの命を失った。飢えに泣いた。大きな犠牲の上に、今の日本がある。二度と日本が戦争をしないよう、そのためにどう生きていくかを問題とする。これこそが死者に対しての礼儀だろう。そして、戦後に生まれ、今を生きる者にも責任はある。繁栄の世を築いたのは戦後がむしゃらに働いた先人たちである。その恩恵を享受した自分たちは後世に何をのこすのか
どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな。このままでは70年間の犠牲者たちへ、顔向け出来ない

(新田 樹)

【出典】LITERA(リテラ) 2015.12.10
事件と世相 本館
 
追悼! 水木しげるが描いていたラバウルの戦争体験と慰安婦… 「80人の兵隊を相手に…あれはやっぱり地獄だ」
 『ゲゲゲの鬼太郎』で知られる漫画家・水木しげるが、今朝、多臓器不全のため都内の病院で亡くなった。93歳だった。
 1922(大正11)年生まれの水木は、1942年、20歳の秋、兵庫・西宮で徴兵検査を受け、近眼のため乙種合格となった。今年5月に、水木が出征前に記した手記が発見され、文芸誌「新潮」(新潮社)に掲載、話題になったことは記憶に新しい。手記は断片的ではあるが、哲学・芸術に想いをめぐらせた思索的なものだった。そして、その後戦地を目前としての死生観が記されていた。

毎日五萬も十萬も戦死する時代だ。芸術が何んだ哲学が何んだ。今は考へる事すらゆるされない時代だ。画家だらうと哲学者だらうと文学者だらうと労働者だらうと、土色一色にぬられて死場へ送られる時代だ。人を一塊の土くれにする時代だ。こんなところで自己にとどまるのは死よりつらい。だから、一切を捨てゝ時代になつてしまふ事だ。暴力だ権力だ。そして死んでしまふ事だ。それが一番安心の出来る生き方だ。〉(「新潮」15年8月号より)

 翌年1943年4月、水木のもとに、臨時の招集令状が届く。補充兵となり、激戦地ラバウル(ニューブリテン島)へ出征。爆撃によって左手を失った。戦後、漫画家となった水木は、自らの戦争体験を元にした作品を多数発表してきた。なかでももっとも有名なのが、自伝的戦記マンガ『総員玉砕せよ!』だろう。水木が「90%は戦地で自分が見聞きしたこと」であり「最も愛着が深い作品」だという同作は、こんな場面から始まる──。

 ニューブリテン島のココポという船着場で、日本軍の兵士たちが「ピー屋」、つまり慰安所の前で長蛇の列をなしている。「一人三十秒だぞ」と言う兵士。対し、慰安所の女性は「皆さんもう五時ですからおしまいですよ」と言う。
兵士たちは「そんなこというなよ御国のためだ」「もう少し営業しろい」と食い下がるが、慰安婦はため息をつきながら「もう体がもたないわ……」。
しかし、兵士は懇願する。「ねえちゃんあと七十人くらいだがまんしてけれ

 同作は、最終盤に兵士たちが敵隊に突入し、全員が玉砕するのだが、最後の数ページはひとつのセリフもなく、倒れ重なる死体のカットが繰り返されるだけ。死体はやがて白骨となり、まるでゴミかなにかのように積もっていく。その静寂のなかで幕を降ろす。

 圧倒的な不条理。そこには、昨今の戦争をモチーフにした小説や映画、漫画、アニメに見られるような、ヒロイズムや勇猛果敢さ、あるいは“民族の誇り”なるものは、いっさいない。

 2006年、水木は毎日新聞の取材を受けた際、「復員後、戦争を賛美するような戦記物漫画に反発を覚えたことがあると聞きました」と尋ねた記者に対して、このように答えている(8月16日付大阪朝刊)。

戦争に行っていない人が描いている、と思った。戦争は映画みたいに都合良くいかない。それからずっとたって、『コミック昭和史』や『総員玉砕せよ!』を描いたのは、戦争を体験した漫画家として、残さなければならない仕事だと思ったからだ。心ならずも亡くなった人たちの無念。敗戦は滅亡だった。食に困らず、豊かさを味わえる現代は天国のようだ。戦争をすべきでない

 一方、同年の読売新聞でのインタビューでは、「今の日本の現状をどのように見られますか」と聞かれ、こう語っている(06年4月30日付朝刊)。
これでいいんじゃないですか。締め付けめいたことや忠告めいたことを言ってもダメですよ。自然のままでいい。方向を決めても大したことはない。戦争中は聖なる目的で命がけでばく進したけど、このざまです。あんなに努力して、金をかけ、命まで投げ出して負け、幸せにはなれなかった。あれほどばかばかしいことはない。みな口には出さないけれど、戦争のばかばかしさは今も日本国民に染みついていますよ

 ところが、2015年、安倍政権下の日本を見ていると、どうにも、この国はまたしても戦争へ向かっているような気がしてならない。
 それは、為政者が「未来志向」の名の下、戦争の“負の遺産”を消し去ろうとしていて、しかも、人々の心の中にまでその空気が広がりつつあるからだ。たとえば先日も、自民党で歴史認識問題に取り組む「国際情報検討委員会」の原田義昭委員長が、「南京大虐殺や慰安婦の存在自体を、我が国はいまや否定しようとしている」と発言した。いま、安倍政権は明らかに歴史の修正に舵を切っている。

 しかし、水木が『総員玉砕せよ!』で描いているような場面は、決してフィクションではない。慰安婦は事実存在しただけでなく、彼女たちが強いられた行為は、まさに非道としかいいようのないものだった。水木は別のコミックエッセイで、ココポでの慰安婦をより詳細に描いている。『カランコロン漂泊記 ゲゲゲの先生大いに語る』(小学館)に収められている、8ページの短いマンガ。タイトルは「従軍慰安婦」だ。

 年老いた水木が、書斎で戦争中、ココポでの出来事を回想する。水木青年は、上等兵に「お前も行ってこい」と言われる。以下、水木のモノローグ。
というようなことでピー屋の前に行ったがなんとゾロゾロと大勢並んでいる。
 日本のピー屋の前には百人くらい、ナワピー(沖縄出身)は九十人くらい、朝鮮ピーは八十人くらいだった。これを一人の女性で処理するのだ。
 僕はその長い行列をみて一体いつ、できるのだろうと思った。一人三十分とみてもとても今日中にできるとは思われない、軽く一週間くらい、かかるはずだ。しかし兵隊はこの世の最期だろうと思ってはなれない、しかし……いくらねばっても無駄なことだ。僕は列から離れることにした。そして朝鮮ピーの家を観察したのだ。ちょうどそのとき朝鮮ピーはトイレがしたくなったのだろう、小屋から出てきた。


 朝鮮人慰安婦が便所で用を足すところを見て、水木は「はァ」と目を見開く。そして、頭を抱える。以下、再びモノローグ。
とてもこの世の事とは思えなかった。第一これから八十くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに“地獄の場所”だった。

 場面はかわって、現代。書斎の椅子で目をつむる老いた水木は、〈兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか〉と物思いにふけている。
よく従軍慰安婦のバイショウのことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが…… やはり“地獄”だったと思う。だからバイショウは、すべきだろうナ。 ……といつも思っている。

 水木しげるは、決して「平和」や「護憲」を大声で叫ぶようなタイプではなかった。だが、多くの子どもたちからも愛される国民的作家であった一方で、こうした戦場の悲惨な現実を、もくもくと漫画で表現してきた作家でもあった。

 水木はこの夏の安保法制の強行を見て、何を思ったのだろう。広がる歴史修正のイヤな空気を吸いながら、どう感じていたのだろう。もっともっと生きて、その記憶と思いを伝えてほしかった。その死を惜しみつつ、掌を合わせたい。
(宮島みつや)

(出典)2015.11.30 LITERA (リテラ)
事件と世相 本館
ISISに資金提供している40カ国をプーチンがG20で明らかに
(世界の裏側ニュース)

40カ国のリストにはG20の加盟国も含まれているという。

プーチン:「イスラム国の別部隊(元ISIS・ISIL)の資金に関し、私たちが入手したデータに基づいた実例を個人的に提供しました。私たちが確認したところによると、この資金はG20加盟国を含めた40カ国から供与されていることが明らかになっています」

ISISの資金を無償提供する流れを阻止する必要性を議論したばかりでなく、プーチンはまた、ISISによる不法な石油取引を阻止する必要性があると繰り返し言及した。

プーチン:「石油および石油製品の不法取引の規模を明らかに指し示している写真で、宇宙や航空機から撮影されたものがありますが、私はそれを 仲間(各国代表者)たちにお見せしました。車両に燃料を補給するための車の列は数十キロの長さにおよんでおり、4,000~5,000メートルの上空から 見ても地平線の向こうまで伸びているのが確認できます」
(すべて読む)
We are all one 激変する世界情勢を ウォッチング


ISに資金提供「G20含め40カ国」 プーチン大統領
(朝日新聞デジタル)


 ロシアのプーチン大統領は16日、テロ問題が中心議題となった主要20カ国・地域(G20)首脳会議後の記者会見で、過激派組織「イスラム国」(IS)に資金提供している国がG20の加盟国を含めて40カ国に上るという見方を示した。

 具体的な国名には触れなかった。国家が直接支援しているというよりは、ISの資金源とされる原油販売に関係している組織や、ISの主張に共鳴する支援者がいるとされるシリアの周辺国を念頭に置いているとみられる。

 さらにプーチン氏は、ISによる原油の販売について、ロシアの偵察衛星が撮影した画像をG20の会議の場で示した上で、どのような規模で行われているかを説明したという。

 ISの資金源を断つために国際的な協力が不可欠だと訴えると同時に、ロシアが行っている空爆についてもその一環として位置づける狙いとみられる。(アンタルヤ=駒木明義)
事件と世相 本館
集団的無責任!「新国立競技場の白紙撤回」と同様に誰も責任をとらない
8人のエンブレム選考委員相関図
 白紙撤回された東京五輪エンブレム
日テレが佐野エンブレムの審査委員8人に取材を申し込むも… 全員雲隠れ!
談合選考の構図
身内で賞を融通し合ってお互いに得をする状態をつくる。
日本のデザイン業界はコネで成り立っていると言われる所以だ。
【出典】netgeek
遠藤五輪相 組織委の責任否定 森氏は超不機嫌
舛添都知事 佐野氏に「裏切られた感じ」エンブレム問題、説明求める
舛添都知事 佐野氏を批判「プロとしては許されない行為」

五輪エンブレム撤回…新国立に続き、
また無駄金 被害数億円か

 2020年東京五輪・パラリンピック大会の組織委員会は1日、ベルギーのリエージュ劇場のロゴに似ているなど、さまざまな盗用疑惑が取りざたされていた佐野研二郎氏(43)デザインの大会エンブレムを撤回することを決めた。この日午前、佐野氏から取り下げの申し入れがあり受諾した。

 会見では組織委の武藤敏郎事務総長が「申し訳ない」と釈明。新国立競技場の白紙撤回に続き多額の捨て金が生じることになり国際社会での日本の五輪イメージが地に落ちる事態となった。
 混迷で生じたのはまたしても巨額の捨て金だ。都は4600万円かけてエンブレム入りのグッズやポスターを用意。
 7月24日に都庁舎前の都民広場で組織委と都が開いたエンブレム発表のイベントの費用は、都が最大で7000万円を支出することになっている。これらの経費をどこが負担するのかも今後、議論される見通しだ。

 組織委は選考にかかった費用について「審査会の場所代と東京都の規定に準じた日当を(8人の)審査員に渡しただけ。
 損失計算をまだしていない」と述べ、佐野氏にはデザイン報酬の100万円を支払わないことを明らかにした。

 経済アナリストの森永卓郎氏は「今の段階だと被害額は数億円だろう。
施設が完成し、ポスターやグッズが出来上がった段階だと数百億円の被害が出た可能性がある」と指摘。
 都内の男性会社員(29)は「“パクった”という疑惑が出ている時点で五輪にはふさわしくなく、日本の恥になる」と話した。

 新国立競技場の整備計画も白紙撤回までに62億円が投じられており、批判が集中。
 いずれも責任の所在は不明瞭のままで、国民の不信感は募るばかり。ネット上には「何もかもグダグダだ」という意見が相次いだ。

【出典】スポニチ [ 2015年9月2日 05:30 ]
海外の反応
エンブレム問題、海外でも関心 「新たな恥ずべき事態」> 東京大会の準備の混乱を「新たな恥ずべき事態に苦しんでいる」「卓越した計画性と注意深さで知られる国が、多くの見直しに追われている」などと報じている。
朝日新聞デジタル
 
「ぶざま」と英BBC エンブレム白紙撤回> 2020東京五輪の公式エンブレムが白紙撤回されたことについて、日本は五輪開催国として信頼できるとみられていたが五輪会場となる新国立競技場の見直し問題も含め、ぶざまな成り行きになったと報じた。
47NEWS
「ぶざま」と英BBC エンブレム白紙撤回 > Tokyo 2020 Olympics logo scrapped amid plagiarism claim
英BBC
 識者の声
東京五輪エンブレム白紙に識者バッサリ…各界から様々な反響> 演出家のテリー伊藤氏は「もっと早く佐野研二郎氏が辞退すべきだった」と問題が長引いたことを批判。スポーツ評論家の玉木正之氏は「組織委員会の森喜朗会長が責任をとるべき」と斬り捨てた。
 漫画家のやくみつる氏は「新しいエンブレムは再び公募するようだが、同じメンバーでもう一度選考するのか。佐野作品を選んだ選考委員たちに責任はないのか」と厳しく指弾。玉木氏は「国家的プロジェクトで問題が相次いだのだから、組織委員会の森会長は責任を取るべき」と森喜朗会長の責任を追及するなど、組織委への批判も噴出している。
サンケイスポーツ

新国立に続いて…「五輪ロゴ白紙」誰も責任を取らないア然

 7月末に盗用疑惑が浮上して1カ月あまり。東京五輪のエンブレム問題は、1日、ようやく使用中止が決まったものの、原作者のアートディレクター・佐野研二郎氏(43)ひとりが“退場”し、ほかは誰も責任を取らないウヤムヤ決着になりそうだ。とても「一般国民」の理解を得られそうにない。

 大会組織委の武藤敏郎事務総長は1日の会見で、佐野氏自ら「デザインは模倣ではないが、いまや一般国民に受け入れられない。むしろ五輪に悪影響を与えてしまう」などと取り下げの申し出があり、使用中止を決めたと説明したが、まったくよく言うよ、だ。

 佐野氏をめぐっては、提訴されたエンブレム以外にも、トートバッグのデザインや、動植物園のシンボルマークなど次々と疑惑が浮上。それなのに組織委は「問題ない」の一点張り、国内外の信用が地に落ちるまで騒動を引っ張ってきた。揚げ句、せっつかれる格好で公表したエンブレムの原案にまで似た作品があることがバレて、ジ・エンド。

 醜態をこれでもかとさらしたのに、武藤氏は、「われわれは(原案公表後に)新たな局面を迎えて危機感を持ち、ただちに行動を起こした」などと“胸を張って”いたのである。

 当然、会見では報道陣から“責任の所在”について質問が飛んだが、元財務次官の武藤氏は「組織委は国民の支持が得られる新しいエンブレムを早く選ぶことが大きな責任」「(エンブレムの選考には)大勢の人が関与している。誰かひとりが責任を取るという議論はできないし、すべきではない」などと、ひたすら責任逃れの“官僚答弁”に終始した。

「佐野さんありきの選考だったのでは?」という質問も出たが、武藤氏は「それはないと思う」とのらりくらり。

 大阪芸術大芸術学部の純丘曜彰教授(芸術計画学科)がこう言う。

コンペに“問題作品”が紛れ込むのは当たり前で、そうした作品をはじくためにも審査員がいるわけです。それをスルーさせ、1カ月も世間を引っかき回した責任は問われてしかるべきでしょう。新しいエンブレムの選考は公募を前提といいますが、これだけ騒ぎが大きくなった後で、果たして“身体検査”を覚悟の上で応募できるグラフィックデザイナーが何人いるのか、疑問です。審査員にしたって成り手がいるのかどうか……

 東京都はすでに、エンブレム入りののぼりやポスターなど約4600万円分を発注。これらもすべてパーだ。

競技場に続いてエンブレムも白紙撤回とは、前代未聞です。ナアナアの永田町のように、組織委の森喜朗会長ら幹部が誰も責任を取らずにウヤムヤで終わらせたら、国民もすっきりした気持ちで五輪を迎えられない。また同じような問題も起きるでしょう。トップも白紙に戻してケジメをつけないと、国民は納得しませんよ」(政治評論家・山口朝雄氏)

【出典】日刊ゲンダイ 2015年9月2日
事件と世相 本館
参考写真
PC DELL XPS 8700
DELL XPS 8700と
LGブルーレイドライブ BH14NS48
中央上
LGブルーレイドライブのSATA基盤1
LGブルーレイドライブのSATA基盤2
LGブルーレイドライブのSATA基盤3
LGブルーレイドライブの内部1
LGブルーレイドライブの内部2
PC DELL XPS 8700内部1
PC DELL XPS 8700の内部2
上から
【光学ドライブ】
■MATSHITA DVD+-RW SW830
■HL-DT-ST BD-RE BH12NS30
【HDD】
■ST3300820SCE 300GB(増設)
PC DELL XPS 8700内部3
【光学ドライブ】
■HL-DT-ST BD-RE BH12NS30周辺
DELL XPS 8700
スペックは次の通りです。

【CPU】

第4世代 インテル Core i7 4790 プロセッサー
(8M キャッシュ, 最大4.00 GHzまで可能)


【メモリー】
8GB デュアル チャネル DDR3 1600MHz (4GBx2)
(合計16ギガバイトに増設)


【ストレージ(HDD)】

■ST1000DM003-1ER162 1TB 7200 回転
■ST1000DM003-1ER162 1TB 7200 回転(増設)
■ST3300820SCE 300GB(増設)



【光学ドライブ】

■MATSHITA DVD+-RW SW830
■HL-DT-ST BD-RE BH12NS30(増設)
■HL-DT-ST BD-RE BH14NS48 USB Device(外付け増設)



【グラフィックス】

NVIDIAR GeForceR GT 720 1GB DDR3
(ATI AMD Radeon (TM) R9 200 Series 2GB DDR3に交換)


【モニター】

Dell S2340L 23インチ フルHD LED モニタ-
(23 VIS、ワイドビュー、DCR 8M)(VGA/HDMI)


【オーディオ】

■1AX210 USB ステレオ スピーカー
■DW 1704 + BT4.0
[802.11bgn + Bluetooth 4.0, 2.4 GHz, 1x1]
■サウンドカード
 Bluetooth オーディオ
 Realtek High Definition Audio
 USB オーディオ デバイス
 AMD High Definition Audio Device


【マウス、キーボード】

ワイヤレスマウスがワイヤレスマルチメディア日本語キーボードに含まれてます。
Dell ワイヤレスデスクトップキーボード&マウスバンドル (日本語版)


【OS】

WindowsR 8.1 (64ビット) 日本語


【付属アプリケーション】

■AdobeR Photoshop Elements &
Adobe Premiere Elements, デジタルデリバリ
■デル SRV ソフトウェア 1704,8700
■Dropbox ソフトウェア
■McAfee(R) 30day Trial
■CyberLink メディア Suite 2.0 DVD など
顧客を支援しないLG顧客支援チーム

たった1回の抜き差しで破損した 「LG ブルーレイドライブのSATAコネクター」

 最近、DELLから購入したPC XPS 8700に、LGブルーレイドライブを接続しようとしたら、ドライブのSATAコネクター(電源側)が破損した。
 この原因についてLGに問い合わせたところ、「
ああ言えばこう言う」の逃げの一手だった!

LGブルーレイドライブ BH14NS48
その過程は次の通りです。
 1.PCに、LGブルーレイドライブ(以下BDと略)を増設。
 2.BDのSATAコネクターに、PCのデータケーブルと電源ケーブルを接続。
 3.ここで、増設HDDコネクターと交換のため、BDから、データケーブル   と電源ケーブルをいったん抜く。
 4.この時、どういうわけかBDのSATA(電源側)コネクターが破損した。


 しかし、このSATAコネクターをよく見ると、どう考えても、通常、破損しようがない(接点を押さえているサポーター)が抜けていました。(写真1)

写真1(破損したSATAコネクター)

 私はまさかと思いつつ「通常の使用方法で破損」したのが腑に落ちないため、購入先のツクモサポートセンターに問い合わせをおこなったところ、つぎのような回答が届きました。

購入店・注文ナンバー: 9002218130
商品名: BH14NS48

■質問
 最近デルから直接購入した、DELL XPS 8700に当ブルーレイドライブを接続しようとしたらSATAドライブ用受側コネクタの「電源側が破損」してしまいました。これは保証の対象になるかどうかお知らせください。
■回答
 お客様の元で発生した破損につきましては、メーカーの判断で、原因の如何にかかわらず保証対象外となります。そのため、申し訳ございませんが、ご対応させていただく事が叶わない次第でございます。
-------------------------------------------
 ツクモサポートセンター
-------------------------------------------



 このように、ツクモサポートセンターでは、現品を見ないで、商品に欠陥がないと判断した上で「保証対象外」という判断をしたわけです。

 私としましては、仕方がないので、BD(BH14NS48)のSATA(受け側)コネクターを、ネットから入手(同型の中古BDから基盤を購入)し、BD(LGブルーレイドライブ)の破損したコネクタと交換し、無事に修理完了。
現在は、外付けBDドライブとして順調に動作しています。(写真参照) 
外付けドライブとして復活したBD(LG BH14NS48)
 さて、ツクモサポートセンターが、現品を見ないで「保証対象外」という回答した件について、その確認のため、LGに問い合わせました。
LGからの回答は下記の通りです。
【問い合わせ1】

Received Date : 2015-08-14 19:40 17
The type of inquiry : その他
Product/Model No. : CD/DVD storage/BH14NS48

【質問】
 最近、デルから直接購入したPC、DELL XPS 8700に、当ブルーレイドライブを接続しようとしたら、BH14NS48のSATAドライブ用受側コネクタの「電源側が破損」してしまいました。
 このことについて、販売店(ツクモサポートセンター)に問い合わせたところ、「
お客様の元で発生した破損につきましては、メーカーの判断で、原因の如何にかかわらず保証対象外となります。そのため、申し訳ございませんが、ご対応させていただく事が叶わない次第でございます。」という趣旨の回答がありました。
 そのため、わたしは、ヤフオクでBH14NS48のジャンク機を購入して「電源コネクタ側基板」を交換したところ、無事に動作することを確認しました。
現在も問題なく、今回購入したBH14NS48が動作しております。
 そこで、私が問題としているのは、販売店(ツクモサポートセンター)が、現物を見もせずに「
保証対象外」という判断を下したことです。
 現物のSATAドライブ用受側コネクタは、どう見ても破損しようがない、接点を押さえている板(サポーター)が抜けてしまっています。
貴社の、ご見解を伺いたく存じます。
【回答】
 製品を拝見させて頂いていない状況でのご判断はしかねますが、一般的な基本のご対応と致しましては、製品破損の状況ですとメーカー保証対応外となる事が通常ではございます。
---------------------------------------------------------
 LG Electronics Japan
 カスタマーサポートセンタ-顧客支援チーム
---------------------------------------------------------



 この回答において、LGは、『製品を拝見させて頂いていない状況でのご判断はしかねますが』とのことなので、当該商品BD(LGブルーレイドライブ)の破損したコネクタ部分の写真(写真1参照)を添付して、再度、問い合わせをしたところ、次のような回答が来ました。
【問い合わせ2】

Received Date : 2015-08-15 18:00 37
The type of inquiry : その他
Product/Model No. : / BH14NS48

【質問】
 「
製品を拝見させて頂いていない状況でのご判断はしかねますが、・・・」とのことですので、現物の接点部の写真を添付します。
【回答】
 添付頂きました画像は拝見させて頂きましたが、製品の拝見とは実際に製品を点検させて頂いての事となります。前回のお話でもご案内させて頂きました通り、ツクモ様よりご案内の有った、「お客様の元で発生した破損につきましては…」等の製品の破損の状態に関しましてはメーカー保証対象外とさせて頂いております。
---------------------------------------------------------
 LG Electronics Japan
 カスタマーサポートセンタ-顧客支援チーム
---------------------------------------------------------



 この回答から言えることは、問い合わせ1の【質問】の内容を全く理解していないということです。
 問い合わせ1の質問では、『「電源コネクタ側基板」を交換したところ、無事に動作することを確認しました。』と記載したように、今回購入したBD(BH14NS48)は、現在も問題なく動作しているのであり、「保証についての質問ではない」のです。
 私が問題としているのは、販売店(ツクモネットショップ)が、現物を見もせずに「保証対象外」という判断を下したことであり、更に、通常の扱い方をしたにも関わらず、破損しようがない接点『SATA受側コネクターを押さえているサポーター・(接点板)』が抜けたということです。
この質問1を読めば、保証に関する質問ではないことが分かると思います。

 そこで、私は、LGが問い合わせ2の回答で、『製品の拝見とは実際に製品を点検させて頂いての事となります』と言うので、製品のBD(BH14NS48)を、LGに送付することにして、次のような質問を行いました。
【問い合わせ3】

Received Date : 2015-08-16 16:01 21
The type of inquiry : その他
Product/Model No. : /BH14NS48

【質問】
 「
添付頂きました画像は拝見させて頂きましたが、製品の拝見とは実際に製品を点検させて頂いての事となります。」との事ですが、製品はすでに、修理が完了し、外付けブルーレイドライブとして動作しております。
実際に製品を点検させて頂いての事」のようですので、当該製品を送付したいと思いますので、送り先をご連絡ください。
【回答】
 以前のお客様からのお話で、ドライブの破損部分をお客様ご自身で、お直しして頂いた旨のお話がございましたが、弊社メーカー以外での製品の分解や修理をした製品に関しましてはサポート対象外になる為、現状では既にお客様の製品を点検させて頂く事も出来かねてしまいます。
 本来であれば、不具合が起こった最初の段階(お客様が製品に手と加えていない段階)で送って頂いた場合であれば、点検させて頂く事自体は可能ではありましたが上記理由により、現在では点検自体もできかねてしまいます。
おそれいりますが何卒宜しくお願い申し上げます。
---------------------------------------------------------
 LG Electronics Japan
 カスタマーサポートセンタ-顧客支援チーム
---------------------------------------------------------



 この問い合わせ3の回答では、私が問題としている件に全く答えていません。
 1.販売店(ツクモネットショップ)が、現物を見もせずに「保証対象外」  という判断を下したことについて。
 2.通常の扱い方をしたにも関わらず、破損しようがない接点(SATA受側  コネクターを押さえているサポーター)が抜けたことについて。


 つまり、早い話が、LGカスタマーサポートセンタ-顧客支援チームは、顧客の意見など、まったく聞く耳もなければ、まともに答える意思もないということです。

 LGカスタマーサポートセンタ-顧客支援チームが主張する「ドライブの破損部分をお客様ご自身で、お直しして頂いた旨のお話がございましたが、弊社メーカー以外での製品の分解や修理をした製品に関しましてはサポート対象外になる」のであれば、購入先のツクモ(ツクモネットショップ)が、最初から、現品の状態を確認し「点検」なり「修理」なりの対応をとるべきではないでしょうか。

次はおまけです。

Received Date : 2015-08-17 00:30 44
The type of inquiry : その他
Product/Model No. : /BH14NS48

【質問】
貴社の回答は、すべて、ホームページに掲載させて頂きます。
マニュアル通りのご回答ありがとうございました。
【回答】
おそれいりますが重ね重ね何卒宜しくお願い申し上げます。
---------------------------------------------------------
 LG Electronics Japan
 カスタマーサポートセンタ-顧客支援チーム
---------------------------------------------------------


以上、LGカスタマーサポートセンタ-顧客支援チームによる「ああ言えば、こう言う」の逃げの一手の対応でした。

 
2015/09/01 石川栄一
事件と世相 本館
 
『NYタイムズ東京支局長指摘 直撃インタビュー 』 アメリカ側から見える日本の真実の姿
『国の根幹が変わるのに、新聞が反論を載せない異常』

 相変わらず安倍政権の支持率は高いが、不思議なことだ。庶民にアベノミクスの恩恵はまったくないし、イスラム国の人質事件は最悪の結末に終わった。政治とカネの醜聞が噴出し、大臣がまた辞任した。
 そんな中で、安倍政権は平和憲法をかなぐり捨てる法整備を進めているのに、世論は怒るわけでもない。その理由を尋ねると、来日して12年になるニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏からは明快な答えが返ってきた。

『報じない大メディアが悪いのです』。

Q、――この調子でいくと、今月中にも自衛隊が世界中に出ていって、戦争協力する法案が提出されることになります。国の形が完全に変わってしまうのに、日本人は関心も示さない。どう思いますか?
A、(マーティン・ファクラー)こうなっているのは2つの大きな要因がありますね。ひとつは自民党一強、野党不在の政治状況。
もうひとつはメディアが安倍政権を怖がって批判を控えていることです。



Q、――やっぱり、怖がっているように見えますか?
A、見えますよ。日本はいま、これまでとは全く異なる国家をつくろうとしている。憲法に基づいた平和主義を守るのではなく、米国や英国の仲間になろうとしている。果たして、それでいいのか。大きな岐路、重要な局面に立っているのに、そうした議論が何もないじゃないですか。これは本当に不思議なことです。恐らく多くの国民は、戦後以来の大きな変化が起こっていることすら知らないんじゃないですか。
私は何も新聞に反安倍のキャンペーンをやれと言っているわけではないんです。安倍政権はこういうことをやろうとしているけれども、そこにはこういう問題点や危険性がある。こういう別の意見もある。せめてさまざまな立場の見方を紹介して、幅広い議論を喚起することが必要なんじゃないですか。


『権力を見ない新聞を国民が信じますか?

Q、――しかし、それすら大新聞はめったにやらない。何か安全保障の問題はタブー視されているような印象すらありますね。
A、なぜ、タブー視されるのでしょうか。
9・11の直後、米国では国を守るためには団結しなければダメだという危機感がメディアの批判精神を鈍らせました。これは大きな失敗でした。
あの時こそ、メディアは冷静になって、きちんとブッシュ政権に問うべきだったんです。本当にイラクに大量破壊兵器はあるのか。本当に、この戦争をしなければいけないのか。しかし、それをやらなかった。
それと同じ失敗を日本のメディアは犯そうとしていますね。
いま、日本の国家はどういう危機に直面しているのでしょうか? 台頭する中国への不安や懸念ですか? イスラム国の脅威ですか? そんな小さなことでジャーナリズムが批判精神を失うのでしょうか。


『政治利用されるISIS(イスラム国)人質事件』

Q、――イスラム国の人質事件ではニューヨーク・タイムズ紙に掲載された風刺画が非常に印象に残っています。「イスラム国は平和主義から逸脱する日本を後押しするか」というタイトルで、車夫(=日本人)の鼻先にイスラム国の旗をぶら下げ、「憲法改正」の車を走らせる安倍首相が描かれていた。キャプションには「安倍晋三“大統領”は復讐を呼びかけた」とあった。
A、ニューヨーク・タイムズの論評を扱う部署には複数の風刺画家がいます。そのうちのひとりがアイデアを提示した。私が関わったわけじゃありません。


Q、――ということは、米国人は一般的に安倍首相のことを、そういう目で見ているということですね?
A、そうだと思いますね。ひとりがアイデアを出して、みんながそうだね、と賛同したわけでしょうからね。


Q、――それなのに、日本の大メディアは風刺画どころか、安倍政権が人質救出に何をしたのか、しなかったのか。イスラム国と戦う国への2億ドル支援演説の是非もほとんど論じていませんね。
A、私は中東で調査をしたわけではありませんが、東京から見ている限り、安倍政権はあらゆるルートを駆使したわけではないでしょう。
最初からあきらめていたように見えます。
身代金の支払いにしても早い段階から拒否しているし、この事件を政治的に利用し、テロに屈しないと宣言して米英の一員であることを国内外にアピールするのが狙いだったように感じました。



Q、――人質救出に全力を挙げると言っていましたけどね。
A、政治っていうのは、みんなそんなもんですよ。
オバマ政権も一緒です。ただ違うのはメディアが政府の言い分をうのみにするかどうかです。私は列強の仲間入りをしたいという安倍首相が悪いとは言いません。彼は素直に自分のやりたいことをやっている。
それは就任前の言動から容易に推測できたことです。
問題はそれに疑問も挟まず、従って何の質問もせず、説明も求めないメディアの方です。だから、安倍首相が積極的平和主義を唱えれば、多くの国民が何の疑問も持たずに“そんなもんか”と思ってしまう。ここが危険なところです。


『ごく一部の人が管理し動かしている日米同盟』

 積極的平和主義で、米国と一緒になって戦う。それが日本を守ることになる。こういう主張の政治家、官僚、学者、評論家たちは、米国がやっていることが正義であるという大前提に立っていますね。
 ただし、そういう人々の多くは、アーミテージ元国務副長官に代表されるジャパンハンドラーと呼ばれる人としか付き合っていない。このほど、ファクラーさんが出された孫崎享さん(元外務省国際情報局長)との対談本、「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)の中には、こういうことが書いてあって、本当に驚きました。
 ハンドラーという言葉は「犬を扱う」ようなイメージだというし、そのジャパンハンドラーの人々が米国を動かしているわけでもない。これは非常におかしなことだと思います。
 ジャパンハンドラーの人々は非常に保守的で、オバマ政権にも入っていないし、決して米国の意見を代表しているわけではありません。それなのに、自民党の政治家や外務省の官僚はジャパンハンドラ―に頼ってしまう。

『ジャパンハンドラー(知日派)とは軍産複合体などの既得権益集団のことだった』

Q、――対談本でファクラーさんは、「ジャパンハンドラーは『既得権益集団』で、コンサルティンググループなどをつくり、強欲な商売をしている」とおっしゃっていた。
A、鳩山政権の時に脱官僚を唱えた瞬間、日米関係がぶっ壊れたでしょ? あんなにすぐ壊れるものかと驚きました。
このことは日米のパイプがいかに細いかの裏返しです。
一部の自民党の政治家や官僚とジャパンハンドラーとの付き合いしかないのです。日米関係に関わっている人は非常に少数で、そういう人が同盟関係を管理している。だから、普天間基地の移転問題にしても辺野古しかないという結論になってしまう。もっと幅広い人脈と付き合っていれば、さまざまな意見、選択肢が出てくるはずです。



Q、――集団的自衛権についても、それが日米同盟では当たり前ということになってしまう。
A、確かに戦後70年間、米国と一緒にやってきて、ある意味、安全だった過去の実績はあります。でも、今後もそれでいいのか。
平和憲法を捨てず、平和主義を貫く選択肢もあるし、鳩山政権や小沢一郎氏が唱えたようなアジア重視の道もある。
どちらがいいかは国民が考えた上で決めるべきです。


『こんな民主主義国家 見たことが無い』

Q、――ところが、日本人には、それを判断する情報すら与えられていないんですよ。新聞が選択肢すら報じないものだから。
A、日本のエリートの上の方で、物事が決まっている。
大きな新聞はそちらの方を見て記事を書いている。そんな印象ですね。
新聞社は読者の側に立って、権力を見ていない。権力者の側に立って、国民を見下ろしている。そんなふうに感じます。こんな新聞を国民は信じますか?
 


Q、――このまま米国追随路線をエスカレートさせたら、この国はどうなっていくと思われますか?
A、イスラム国のような事件がまた起こりますよ。米英豪仏などと同じ一員になれば、彼らの敵が日本の敵にもなる。
日本人はそこまでの覚悟をしているのでしょうか。
いずれにしても、民主主義国家でこれほど異常な一党支配の国は私の知る限り、見たことがない。戦前と似ていると言う人がいますが、野党不在で政権と違う意見を許さないという雰囲気においては、似ているかもしれません。
健全な民主主義に不可欠なのは議論なのに、それを忘れているとしか思えません。2015年3月16日(日刊ゲンダイ)


『マーティン・ファクラーが語る、サルでも分かる現代日本政治の際立った特徴』

 日本文化や社会、日本語が堪能な帝塚山大学のジェフ・バーグランド教授は、英語ではYES・NOの結論部分が必ず最初に来るが日本語では逆に最後になるので、喋っている最中に相手の顔色を見て『これは不味い』と思ったら変更出来るので大変便利な言語だと語っている。
 今回のニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏のインタビュー内容ですが、常にYES・NOの結論部分を最初にはっきり『断定的』に言うので『何を主張したいのか』が実に分かり易い(サルでも分かる)特徴がある。


元外務省国際情報局長(日本版CIA)の孫崎亨氏(写真右側)との対談本『崖っぷち国家 日本の決断』 (日本文芸社、2015年2月)も出版している。
▽マーティン・ファクラー 1966年生まれ。ダートマス大卒業後、イリノイ大、カリフォルニア大バークレー校で修士。ブルームバーグ東京支局、AP通信東京支局、ウォールストリート・ジャーナル東京支局などを経て、ニューヨーク・タイムズ東京支局長。近著に「崖っぷち国家 日本の決断」(日本文芸社)。


『オバマに極めて近い(ジャパンハンドラーとは遠い)マーティン・ファクラーNYタイムズ東京支局長』

 建前として『不偏不党』(公正。中立)掲げる日本の新聞社とは大違いで、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙は露骨にオバマ大統領支持を鮮明にしている。
 今回の安部晋三首相とジャパンハンドラーとの癒着、安倍政権と日本の大新聞との同衾を厳しく批判するマーティン・ファクラーNYタイムズ東京支局長のインタビュー記事ですが、単なるアメリカの一新聞社の外国特派員の見解であると見るよりも、オバマ政権の本音部分(日本の世論に向けた観測気球)だと解釈するほうが正解だろう。
 そもそも対テロ戦争を始めた(宗教右派に近い)ブッシュ共和党政権に対して『チェンジ』をスローガンに成立したのが現民主党オバマ政権である。
オバマ大統領の最初の外国賓客は何と日本国の首相だったが、右翼靖国路線の麻生太郎に対する隠すことが出来ない軽蔑感や嫌悪感は露骨な水準だったのである。
 その意味で今回の『こんな民主主義国家 見たことが無い』とのニューヨーク・タイムズ東京支局長の発言内容ですが、極右路線の安倍晋三首相の暴走に対して、オバマの堪忍袋の緒が切れかかっている可能性が有るのですから恐ろしい。
 2013年の年末にNYタイムスに掲載された「ナショナリズム」というホッピングに乗って、2014年の歴史的地雷原(HISTORICAL MINEFIELD)に飛び込んでいく日本の安倍晋三首相の風刺画。

 本来政治家なら誰もが踏み込んではならない『歴史問題』と言う、恐ろしい地雷原の側で、ピョンピョンとホッピングして無邪気に遊び続ける安倍晋三。『これから何処に飛ぶかは予測不能』どころか、誰にでも日本の悲劇的結末は予想済みである。(『灯台もと暗し』とは言うが、世界で知らないのは日本人だけ)

『日本の安倍政権が掲げる「積極的平和主義」とは、大昔の「八紘一宇」のことだった』

 安倍晋三が唐突に言い出した積極平和主義ですが、・・・この言葉の意味が、マスコミの有識者には、誰にも分からない。勿論自民党員にも判らない。
共産党とか社民党など左翼は『地球の裏側でも戦争する心算か』と心配するが、自民党一の切れ者である高村自民党副総裁は、地球の裏側どころか必要なら『地球の外側でも戦う』と答えているが、自衛隊はウルトラマンではない。
自民党一の知恵者でも『積極平和主義』が理解出来ず、宇宙戦士のガンダムと混同しているのである。もう、無茶苦茶。何でも有りなのです。

 知識とか経験、教養が有る有識者ほど判らない不思議な安倍晋三首相の主張する積極平和主義ですが、参議院予算委員会での三原じゅん子自民党女性局長と麻生太郎副総理と質疑答弁では、安倍の『積極平和主義』とは、ズバリ『八紘一宇』のことだったのです。
 誰にも分からない安倍晋三の積極平和主義ですが、その答えとして、今回参議院でのボケとツッコミの掛け合い漫才『八紘一宇』ですが、これ程分かりやすい話も無い。
 19世紀のパックス・ブリタニカや、20世紀のパックス・アメリカーナの劣化コピーが大日本帝国の掲げた八紘一宇だった。その『八紘一宇』ですが失敗したからと言って、大成功したパックス・ブリタニカや、パックス・アメリカーナの真似なのです。(一方が悪いなら、もう一方も悪い)
 本来責められるべきは日本の八紘一宇(コピー)ではなくて、本家本元の米英列強の覇権主義こそ責任が有る。

『八紘一宇の裏側は、鬼畜米英』八紘一宇と鬼畜米英は別々では無く、二つで一つのセット

 大失敗したスローガン『八紘一宇で』ですが、大成功したパックス・ブリタニカや、パックス・アメリカーナの真似なのですが、本物と正面衝突して70年前に崩壊する。
 それで今度は安倍晋三の積極平和主義では、パックス・アメリカーナとセット(二人三脚)で八紘一宇を実行するとの話なのでしょうが、『アフガン戦争』とか『イラク戦争』での失敗で、始める前からもう寿命が尽きています。
パックス・アメリカーナも八紘一宇も同じで、賞味期限が、とっくの昔に終わっていた。
 賞味期限切れ食品のラベルを張り替えただけの『食品擬装』事件と同じで、昔失敗した『八紘一宇』を新しく『積極平和主義』と名前を変えても成功するはずが無い。
(また、アメリカ大統領のオバマが日本の右翼政治家の安倍や麻生を嫌うのは当然で、八紘一宇と鬼畜米英は別々のスローガンでは無くて、二つで一つのセット『一つのコインの裏表』だったのである)

 そもそも戦後レジームからの脱却なら、復活するべきは米英の猿真似(二番煎じ)の八紘一宇では無くて、日本独自の素晴らしい四文字熟語のスローガン、『鬼畜米英』である。
 ところが、安倍晋三らの『なんちゃって右翼』の場合には、鬼畜米英では無くて、アメリカ命の対米従属の植民地根性なのである。
 白井総の永続敗戦論によると、日本の敗戦を否定する『八紘一宇』がアメリカと正面衝突することが分かっているので、日本の右翼の場合には底無しの対米従属の売国路線によってバランスをとってアメリカからの攻撃を防止している。(日本の右翼歴史修正主義と対米従属がセットになっている)

 そのためにアメリカとしては日本の歴史修正主義は国益に叶うので、(幾ら腹立たしく思っても)見て見ぬふりをして今までは放置していた。
基本的に売国的な右翼国粋主義騒動の全ての元凶は、70年前の日本の敗戦とその否定なのですから根が深い。(誰一人も敗戦の責任を取らず、あろうことか逆に戦勝国として振舞ってるのである)

 それにしてもアメリカの今の態度が不思議なのです。
オバマ政権の安倍晋三に対する嫌悪感とか侮蔑は露骨過ぎて誰にでも分かる水準なのですが、それなら鳩山由紀夫を引きずり下ろしたように官僚組織とかマスコミなどを使えば簡単に引き摺り下ろせる。ところが逆の態度で政権が長持ちしている不思議。
 人情として誰でも尾を振る犬は打てないが、牙をむいて吼える可愛げの無い犬は誰に遠慮することも無く、(飼い主の義務と権利において)思う存分殴ることが出来るのです。想像できないほど最悪のことが、今の日本で密かに進行している可能性が高い。
事件と世相 本館
狂人・安倍晋三の驚くべき“抜き打ち解散総選挙”の裏側
カレイドスコープ(Sat.2014.11.22  )
内閣府の発表の数時間前に、ゴールドマン・サックスは「日本は景気後退に入った」というレポートを発表していた。
カミカゼ黒田とマッドネス安倍のコンビは世界経済崩壊のトリガーとなるか
信じがたいことが日本で起こっています。

海外の投資家の間では、ずっと前に、日本が、トリプル・ディップのリセッション(景気後退)に突っ込んだと認識しています。
これによって、アベノミクスの輝きは、すでに失われています。

この「トリプル・ディップのリセッション」とは何か。日本のメディアは一切報道しません。
ディップ(dip)とは、「一時的な下落」のことです。
ですので、欧米メディアは、日本は「トリプル・ディップのリセッション」に、瞬間的ではあっても、突入したことがあると報じているのです。(zerohedge.com)
ですから、リーマンショック以降、今回で4回目のディップということです。
その翌日、安倍総理は衆院の解散を宣言しました・・・
これは、10月5日のゴールドマンサックスのレポートを基にした日本の景気判断です。
そして、10月7日には、「日本はトリプル・ディップ・リセッション(景気後退)に突入した」と発表しています。それが下の囲み記事です。
内閣府は、景気動向指数であるコンポジット・インデックス(CI)と一致する7ヵ月平均のサインが変化したこと、また、景気の反転において見られる一つ以上の標準偏差の変化によって今までの景気判断が揺るがされていることから、4月以降初めて「弱含み」から「景気が転換したことを示す」と下方修正した。
内閣府は、景気動向指数であるコンポジット・インデックス(CI)と一致する7ヵ月平均のサインが変化したこと、また、景気の反転において見られる一つ以上の標準偏差の変化によって今までの景気判断が揺るがされていることから、4月以降初めて「弱含み」から「景気が転換したことを示す」と下方修正した。
このゴールドマン・サックスの「日本、景気後退入り」レポートが出た数時間後、内閣府も、安倍晋三が圧力をかけても隠しておけなくなったのか、観念したかのように、「日本はリセッション入りした」と発表しました。

つまり、ゴールマン・サックスは、内閣府の発表の数時間前に「日本経済はゲームオーバーだ」と言っていたのです。
しかし、日本のメディアが報道する段になると、「リセッション(景気後退)」という言葉はかき消されて、「下方修正」という言葉でぼかしてしまうのです。

プロ投資家向けには、証券会社などが、「既に景気後退局面に入った可能性が高いことを暫定的に示している」(楽天証券の10月8日のレポート)と書いています。そして、「日銀の政策変更なし」を強調しています。

こんなことは、安倍内閣の御用メディアと化した大マスコミは決して書かないことです。だから、国民はまだ景気後退に入ったとは思っていないのです。

ディヴッド・ストックマンは、確かに、「日銀の精神異常者は、全力で“通貨詐欺”に飛びついた」と日銀の黒田総裁をこきおろしています。

黒田総裁は、11月12日午後の衆院財務金融委員会に出席し、維新の党の伊東信久議員の質問に対して「(10月31日に開いた金融政策会合で決めた追加緩和について)2015年10月に予定される消費税率10%への引き上げを前提に実施した」と答弁しました。
どういうことだか分かりますか?

ゴールドマン・サックスは、10月頭から「日本・景気後退入り」の発表のタイミングをうかがっていたのです。そして、とうとう10月7日に正式発表。
慌てて内閣府も、その数時間後、「景気後退入り」を臭わす発表を出したのです。

しかし、安倍晋三・黒田東彦連合だけは、消費税を10%に上げるために、アベノミクスが生きているかのような演出をさせようと、10月31日、日銀がサプライズの追加緩和を決定したと発表、日経平均株価は爆上げしたのです。

だから、欧米メディアは、一斉に、この二人を狂人だと言い出したのです。

マックス・カイザーは、banking KAMIKAZEという言葉を、安倍政権誕生と同時に使い始めました。
安倍晋三、この男が、世界経済崩壊の引き金を引くだろう、と予言していたのです。

ファウンダメンタルも何もすべて無視。海外のアナリストたちの警告もすべて無視。そして、国債を買い取り、ひたすら札束を増刷し、さらに私たちの年金基金を株式市場に突っ込んでいるのです。

この二人は、もう何も聞かないのです。これをbankig KAMIKAZEとマックス・カイザーが言っていたのです。
そこまでやっても、結果は4─6月期に続き2期連続のマイナス成長。それで、いったんは、矛を収めようと、11月18日、10%の消費増税の先送りを決めたのです。
これが「大義なき解散」の真相です。

海外の投資家たちが「景気後退入り」と断言しているのですから、日銀が量的金融緩和によって株式市場に資金(納税者の金)を突っ込めば突っ込むほど、暴落のリスクが高くなるということを示しています。
かろうじて立ち泳ぎしている日本経済に、消費税という 鉛の救命胴衣を装着させようとしている安倍シヌゾー
Why Japan’s Money Printing Madness Matters
狂気を印刷しているジャパン・マネーは、なぜ問題なのか
この記事は、こうした見出しを掲げて
「その狂人首相は、日本経済の残されたものを破壊するため、彼の(破滅へ向けた)運動に参加させようと、より多くの支持者を集めるための“抜き打ち選挙”を指示したのだ」と言っています。

また、「安倍は、もう有権者には止められないどころか、安倍より、ずっと分別のある経済界の指導者たちでさえ止められないだろう」とも。

野村証券の金融経済研究所チーフエコノミスト、 木下智夫は、「経済の先行きに悲観的な理由は何もない」と言っていますが、果たして本当なのか。海外のアナリストたちは、こんな御用証券マンの言うことなど信用していないのです。
安倍首相のブレーン、本田悦朗内閣官房参与は、今週火曜日、レポーターにこのように言いました。
「これはデフレ脱却のまたとないチャンスだ。とはいうものの、この展望からすると、さらに消費税を上げることは危険だ」。

本田悦朗内閣官房参与
本田内閣官房参与は、「10%消費増税」を阻止するため、多くのメディアを通じて、増税の危険性を訴えていますが、どちらかというと、安倍の御用メディアと化した国内メディアより、結果論ですが、海外メディアでの活動のほうに重点を置く形になっています。

安倍=黒田の狂人コンビが、どうにかして国民と投資家の裏をかき、サープライズを仕掛けようかと画策している時期に、本田内閣官房参与は、9月9日のウォールストリートジャーナルのインタビューに応えて、こう言っています。
「アベノミクスと消費税率引き上げは逆向きの方向性を持った政策。本来思いっきりアクセルをふかしているときにブレーキをかけたらどうなるか。車は必ずスピンする」。
確かに、消費増税18ヵ月の延期は、安倍晋三という経済音痴にとって、自分自身が狂人であったこと証明できる機会を先延ばしにしたことになります。
最後に、「あるもう一つの見方」を示しておきましょう。
ゴールドマン・サックスは、世界支配層のための集金マシーンであることは疑いのないことです。
ゴールドマン・サックスの悪魔的に頭のいい人間たちが、このタイミングで「日本経済のリセッション」のレポートを出したことは、日本に撃鉄を弾かせたいのかもしれない、ということです。

そして、安倍晋三が、今でも有識者の警告を無視して、アベノミクスに執着している様は、まるで福島第一原発の瑕疵について複数の内部告発があったにも関わらず、すべてを無視し、安倍晋三と自民党が何ら措置を講じなかったせいで史上最悪の過酷事故を引き寄せた、あのときの状況に酷似しているということを忘れてはならないのです。

狂人に欠落しているもの-それは自分がそうであることを自覚する能力です。だから、何度でも国民の命を奪うでしょう。
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 自民党幹部も「総理の精神状態が おかしい」と言い出した
安倍晋三が、これを言った時点で、すでに狂っているのです。だから、今頃になって「総理の精神状態がおかしい」と言い出した自民党幹部の精神状態もまた、おかしいのです。
安倍晋三首相が「報道ステーション」のみ 出演しなかった裏事情
安倍首相が解散会見を行った11月18日、夜のニュース番組にちょっとした異変が起きた。
通常、解散のような大きな政治的決断をした後は、各局のニュース番組に首相自ら出演するのが慣例になっている。
実際、この日の夜も安倍首相は『ニュースウ オッチ9』(NHK)を皮切りに、『NEWS ZERO』(日本テレビ系)、『NEWS23』(TBS系)に立て続けに出演した。
『NEWS23』では景気に対する街の声を番組側が紹介したところ「厳しい」という意見のほうが多かったため、安倍首相が逆ギレする一幕もあったが、とにかくこれらの番組では、安倍首相自身が顔を出して、解散理由を述べていた。

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自民党幹部も「総理の精神状態がおかしい」と言い出した
STOCKMAN'S BEST OF THE WEEK, STOCKMAN'S CORNER
事件と世相 本館
【東電テレビ会議】 情報統制と被曝〜震災3日後に何が
 会議中に3号機が爆発・会議室は大混乱(映像16分頃)
福島県知事「報道する場合”健康被害がない”と文言を入れてほしい」と要請
OPTVstaff 2014/05/20 に公開
 OurPlanetTVは、東京電力福島第一原発事故直後の生々しい現場を記録した「東電テレビ会議」映像を約3時間半に編集し、映像ドキュメント『東電テレビ会議~49時間の記録』を制作。全国にDVDの貸し出しを行っている。この度、その中で、特に3・2号機のベントや被曝シュミレーションなどに関する場面と情報統制に関する場面を25分に再編集し、ネットにて公開することとした。

 今回、編集したのは、2011年3月12日深夜から15日未明にかけての音声付き「テレビ会議映像」。一般公開されており、編集が可能な10時間のフッテージを25分にまとめた。13日の段階で、3号機の圧力が上昇し放射能放出の恐れがある中、本店の緊急対策室にいた高橋フェローが深刻な事態をプレスに公表してはどうかとテレビ会議で提案。これに対し、オフサイトセンターにいた武藤副社長や福島第一原発にいた吉田所長も同意するものの、官邸や保安院から公表を止められる。勝俣会長も事態を楽観視し、「国民を騒がせるのはどうか」と公表に反対していた。

 翌日3月14日。福島県は午前9時からの関係部長会議で、事態を公表する予定だったが、政府(保安院)の強い要請で東電が情報提供を中止。その2時間後に3号機が爆発に至る。爆発後、福島県の佐藤知事は、東電に対して「健康に影響はない」とプレス発表するよう働きかけていた事実も記録されている。同映像は、朝日新聞が5月20日(火)から連載を始めた、いわゆる「吉田調書」(政府事故調が吉田昌郎元所長の聞き取りをまとめた調書)の証言と重なる部分も含まれている。


詳細はこちら
日本では放送できない 報道できない 震災の裏側 Earth quake japan
sato mikan 2014/06/28 に公開
全ての日本人よ!この光景を絶対に忘れてはいけません!
 東日本大震災は2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、およびその後の余震により引き起こされた未曾有の大規模地震災害です。この地震により、場所によっては波高10メートル以上、最大遡上高40.1メートルにも上る巨大な津波が発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害が発生。また、巨大津波以外にも、地震の揺れや液状化現象、地盤沈下、ダムの決壊などによって、北海道南岸から東北を経て東京湾を含む関東南部に至る広大な範囲で被害が発生し、各種インフラ(人々の生活に必須な所謂ライフライン)が寸断されました。
 2014年(平成26年)6月10日時点で、震災による死者・行方不明者は18,502人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万0,410戸が公式に確認されています。震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されています。
 復興庁によると、2014年5月15日時点の避難者等の数は25万8,219人となっており、避難が長期化していることが特徴的です。日本政府は震災による直接的な被害額を16兆円から25兆円と試算。
この額は、被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県の県内総生産の合計に匹敵(阪神・淡路大震災では兵庫県1県の県内総生産の半分ほどであった)。世界銀行の推計では、自然災害による経済損失額としては史上1位としています。
この震災での犠牲者の死因の殆どが、津波に巻き込まれたことによる水死でした。
 津波の中には、大量の砂や海底のヘドロ、港湾施設の重油などの有害物質などが含まれていました。砂が肺に入れば気管を詰まらせ、有害物質が肺に入れば身体を侵す。水死に至る経緯は、これらで呼吸困難になったり、瓦礫が当たり意識を失ったり、3月の­雪の舞う中で低体温を伴ってなど、さまざまな経緯もあったと考えられます。圧死・損傷死・焼死も、ほとんどが津波による瓦礫が要因となっています。
 
ヒトラー最後の日 ~新資料が明かす独裁者の末路~
新説:ヒトラーは死んだ。 しかし、1945年にではなく、ベルリンでもない

新説:ヒトラーは死んだ。しかし、1945年にではなく、ベルリンでもない

 ナチスの独裁者アドルフ・ヒトラーが1945年4月にベルリンの防空壕で自殺せず、南米に逃げたと仮定した場合は?ここで、疑問が生ずる。彼の遺体はどこに眠っているのか?

 アルゼンチンで最近出版された新著「亡命中のヒトラー」で歴史家アベル・バスティ氏は、ナチスの指導者の第二次世界大戦後の生活について、独自の説を展開している。

 1945年、アドルフ・ヒトラーは、10年間住んでいアルゼンチンに避難を求めた可能性がある。しかし、1955年、フアン・ドミンゴ・ペロン政権の打倒後、新しい住み家を模索しなければならなくなった。他の多くのナチスと同じように、ヒトラーはパラグアイに渡り、ドイツに出自を持っていた独裁者アルフレド・ストロエスネルの後援の下に暮らした。バスティ氏がスプートニクの独占インタビューで語った。

 バスティ氏は著書の中で、ヒトラーや他のナチス高官がパラグアイで暮らしていたことを裏付ける諸々の証言を参照している。バスティ氏によると、ヒトラーは1971年2月3日に死亡した。

 「長年にわたって彼を助けた裕福な家族は、葬儀の執り行いを引き受けた。ヒトラーはパラグアイ首都アスンシオンの地下壕に埋葬された。 1973年に地下壕への入り口は密閉され、最後の別れには40人が駆けつけた。その後、出席者の一人、ブラジルの軍人フェルナンド・ノゲイラ・デ・アラウージョが、式典について新聞に語っている」

 それはソ連軍によってベルリンの地下壕が制圧される数日前に始まった長い旅のフィナーレであったかもしれない。本物のヒトラーは影武者の死体を残して愛人エヴァ・ブラウンとともに地下通路から空港へ脱出し、スペインに、次にはカナリア諸島へ飛んだ。そこから潜水艦でアルゼンチンのコモドロリバダビアに向ったのだ。

 「ヒトラーが逃げ延び、ソ連の手に落ちないということについては、米国との合意があった。それはまた、その後対ソ戦に参加した多くの科学者、軍人、スパイにも関わることだ」と歴史家。

 アルゼンチンから逃れた後、1955年にヒトラーはパラグアイのイパカライ湖のほとりにあるホテルに住んでいた。その後、パラグアイ独裁者の最初の妻ストロエスネルに属する家に住んだ。アルゼンチンの歴史家によると、ナチス指導者はまた、ブラジルとコロンビアを訪問した。

 いずれにせよナチス・ドイツの独裁者の人生の物語は、まだ謎と曖昧さに満ちている。
 先に報じられたところによると英国で「ミス・ヒトラー2016」コンテスト が開催された。これは英国のユダヤ人団体の不満を引き起こさないわけがなかった。

【出典】スプートニク日本
2016年07月09日 19:45(アップデート 2016年07月09日 20:06)

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